第二章 高魔の玩具

四、藤花(3)
「あーっ、疲れた」
 全力で高魔を倒した深雪は、力なくその場に座り込んだ。
「大丈夫ですか?」
 自身もぼろぼろになりながら、それでも葉月は優先して深雪を気遣った。もちろん、と応えて深雪は隣に座る葉月を上目遣いで見る。
「葉月は?」
「心配ありません」
 そう返して、葉月は優しく微笑んだ。それを見て深雪も笑顔を返す。無事、とはとても言いきれないが、力ある高魔を二人で倒せた事実が嬉しかった。

「深雪、葉月っ!」
 安堵に息をついていた二人の前に、香穂が姿を現した。
「遅いよ、香穂。あんまり遅いから、高魔は倒しちゃった」
 傍に駆け寄って来た香穂にそう応じる。香穂は手を差し伸べた。
「よくできました」
 笑って言う香穂に、小さく肩を竦めて深雪はその手を取った。勢いで立ち上がる。ふぅ、と息をつく深雪を見ながら香穂は苦笑する。
 実際は高魔を倒すことに自信を持っていなかった二人があの、高魔を倒せるとは思っていなかった。例え余裕で倒せる力を持っていたとしても。
 自信がなければ、高魔と対峙することは難しい。なにせ高魔は自信に満ち溢れている。だから本当は、二人に自信をつけさせるために、香穂は黙って深雪たちと高魔の戦いを見ていた。一切の手を出さずに。せめて、ギリギリに追い込まれるまではと。
 この戦いで自信がつくかどうかはわからなかったけれど、秋と同様に五分五分の賭け。見事に深雪たちは勝ってみせた。
 当たり前、とは思いながらも、心のどこかで香穂は二人の成長に安堵を覚えていた。

「力があがったね」
「ほんと?!」
 香穂がふと漏らした一言に、深雪は信じられないといった顔つきで驚いて声をあげる。
「うん、ふたりとも。もう高魔にもてこずらないですむよ」
 深雪と葉月の顔に笑みが広がっていく。嬉しいと思う二人の心が、伝わってくる。
 ぴっ、と深雪は人差し指を香穂の顔の前に立てた。
「これで香穂の足手まといにならなくてすむかな?」
 香穂は狐につままれたように、不思議そうな表情を浮かべる。
「足手まといだって思ってたの?」
 その言葉に深雪は首を傾ける。
 少なくとも、そう聞き返されるとは思ってもいなかった。「まだまだね」くらいは言われるものと思っていたから。思わず、もっと最悪なことを考えてしまった。
「……それ、以下?」
 きまり悪そうな深雪の表情に、香穂は意地の悪い笑みを浮かべる。
「答えてあげるのは悔しいから、深雪の想像に任せとく」
 途端、深雪の顔に不満そうな表情が浮かんだ。対して、香穂はとても嬉しそうに微笑んでいる。
 深雪よりは理解力のある葉月は素早く悟って、深雪に囁いた。
「私たちの存在が大きいとは、香穂さまの口からは言いにくいそうですよ」
 その言葉は香穂の耳にも届いた。香穂は反論するわけでもなく、ただ優しい笑みを深雪に向かって浮かべると頷いた。
 不満げな顔をしていた深雪も、照れたように笑う。

「秋はまだですか?」
 ふと気づいて、葉月が訊ねた。
「ちょうど今終わったみたい」
 深雪たちと話しながらも、秋を気にかけていた香穂は彼と戦っていた高魔の気配が消え、その存在が消滅したことを感じ取った。同時に外で結界を守ってる拓也に声をかける。
≪もう結界を解いてもいいですよ≫
≪わかった≫
 短い返事とともに、公園内に張られていた結界が解かれていく。
 香穂は疲れきっている深雪の代わりに、彼女が張った結界を解いた。途端、呆然とした姿で立っている秋が現れる。

「秋ッ!」
 名前を呼びながら、香穂は彼の傍に駆け寄った。

「……香穂」
 気づいた秋は、伏せていた顔を上げて香穂を見る。その瞳にはなぜか悲しげな光が宿っていた。

「ごめんね…、秋に厄介な方を任せてしまって……」
 今にも泣きそうな表情で、声を詰まらせながら香穂が言う。そう仕向けたのは自分でありながら。更に香穂は嘘を重ねる。
「あの時は秋に力を戻してあげるだけで精一杯だったのよ。ひとりの高魔を倒した後だったから」
 ごめんね、と。もう一度口にする香穂を、そっと秋は抱き締めた。優しく、包み込むように。

