第四章 魔の誘惑

三、失踪(2)
「 ――― よく来てくれたな」
 深雪たちは久しぶりに会う当主にそう言われて、緊張に顔を強張らせながら上ずった声で返した。
「い、いえ。き……緊急だと、」
「まあ、そんなに緊張するな。今からそんなんではもたんぞ」
 苦笑する当主の言葉に、葉月は意味ありげなものを感じ取った。
「もしかして、香穂さまの件で何かあるんですか?」
「いや、香穂の ――― というよりはだ」
 言葉を選びながら、当主は思案げに眉を顰める。少し間をおいて、いつになく難しい顔で重々しい口を開く。
「近々、この街において「魔」による一斉攻撃が始まる」

 一斉攻撃 ――― ?!
 その内容に、深雪と葉月は背筋に冷や汗が流れるのを感じた。

「他の使い人たちもできる限り呼び寄せて、チームを組んで戦ってもらうことになる。だが、深雪……。君には香穂の代わりとして、この街の要となっている結界を守ってもらいたい」
 告げられた使命の重みに、深雪は小さく息を呑んだ。手が震えてくる。

(……無茶を言っている自覚はあるんだが。)
 だが今、それを任せられる力を持つ者は、深雪しかいなかった。佳和は信頼をこめて、深雪を見る。

 「わかりました。全力でやってみます」
 佳和の視線をまっすぐ受け止めて、深雪は頷いた。
 自分を信じてみよう ――― 。それは香穂に教わったことでもあった。

 『自信を持って、戦うこと』

 きっと、大丈夫。深雪は言い聞かせる。今は、秋君も戦っている。 ――― それに、香穂だって戦ってるはず。自分だけ逃げることはできない。香穂を信じるためにも ――― 。
 深雪はその想いを伝えるように、後ろに控える葉月に視線を向ける。まっすぐな深雪の視線を受け止めて、葉月は微かに笑みを浮かべて強く頷いた。

「戦いは明日の夜だ」
 当主は二人にそう、告げた。




 初めて、精霊に出会ったときは、ぼろぼろに傷ついていた。だけど、それが当たり前だと理解しようとしているときでもあった。

<なぜ、泣いてる?>

 空間を夢中で跳んでいたときに、どこからともなく声が聞こえて。慌てて周りを見回した。だが、言葉を発する者はいない。
「だれっ、どこにいるの?!」
 幼いながらも、精一杯の虚勢だった。まだ「魔」としての誇りさえ、欠片しかもっていなかった。
<泣いているわりには威勢がいいな>
 苦笑するように、声が聞こえる。
「私は泣いてなんかいないわっ!」
 「魔」に涙など、ない。どんなに悔しくても、悲しくても。それは苛立ちに変わるだけで、泣くという行為がどういうことかもわからなかった。
「姿を見せないなんて卑怯者!」
 混乱する中で発した言葉は、相手をよほど面白がらせたらしい。爆笑するような笑い声が空間を支配する闇の中に広がる。
<……くっくっく。「魔」に卑怯者といわれるとは。面白い。気に入ったよ、よし。姿を見せてやる>
 声がそう言ったかと思うと、不意に周囲に存在する闇が集結していく。それはすぐに人型へと変わっていった。

<俺は闇の精霊王。闇に溶け込み移動する者さ>

「闇の精霊? 王? 聞いたことないわ」
 初めて耳にする言葉に、首を傾ける。
 闇の精霊王と名乗ったその人型は、またもや笑った。
<そりゃね。「魔」には関係ないからな。普段は人間と付き合ってる。しいていえば、「魔」は俺たち精霊の敵さ>
 敵 ――― 。
 その言葉にすかさず身構える。緊張した面持ちで距離をとると、フッと苦笑する声が聞こえた。
<まあ、待てよ。他の精霊たちはともかく、俺は別だ。今は人間の味方ってわけでもない>
「それならここで何をしてるの?」

 その問いかけに、今まで飄々と答えていた声に幾ばくか困惑したような口調が混じる。
<ああ ―― まあ。ちょい知り合いを探してたんだがね。途中、やたら負の感情を纏わりつかせて空間を跳んでいる「魔」を見つけたから、興味をそそられたってわけさ>
 後半は明らかに愉しげに言われる。

 嫌なやつ ――― 。
 そうは思ったが、精霊王という初めて知る存在に心が惹かれた。それに気づいたのか、躊躇うことなく距離を縮めて聞き返してくる。
<で、何があったんだ?>
 その優しい声に、なぜか素直に口を開いていた。それでも幾分かの躊躇いはあったが。
「…………父様にムリヤリっ!」
 そこから先は言えなかった。
 だが、闇の精霊王は嫌そうな口調で言って、顔を歪ませた。
<酷いな……。お前、まだ生まれて10年も満たないってとこだろう?>
「わかってるの。……わかってる。お父様は偉いんだから逆らっちゃいけないって……」
 同情されることが嫌で、理解しているフリをする。
 「魔」にとって、血の繋がりなど関係ない。あるのは、本能と、力。そんなことは教えられるよりも先に、埋め込まれている知識。だけど、なぜか。納得できなかった。他の「魔」とは違うと思われても。

<悔しいなら悔しいって言えばいいさ。俺は「魔」じゃない。俺の前で我慢する必要はないんだ>
 ――― 悔しいよ、悲しいよ。なんでっ……、私があんなふうに扱われなくちゃならないの?!
 初めて心の底から、怒りが湧き上がってくる。ぎゅっと、手の平を握ると、闇の精霊王は面白そうに笑みを零した。

<お前は変わってるよ。……そうだな。お前なら、>
 笑みを零していた顔が、真剣な表情になる。
<愛……ってやつがわかるのかもな>
 聞いたことがない言葉に戸惑う。
「……愛? なに、それ?」
 好奇心が湧き上がる。その言葉に、とても新鮮なものを覚えた。
 問いかけに答えようと、闇の精霊王が口を開きかけたとき、ふと、視線を遠くに向けた。
<誰かお前を探しに来たようだな……。今日のところはもう、行くよ。また、会おうぜ。いろんな話を聞かせてやるよ。お前が気に入ったからな>
 そう言い残して、精霊王は姿を消す。

 すぐ後に聞き覚えのある声が空間を裂いて、聞こえてきた。
「香羅、こんな所にいたの……。探してたんだよ」
 無邪気な顔で現れたのは、弟と呼ばれる存在だった。意識はまだ精霊王に向かっていて、曖昧な頷きだけを返して、とりあえずその場を離れた。

 「愛」 ――― ……?

 その言葉だけが、なぜか深く心に刻み込まれていた。


 今思えば、あの出会いさえも、精霊たちの企みだったのかもしれない。あのとき会わなければ、秋を見たとき、それが愛だと理解することもなく、「魔」の意識に従って、殺していたかもしれない。こんなことで思い悩むこともなかった。

 ――― まあ、今となってはどうでもいいことだけど。
 準備は進んでる。全てを終わらせるために ―――― 。

「ここまで、来るかな……」
 フッと、椅子にもたれて深いため息を零す。
 もう、始まっているから。戦いは、これからで。後戻りはできない ――― ……。



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