第三章 詩姫の罠

四、詩姫(3)
 ……ここは。
 暗闇に支配された空間で、秋は周りを見回した。だが視界に捉えることができるのは、自分が今立っているクリスタルのようなもので作られている床だけだった。
(異次元なら、どこかに出口があるはずなんだけど……。)
 意識を集中させる。だが、精霊たちの気配もつかめず、使えない空間では、それを見つけることができないことはわかっていた。
「どうしようかなぁ……」
 ため息混じりに呟いて、途方にくれる。きっと香穂は心配しているだろう。出会ってから初めて見た。香穂のあんなに切羽詰った顔を……。
 思い出して、秋は早く帰って安心させてあげたいと強く思う。だが、どんなにそう思ったところで、手段はひとつも浮かばない。

「こんばんは」
 不意に目の前に一人の少年が姿を見せた。
 暗闇の中に鮮やかに煌く金髪と瞳。 ――― そこに立っているだけで、華やかな雰囲気を纏い存在感を印象付ける存在。
「初めまして、かな」
 人懐っこい笑顔を浮かべて話しかけてくる少年に、ふと秋は違和感を覚えた。どこかで見たことがある。彼ではなく ――― 恐らく、彼に似た人を。
 そんな思いを抱きながら、秋は口を開いた。
「……君は?」
「僕? 僕は摩耶(まや)と呼んでよ」
 親しげに、軽い口調で言う少年はよろしく、と笑う。
「僕は秋。よろしく、摩……」

 ダメッ ――― !!!

 頷いて少年の名前を口にしようとした瞬間、秋の身体の中を電流のようなものが走り流れた。その名前を口にしてはいけないと。
 秋はハッと息を呑んで、改めて目の前に立つ少年を見る。あまりに気安く話しかけてくる存在に警戒することを忘れていた秋は、少年の存在とその気配をつかんで、ようやく気づいた。
 秋が黙り込んだのを見て、摩耶は正体に気づかれたことを悟り苦笑する。
「ふぅん。さすがに姉さまが気に入ってるだけはあるね。「魔」の気配は消しておいたんだけどなぁ……」
(姉さま? ……誰のこと?)
 不思議に思って問いかけようとしたところで、少年はその姿を消した。
「ひとまず今回の目的は姉さまを連れ帰ることだけだから。君のことは放っておいてあげるよ。でも無傷でいられるのもつまらないから、彼女たちと遊んでもらうよ。じゃあ、また後で」
 見下した口調で言いながら、愉しげな笑いが空間に響く。

 すぐに暗闇は静けさを取り戻した。

「あの少年は「魔」だったんだよね……。高魔……?」
 それにしては今まで対峙してきた「高魔」とは比べ物にならない存在感と美貌があった。その気安い雰囲気に誤魔化され、危うく名前を口にするところだった。下手に名前を口にしていたら、その名前にこもる「力」に引き裂かれ殺されてしまう。改めて、秋はぞっとした。

 ……早くここから脱出する方法を考えないと。
 気は焦るものの、精霊の気配はないし。見渡す限り暗闇。
「どうすればいいんだろう……?」
 困惑してそう呟いたとき、風もないのに秋の髪が揺れた。

<まあ……。いい男だわ。好みだわ。>
<本当に。若君も気がきくわねえ。>
 静かだった空間に突然、甲高い声が響いた。

(……え?)
 我に返って、秋は暗闇に目を凝らす。
「わぁっ…!」
 瞬間、後ろに飛びのく。
 秋の目の前には、幾人もの女性の顔が並んでいた。実体はなく、顔だけが浮かんでいる。
<私たちを見て驚くなんて酷いわぁ>
 くすくす、と哂いながら女性たちが言う。
<ホント傷ついちゃうわぁ>
 言葉とは裏腹に愉しそうに哂う。

 霊魔だ。女性たちの気配を掴んだ秋は、その正体に息を呑む。空間を ―― 秋を取り囲むように飛び交う実体のない女性たちの気配は霊魔そのものだった。

<お仕置きしなくちゃぁっ>

 くすり、とひとつ哂って、狙いをつけたように全員が秋に目をとめる。一斉に襲い掛かった。
「うわっ!」
 秋は反射的に腕で顔を防ぐ。
 庇った腕に無数の傷が生まれた。赤い血が滴り落ちる。

<あらあら、美味しそうな血だわ>
<本当。久しぶりのご馳走ねぇ>
 笑い声とともに、女性たちの首が次々と秋を襲う。
<ほら、どうしたのぉ? 早く逃げなきゃぁ、死んじゃうわよぉ?>
 精霊が使えない秋は、どうすることもできず、ただ防御に徹するしか方法がなかった。

「くっ……!」
 交わしきれない攻撃で腕や足、身体中に深い傷が刻まれる。服もぼろぼろになり、赤い血が染みを作り、流れ落ちる。
(やばい……。でも、逃げる場所もない。このままだと……!)
 がくり、と。立つ力も失って、秋は床に跪いた。

