深淵の闇を主とする世界の中で、威厳を放つ城は能力のある者以外を拒むように、冷たい空気を纏いその空間に浮かび、佇んでいる。能力の低い者が断りもなく近寄れば、その空気に触れた瞬間、跡形もなく滅びてしまうだろう。それだけの力が城そのものに与えられていた。
その城で最も闇が濃く、故に耐え難い恐怖を与える奥深くの地下。その場所に、香穂は鎖で繋がれていた。
細く白い手首には冷たく煌く銀の枷をつけられ、逃れることができないよう、その鎖は天井に伸びている。俯く香穂の髪を ―― 肌を流れるように汗が伝う。少しだけ開いている唇からは乱れた呼吸が繰り返されていた。
ふと、香穂は唇を閉じて、無理やり息を整える。顔を上げて、唯一の出入り口である重厚な扉に視線を向けた。
わずかな間の後、ギィィィ…と重そうな悲鳴をあげて、扉が開く。
闇に溶け込むかのような漆黒の髪と瞳を持つ、美しい顔の青年が入ってくる。青年は無言で香穂の傍に歩み寄ると、冷たい韻を含む口調で問いかけた。
「ご気分はどうですか?」
声を出すことも億劫だった香穂は、それでも弱気な面は見せたくなくて、静かに青年の名前を呼ぶ。
「……影葉(かげは)」
「お久しぶりですね、香羅さま」
青年はふっ、と懐かしそうに笑みを浮かべた。だが反対に、たった一言でも言葉を口にした香穂は全身に強い電流を受けた。痛みに呻きそうになる声を押し殺して目の前に佇む影葉を睨みつける。
「いつまで……こんなことっ!」
「それは若様にお聞きください。私は命令されて様子を見に来ただけですから」
香穂の言葉も睨みつける視線もただ肩を竦めて受け流すと、影葉は冷ややかにそう答えた。苛立ちを募らせながら、香穂は額に流れる冷たい汗を振り切るように、頭を左右に振る。頭の中で鐘が鳴るかのように、がんがんと鈍い音が鳴り、痛みに支配される。
「……これだけ長い時間、その邪流(じゃりゅう)を浴びながら、正気を保っていられるのは流石ですね。しかもそれは、最も強くしてあるというのに」
からかう含みのある口調で告げる影葉の言葉はすでに、香穂には聞こえていなかった。喋ることもできず、ただ立っているだけで精一杯で、それも鎖に繋がれていなければ倒れていたはず。
がくり、と項垂れている香穂の頬に影葉はそっと手を伸ばして触れた。
ひんやりとした冷たい感触に、香穂はぞっと背筋に悪寒が走ったが、すぐにその手の平から気が流れてきて与えられていることがわかった。
「どうです、少しは元気が出てきたでしょう?」
「余計なお世話 ――― っ、ごほっ! ごほ、ごほっ!」
気を失うことさえ許されなかった香穂は、急に大きく息を吸い込みすぎて、咳き込んだ。呼吸をすることができず、激しい咳に意識が薄れていく。
「大丈夫ですか?」
影葉は気遣うように問いかけて、返事ができずに咳き込む香穂の様子に、小さく息をついた。香穂の顎をぐいっと持ち上げる。唇を重ねて口付けた。
「んっ……」
途端、影葉の唇を通して優しい息吹が吹き込み、香穂に新鮮な空気を与える。
香穂の呼吸が落ち着いたのを見てとると、影葉は唇を離してすぐに踵を返した。
「また後できます」
そう言って扉に向かって歩き出した影葉を止める。
「待って! 砂霧は……砂霧は無事なの?!」
「……勿論です。彼女と私を殺せるのは貴女だけですからね。手を出さずに、ただ結界の中に閉じ込めさせてもらってますよ」
突き放すような投げやりな口調でそう告げて、影葉は扉を開けて姿を消した。
ガン、と扉が閉まる重い音を聞いて、香穂は大きく息をついた。
(……疲れた。)
いくら「魔」に眠りは必要ないといっても、「魔」が最も嫌い、同族への裏切りや拷問に使用する邪流を浴び続け、体力を奪われている香穂にとって、眠りの休息が取れないのは、思っている以上に随分と身体に負担がかかっていた。
(秋……秋に会いたいよ……。)
身体中に激痛が走り、苦痛の中にいても、 ――― それでも香穂の頭の中を埋め尽くすのは秋のことだけだった。
会いたいよ ―――― 。