第三章 詩姫の罠

四、詩姫(3)
 ――― 全てを決めたのは一瞬だった。
 憎しみの全てと。大切なものを守ろうとする思いの全てと。勝利したのは、後者だった。

 香穂の力を受けた‘詩姫’の身体は砕け散った。
 キン、と甲高い音が鳴って、精霊たちを阻んでいた魔光の結界が壊れる。
「ばかね……」
 香穂は憐れみを込めて呟く。

(――― 許してください。)
(それでも貴女の傍にいたかった……。)
 ‘詩姫’の最後の言葉をふわりと、風の精霊が伝える。

「本当に……ばか」
 香穂はただ、わずかに震える口調でそう呟いた。

 不意に風が香穂に向かって流れ出す。警告を告げるように。
「……え?」
 同時にざわりと闇の気配が動く。
「なに……?」
 戸惑いながら、公園の中を見回す。途端、香穂の目の前で空間が引き裂かれた。

 「うわぁぁ ――― っ!!!!」

 聞き覚えある叫び声が響き渡る。
 裂けた空間から、秋が放り投げだされてきた。突然の出来事に、香穂は信じられず目を瞬かせる。
(……秋?)

「秋っ!」

 その存在を認識すると、慌てて駆け寄った。

「イタタッ……。あれ、香穂……?」
 呑気にも地面にぶつけたお尻を摩りながら、秋は駆け寄ってくる香穂に気づく。ほっと安心したように胸を撫で下ろす香穂の顔に、秋も息をついた。
「僕、戻って来れたんだ……」
 確かあの術を使った瞬間、すぐに闇に吸い込まれたと思ったら、目の前であの霊魔たちが引き裂かれていき、秋自身闇に傷を負わされて ――― 身体中に走る激痛に気を失ってしまった。それから気づいたらここに ――― 。

「闇に傷を負わされたって……。まさかっ、あれ使ったの?!」
 闇を伝っての移動術。
 力のないものが使うと闇の中に吸い込まれて、そのまま引き裂かれてしまう。力あるものでも、運が悪ければ、虚空に放り込まれてしまうとても危険なもの。特に闇の属性がほとんどない秋では余計に ―――。

「……ほんと、無茶ばかりするんだから」
 香穂は地面に座ったままの秋に抱きついた。
「心配ないよ。僕には幸運の女神様が付いてるからね」
 ふっと優しい笑みを浮かべて、秋は香穂を抱き締める。そのぬくもりに、香穂は泣きたい思いにかられた。
(離れたくない……。傍にいたい……。秋の傍にいたい。)
 心からそう思う。けれどそれは言葉には出さずに、ただ無事を喜ぶ。
「無事でよかった……」
 香穂はそう呟いて、ふとぼろぼろになっている秋の身体に気づく。身体を離して、苦笑した。
「無事でよかったけど、とりあえず傷を……っ?!」
「……香穂?」
 シッ、と。香穂は怪訝な顔をする秋に制止する視線を送って、公園の中の気配を伺う。すぐに、口を開いた。

『精霊たちよ。我が命にて、ここに結界を ――― 』
 不意に紡がれた呪文に、秋が声をあげる。
 「香穂?!」
 出来上がった結界は、秋の周りだけを包んでいた。黙って、と視線に乗せて秋を見る。香穂は立ち上がって、秋の傍から離れた。
(……思ったより辛い。)
 きしり、と一歩動くたびに骨が軋む。体力の限界というものを初めて感じた。冷や汗が背中を伝う。だがその全てを隠し、香穂は宙に向かって叫んだ。

「いるならさっさと出てきなさいっ!」

 すぐにクスクスと笑う声が公園の中に響く。
「さすが香羅(から)……ああ、今は香穂だったかな」
 嬉しそうな笑い声とともに、なにもなかった宙に少年が現れた。

 さらさらと風に揺れる綺麗な金髪と、無邪気な光を宿す同じ色の瞳。そこに存在しているだけで、華やかな雰囲気を纏う少年は人間にはあり得ない美しさをもっていた。

(あの空間で会った少年だっ!)
 秋はすぐに思い出す。少年とあったのはついさっき。見忘れるわけがなかった。

「何か用でもあったの? こんな手の込んだ小細工までして」
「ふぅん、やっぱり気づいてたんだ?」
 香穂に視線を向けて、愉しそうに少年は笑う。
 ――― そう。寸前になってわかった。‘詩姫’が操られていたことを。恐らく、本人も最後まで気づいていなかっただろう。高魔を ―― それも‘詩姫’ほどの力の持ち主を操ることができるのは、限られる「魔」だけ。
 香穂は苛立ちを募らせて、少年を睨みつけた。
「用がないなら、さっさと消えたら?」
 邪魔よ、そう言外に告げる。だが、反対に少年は無邪気な笑顔を浮かべた。

