第四章 魔の誘惑
一、距離(1)プロローグ
統貴 ――― 地球創造の頃より存在し、人間とは理を異とし、「魔」の頂点として君臨する偉大なる王。その全てが謎に包まれている中で、唯一明らかなのはどの「魔」よりも飛びぬけて気紛れだということである。
― 精霊使い第三章 一節―
―――― キィッ。
タイヤが急停止して、車は屋敷の駐車場で止まった。
新城家の長男である佳人の愛車はシルバーのセフィーロ。CMを見た香穂が、カッコイイと呟いたのを聞いたのが、選んだ理由だった。バタン、とドアを開けて車から降りる。冷たい風が吹きつけた。
「……風が騒いでるな」
空を見上げると、白い雲が風に押されて速いスピードでどんどん流れていく。東からは、灰色で重そうな雲が近づいてきていた。駆け足で急ぎながら屋敷の中に入る。玄関を入ると、侍女長である木村さんの姿があった。
「お帰りなさいませ。佳人様」
いつも温和な彼女の顔に今は笑顔とは言えない、暗い影を落とした表情が浮かんでいる。
「ただいま。秋はどんな様子ですか?」
「 ――― それが」
悲しげに小さく首を横に振る。
「一見すると普段と変わらないようにも見えるのですが、やはりカラ元気というか……」
ふぅ、と心配そうに息をつく。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイをはずして彼女に預けながら訊くその様子に、佳人は眉を顰めた。
電話で香穂が「魔」に連れ去られたという連絡は受けた。
初めにこみ上げてきたのは、秋が付いていながら、香穂をそんな目に遭わせたことへの怒り。怒鳴りつけようと ―― いや、あの瞬間に秋が傍にいたら間違いなくぶん殴っていたかもしれないほどの感情を抱いた。だがすぐに、一番辛いのが秋であるはずだと気づいた。
(……まったく、理解がある兄というのも困ったものだね。)
そう息をついたとき、佳人は我に返った。
「あれ、佳人さん。帰ってきてたんですか?」
玄関の音に気づいたのか、台所から姿を現した秋に絶句する。
エプロンをつけて、ボールと泡だて器を手にしている彼がそこにいた。
「……秋、なにをしてるんだ?」
恐らくはカラ元気だと、そう侍女長から聞いていても、実際にそんな能天気な姿を見せられると、自然と佳人の口調も咎めるような、低く厳しいものになる。
「え、ちょっと夕飯の手伝いでもと……」
無言の重圧が秋の言葉を遮る。佳人が戻ってきた理由と用件をわかっているのか、秋は困ったように俯いた。
「……和室で話そう」
短く言い置いて、佳人はさっさと歩いていく。
秋は近くにいた侍女にボールを預けると、エプロンをはずして、複雑な表情を浮かべたまま、佳人の後を追いかけた。
「それで、香穂の居場所はわかったのか?」
正座で正面に座る佳人に訊かれて、秋は膝の上で拳を握り締めると、首を左右に振った。
香穂が作った結界が解かれたときには、その姿も ―― 気配も秋が掴みきれる範囲全てに意識を飛ばしたが、微かでも感じ取ることはできなかった。
目の前で香穂を連れ去られたことへの悔しさは消えなかったが、今の秋には、焦りも不安も浮かんではいなかった。
「でも、きっと大丈夫です。香穂なら戻ってきますよ」
秋の言葉に、佳人は小さく息を呑んだ。
いつも感情を露にする秋の顔は無表情で、そう告げた口調はどこか投げ遣りだった。その意味を問いかけようとして、口を開くが、喉が引きつり言葉が出せない。嫌な予感が胸を過ぎる。
佳人の疑問をのせた視線を感じながら、秋は口を開く。
「彼女は……」
ふと、身体がそれ以上の言葉を拒むかのように、小刻みに震えだす。言葉にすれば、真実だと認めてしまうようで。
――― だけど、否定できるだけのものもなく。
「彼女はっ……彼女はっ!」
苦しげに繰り返す秋の顔を佳人はただ黙って、見つめる。
強く目を瞑った秋は、心の奥にある感情を押し殺す低い声で呟いた。
「……「魔」だった……です」
強い衝撃が佳人を襲う。ただ秋の言葉だけが滑り落ちて、意味がわからなかった。
(……香穂が……「魔」……?)
佳人は俯いたままの秋を凝視する。
その意味がようやく理解に至ると、佳人は、徐に立ち上がって秋の胸倉を掴み引き上げた。
「ふざけるなっ!」
怒鳴りつけ、感情のままにぐっと右手で拳を作る。秋の頬を殴ろうとして ――― 異変に気づいた。
「……泣いているのか?」
秋の頬には透明な雫が伝い、零れ落ちている。
声には出さずに泣く秋の姿に、佳人は胸が塞がる思いを抱く。切なさが湧き上がり ―― 。
掴んでいた胸倉を外して、元の場所に戻る。
正座を直して、落ち着きを取り戻すために深く息をつく。冷静な感情を取り戻した佳人は、ため息混じりに言った。
「まず、何があったのか詳しく説明しろ……。話しはそれからだ……」
秋は頬を伝う涙を拭いて、佳人に視線を向けるとまっすぐな目で頷いた。