<弱いわねえ。もう、飽きちゃったわ>
 抵抗ひとつできない秋に、呆れたように霊魔は言う。
 こんな暗闇の中で、死んでしまうのか。愕然と秋はそう思った。
(……こんな暗闇のなかで……。暗闇……? 闇……?)
 秋はひとつ思いついた。だがそれは、いちかばちかの賭けになる。むしろ成功する確率は極めて低い。
 それでも躊躇っている暇はなかった。

<あらあら。まだ立ち上がる気力があったのぉ?>
 力を振り絞って立ち上がった秋に、霊魔は愉しそうに声をかける。
 秋はそれを無視して、大きく息を吸い込み、呼吸を整える。くすくす、と哂う霊魔たちの声が遠ざかる。代わりに香穂との会話を思い出していた。

『この術はあんまり勧めたくないんだけど、でももしもの時にね』
『もしものとき?』
『たとえば何らかの形で精霊を使えなくなったときとかよ。その時はまず周囲の状況を見て。そうね。なんでもいいわ。夜だったり。影だったり。つまり暗闇。闇が存在していたら、今から教える術が有効になるから』
 香穂は常にない真剣な顔で秋を見つめた。
『精霊の力じゃないわ。闇そのものを使うの。だからこれは秋にとって凄く危険な術になる。なるべく私のいないところで使って欲しくはないけど、念のためにね』
 頷くと、香穂はようやく教えてくれた。

 ――― まず呼吸を整える。
 それから利き手を前に突き出す。その手の血を少しでいいから、流すの。

<自分から手首を切っちゃうなんてぇ、気でも狂っちゃったのかしらぁ?>
 霊魔たちが騒ぐ。
 かまわず、秋は目を閉じて精神を統一させる。
<もう飽きたって言ってるのよぉっ! これで終わりにするわぁっ!>

『闇よ。我が血をもって、その領域を汚したことを贖う。願わくば……』
 秋の言葉に、闇がざわりと、うごめく。
『そして願わくば、我が思いを叶えたまへっ!』
 秋の声が暗闇に響き渡る。瞬間、闇は霊魔たちとともに秋を飲み込んだ。

 ――― それは一瞬の出来事。
 だから次の時にはその空間にはなにも。誰も存在していなかった。




「随分やってくれるね……」
 荒くなる呼吸を無理矢理隠して、香穂はそう言いながら余裕の表情を浮かべる。
「貴女の力がこの程度だったとは……。私はよほど貴女を過信していたようですね」
 血にまみれた身体で、‘詩姫’は微笑んだ。ぴくり、と香穂の眉尻が跳ね上がる。光り輝く剣を構えて、深く息を吸い込んだ。
「思い上がりも甚だしいっ!」
 突き刺すような視線が‘詩姫’を貫く。ぞくり、と快感とも恐怖ともわからない感覚がわきあがるのを‘詩姫’は感じた。
「秋はどこっ?!」
 ――― 早く。早く秋を見つけたい。
 香穂の思いはただ、それだけでいっぱいだった。それ以外のことを考える余裕などなく。またそれ以外などどうでもいいことだ。秋が殺されるとは思っていない。目的が彼でないことは明らかだから。それでも、傷を与えられるかもしれない。……身体の傷ならいくらでも容易に治すことができる。でも、心を傷つけられていたら。そのときは恐らく、香穂には癒すことができない。秋の心を傷つける、その内容を想像するだけで、香穂は胸が痛んだ。
 聞かせたくない。まだ……。まだ早すぎる。

「教えないっ!」
 戦いの最中で、それでもまだ別のことを考えている香穂に苛立ちを募らせて、‘詩姫’は叫ぶ。‘詩姫’の持つ剣がざくっ、と香穂の横腹を掠る。すぐに香穂は距離をとった。
(……精霊を使えたら。)
 ちっ、と一瞬弱気な考えを巡らせた自分に香穂は舌打ちする。あんなに嫌っていたというのに、今更 ―――。それでも負けるわけにはいかなかった。

「これで最後にしてあげるわっ!」
 これ以上の時間はかけられない。香穂はそう決断する。
「望むところです」
 ‘詩姫’はスッと剣を構えた。香穂も手に持つ剣を構える。
『漆黒の我が剣に命ずる。我が力全て使い、敵を滅ぼせ』
 言葉に応じて、剣が闇の光を放つ。
(なんて美しい……。)
 ‘詩姫’は目を奪われる。香穂の発する「力」に飲み込まれそうになった。以前ならその力を前に、跪き、許しを請うところだっただろう。だが今は違う。憎しみがそれを思い留まらせる。

「……なぜ」
 なぜそんなにも溢れるほどの力を持っていながら、人間などと低級な生命を気にするのか。望めばこの地球の頂点に立つことさえできるというのに。
「……なぜっ、なぜっ、なぜっ! 虫けら同然の人間などにっ!」
 たった一人の人間に拘らなければならないっ?!
「許せないっ、許せないっ!!」

 ‘詩姫’の怒り狂う姿に、香穂は不意に違和感を覚えた。だが立ち向かってくる‘詩姫’に、香穂は力の全てをこめて、投げつけた。
光が迸る。


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