「貴女が一緒に戻ってくれるならね」

 告げられた言葉に、香穂はぎくりと息を呑む。それでも動揺を抑えて、言った。
「あいにく私は誰かに指図されるのは大ッ嫌いなのよ」
 その言葉に、少年はふっと真顔に戻る。スイーッ、身軽な動作で地上に降りた。
「それは知ってるけどね。今度ばかりはダメだよ。あの方たちも突然いなくなった君に会いたがってる」
 血の気が一瞬で引く。「あの方たち」 ―― そんな切り札を用意してくるとは思っていなかった。かろうじて残っていた香穂の精神的な余裕さえも消える。

「……それに貴女は」
 ふっと眉根を寄せて、何かを探るように少年は香穂を見る。香穂のもとに少しづつ近寄りながら。
 じり、とその度に香穂は後退する。
 やがて何かに気づいたように少年は息を呑んだ。
「……貴女は……まさか」
 驚き目を瞠った後、それまで余裕を保っていた少年の雰囲気ががらり、と変化する。華やかな印象は突き刺す氷のように冷たいものへ。無邪気な空気は不機嫌なものに。
 香穂は汗が落ちるのを感じた。普通の人間なら恐怖に怯えるところだが、香穂は少年のそんな空気は慣れている。だから恐怖ではなく。
( ――― 気づかれた!)
 気づかれなければ或いは、誤魔化してこの場を曖昧に取り繕うこともできたのに。わずかな希望さえ、消えてしまう。
 少年は自らの美貌に今までの無邪気なそれではなく、フッと酷薄な笑みを浮かべた。
「さあ、香羅。帰るよ、遊びたいならちゃんと、戻ってからだ」
 戻ってから、とその言葉に香穂は絶望した。完全に気づかれてる。ぎゅっと手の平を握って、手を差し伸べながら近づいてくる少年に、また一歩下がる。
 「…………っ?!」
 途端、身体に激痛が走って、香穂はバランスを崩しその場に倒れた。もう一歩も動く力がでない。

(香穂っ、結界を解いて!)
 不意に香穂の脳裏に秋の声が聞こえる。
(だめ。いまはまだ秋が勝てる相手じゃないっ!)
(このままだと……っ!)
 香穂の作った結界の中で、目の前の光景に焦りながら、どうすることもできずに、秋は見ているしかできなかった。二人の会話が理解できない。 ――― さっきからあの少年は何を言っているのだろうか。「帰ろう」と言っている。なによりも、なぜ香穂に向かって「香羅」と呼んでいるのかわからなかった。嫌な予感がする。触れてはいけないものに触れようとする瞬間。
 秋は不安と焦りでいっぱいだった。

 ふと黙り込んだ秋の抱く不安に香穂は気づいていた。
(……ほんと、やばい。)
 意識が秋に向いていた間に、すぐ目の前に少年は近づいていた。
「ああ、あそこのことなら心配ないよ。あの結界を壊すのは僕でも厄介で今は面倒だしね。それに、今回の目的は貴女を連れ帰ることだ。もっとも、もうひとつできてしまったけど」
 冷笑を浮かべて、少年は白く綺麗な手で香穂の顎を軽く持ち上げる。触れられた瞬間、ぞっと不快感が香穂の全身を支配した。反射的にはね避けようとして、その力もないことに愕然とする。
 それに気づいて、少年は苦笑する。
「無理だよ。今の貴女には精霊さえも動かすことはできない」
 そう言うと、少年は香穂の唇を塞いだ。
 重なる唇に、香穂は突き放そうと嫌がるが、少年は強く抱き締めることで抵抗を奪う。

 「 ――――――― っ!!!」

 香穂の身体が悲鳴を上げる。
 唇を通して、電撃を受けるような強い衝撃を香穂に与えながら、身体にわずかに残っていた力を少年が取り込んでいく。
(香穂 ――――― っ!!!)
 秋の悲痛な叫びは、香穂には届かなかった。

 ……気を失いぐったりともたれかかる香穂を抱えて、少年は秋に視線を向ける。
「彼女は返してもらうから。まあ……もしかしたらまた会うことがあるかもしれないけど、それまで君の命は預けとくってことで」
 ばいばい、と歳相応の子どもらしく空いている手で手を振ると、香穂を連れて少年は姿を消した。

(香穂っ……! 香穂 ――――― っ!!!)
 結界の壁を叩く。
(これはどうしたら壊れるんだ?!)
 今なら。 ―――― まだ今なら追い掛けられるのにっ。
 だが、そんな秋の思いを阻もうとするかのように、結界は秋を包み込んだままだった。


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