「半身を香穂が倒してくれたから、力が落ちた高魔を僕は倒せたんだ。香穂が力を回復させてくれたから」
 嘘を重ねることで冷え切っていく香穂の心が、ぬくもりに癒されていく。
 顔を秋の胸に埋めて、せめて真実だけが届けばいいのに、と願いながらそれでもまた、嘘と本音を混ぜ合わせて呟いた。
「……使い人、失格ね」
 秋はぎゅっと香穂を抱き締める腕に力をこめる。
 その耳元で、優しく囁いた。
「香穂が苦しい思いするよりは、ましだよ ――― 」
 ふと、香穂は重みを感じた。
 一方的に秋が体重を預けてきたのに気づいて、顔をあげる。

「秋くん?!」

 離れているところで二人を見守っていた深雪たちが、急に身体を傾けた秋を訝って、駆け寄ってくる。
「大丈夫よ。疲れて眠っちゃっただけ」
 香穂がそう伝えると、深雪と葉月もほっと胸を撫で下ろす。安心したのか、深雪は眠そうにあくびをもらした。
「凪城もお疲れさま、だな」
「拓也くんっ!」
 結界を解いて姿を現した拓也の傍には、無事な姿で付き人が寄り添っていた。

「よかったですね、無事に付き人が戻られて」
 葉月が言うと、拓也は心から嬉しそうに頷いた。
 不意に隣にいる付き人の静を肘でつつく。彼女は照れているのか、頬を赤らめながら、秋を支えている香穂に向かって口を開いた。
「本当に有難うございました」
 素直にぺこり、と頭を下げる。
 『別にあなたを助けるために動いたわけじゃない。』そう言おうとして、だが香穂の言葉は別の声に遮られた。

 「どういたしまして」

 香穂は驚いて深雪たちの方を見る。けれど、彼女は否定するように首を横に振った。

「お礼なら、香穂に言わない…と ――― 」
 皆の視線が、香穂の腕の中で眠っている秋に集まった。

 その幸せそうな寝顔に、笑いが起きる。秋を起こさないよう、密やかに ――― 。



 散っていた藤花は軽やかな風に吹かれていった。
 さらさら、と。
 その花びらを月明かりのもと、手の平に握り締める者がいた。闇に紛れて、その姿は溶け込むように消えていった。愉しげな笑い声を残して。


 屋敷の縁側で、暖かい日差しを感じながら香穂と秋は寄り添って、座っていた。繋いでいた手にぎゅっ、と力を込めて香穂は訊く。
「もう疲れはとれた?」
「半日も眠ってたからね」
 取れたよ、と頷く秋に、ホッと安堵したように香穂は息をついた。
 風が二人をそっと、過ぎていく。

「香穂……、」
 秋の少し躊躇ったような呼びかけに、香穂は「はい?」と優しく応じる。そのあまりに優しい声音に、秋はなぜか泣きそうになって、言いかけた言葉を見失った。慌てて、首を横に振る。
 「なんでもない。ごめん、忘れて」

 香穂は苦笑しながら頷いた。
 本当は秋の言おうとしていたことは想像がついていた。だから、口に出させないように、その方法をとった。我ながら卑怯ね、と。香穂は素知らぬ顔で自嘲する。
「わからないことだってあるのよ、私でも」
 黙っていることが苦痛に思えて、せめて少しでもと、香穂はそう口にした。
 秋は唐突な言葉に、ハッと息を呑む。戸惑う気配に構わず、香穂は続けた。

「だけどね、秋。優しいだけでは生きていけない。ときには残酷になることだって必要になってくるんじゃないかな」
 恐らくはそういうこと。
 秋とあの高魔との戦いの全てを香穂は見守っていたのだから、知らないはずがない。最後に高魔が残した言葉を。
 その言葉に秋が何を思ったのかも、恐らく ―― 確実といえるほど想像がつく。
 だけど、割り切るしかない。それが正しい、とは言いきれなくても。少なくとも、香穂にとってはそれが全てだから。
 何を犠牲にしても秋だけは失えない、ということ。
 たとえ高魔に愛がわかって。それ故に滅ぼす以外の別の方法があったのだとしても、あの時の最善は ―――― 。

「少なくとも、私には他の誰かよりも秋が……、秋だけが大切なのよ」
 心に纏わりついてくるような、何かを振り切るように、香穂は言う。

 秋が繋いだ手の平をぎゅっと握り返してきて、その優しい声で頷く。

「それは僕も同じだけどね」
 ぬくもりに満ちたその音に、香穂の心は包まれていく。
 ふと、見上げた空はどこまでも青く澄んでいる。だからこそ、祈らなければならないのかもしれない。

 秋が優しさに負けて、けして自分を見失ったりしないように ――― 。香穂は過ぎ行く風に、その想いをそっと託していた。
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