第四章 魔の誘惑

四、岐路(2)
 暗闇の中に神々しい光を放つ城が浮かんでいた。
 力無きものが近寄れば、一瞬にして塵と化す能力を持つその城は、誇り高い尊厳をあらわにし、見るもの全てに畏怖を覚えさせる。
 その中で。クリスタルの質で作られた椅子に深くもたれて、禍々しい光を宿して、少女は黒い目を宙に向けていた。

「……どうしようか」
 そう発した唇は、愉しげに歪む。ふっ、と少女の目の前に突然、影が落ちた。
「姉さま、愉しそうだね。何を考えてるの?」
「精霊使いの中心たる新城家との戦いをね。どう愉しもうかと思って、暇つぶしに」
 唐突に現れた摩耶に、驚く様子もなく、少女 ―― 香羅は淡々と言う。
「あ、それ。僕も参加していい?」
 嬉しそうに摩耶が言った。まるで遊びに加わるような気安さで。「魔」からすれば ―― まして、摩耶や香羅ほどの力を持つ者ならば、命をかけた戦いであろうとも、所詮は長い時間を生きる中での暇潰しにしかならない。
 香羅は勿論、と笑顔で頷く。
「やっぱり、いちばんの鍵は当主よね。摩耶、やってみる?」
 最も責任のあるところ ―― 戦いがいのある相手を任せられることに、摩耶は驚く。
「いいの? 姉さまは?」
「私は……」
 それまでの愉しそうな表情から、真面目な顔になる。
「もう二度と……。「香穂」が現れたりしないように、不安材料を排除するの」
 苦々しげに眉を顰める。
 まだ、向こうにいるときは「香穂」の意識が強かったけれど。「香穂」が持つ家族、友達や ―― あの、付き人との絆を断ち切って、この「魔」の世界に、自らの城に戻ってきてようやく、「香穂」から戻ることができたから。

 その想いを読んだ摩耶が、微かに笑みを浮かべる。
 訝るように視線を向けると、思い出すように口を開いた。
「けっこう、僕は好きだったけどな。姉さまの弱々しい顔も見れたし」
 不快げに香羅は言う。
「冗談でしょ、二度とごめんよ」
 うん、と頷いて摩耶は肩を竦める。
「そりゃね。姉さまの意識が切り離されてるって気づいたときには、焦ったけど。やっぱり、今の姉さまがいちばんだよ。だから、」
 ――― 婚儀も、急ごうね。
 頬に伸ばされた手の、冷たい感触を感じながら、香羅は視線を合わせる。
「そのためにも、不安材料はすべて始末しないとね」
 摩耶も頷いて、愉しげな笑みを広げる。
「勿論、任せてよ」
 そう応える摩耶の声が、香羅にはどこか遠くに聞こえた。



 ―――― これを持って行け。
 屋敷から出て行こうとしたとき、佳人に引き止められ、渡された剣の形に作られたヘッドのついたネックレス。目の前にかがげると、鞘の中心に埋められている深い青色のサファイヤがきらり、と煌いた。
 時がきたら、渡してほしいと香穂に頼まれていたものだという。

(何か、特別な意味でもあるのかな……。)
 そう考えてみたところで、今は香穂の真意がまったくわからない。わからないけれど ――― 。
 香穂を信じよう、と。その気持ちだけが今の秋の心の中には溢れていた。

 持っていたそれを、首につける。銀の鎖が肌にひんやりとした冷たい感触を与える。スッと、気が引き締まった。
(よし、――― 行こう。)
 自分に合図する。
 前に「詩姫」と名乗った「魔」に呼び出された公園の中心で。秋は精神の集中を始めた。

 精霊たちに頼めばいい ――― 。
 当主に言われた言葉を思い出す。
 その意味はよく理解できなかったが、とりあえず秋は素直に ―― 自らの願いをそのまま口にする。

「風、火、地、水……光と闇 ―― 存在する全ての精霊たちよ。どうか、僕を香穂がいる場所まで導いてください」

 それは呪文でもなんでもなく。心からの願いを口にしただけ。 ――― それしか方法がなかったから。
 だが、まるでそれが呪文でもあったかのように、秋の周囲に虹色に煌く光が現れた。
(これは……。なんて、美しいんだ……。)
 そのあまりに美しい光の煌きに、秋は小さく息を呑む。唐突に、秋の脳裏に聞き覚えのない声が直接、響いた。

<本当にいいの?>

 なにが、と問い返すまでもなく、秋は意味を汲み取る。躊躇うことなく頷いた。

<そこには、……隠された事実があるわ。或いはそれは貴方を傷つけるかもしれない。それでも? それでも、向かうの?>
 繰り返し、覚悟を問われて、秋はその言葉の真意がわからず一瞬だけ戸惑ったが、それでも気持ちが変わるはずもなく、はっきりと頷いた。
 たとえ、何があったとしても。どんな事実に向き合うことになろうとも。香穂を失うことと、比べようもない。
 迷うことなく頷いて、強い光をその目に浮かべる秋の姿に、ようやく声も納得したのか、先を続けた。

<いいわ。彼女のところに送ってあげる>

 そう言葉が聞こえると同時に、周囲に煌いていた虹色の光が秋を包み込んだ。
(香穂……必ず、傍に行くから。)
 光が消えたとき、秋の姿は消えていた。



 ……行ったか。
 秋の気配が消えて、佳和はフッと小さく息をついた。

「大丈夫ですかね、あいつは」
 隣に立つ佳人が苦笑いを浮かべながら、不安を口にする。
「心配か?」
「当然ですよ、あいつにしても俺にとっては大事な義弟ですから」
 探るように見れば、複雑な表情を浮かべながら言う。佳和は、視線を庭に戻した。
「まあな。信じていればいいさ。あれは香穂と秋が乗り越えなきゃならんことだ。私たちはできる限りの手助けをするだけだ」
 意味ありげな言葉に、佳人が不思議そうに訊く。
「何か、あるんですか?」
「……佳人、何でお前は精霊を扱うことができないかわかるか?」
 本来なら、新城家の長男である佳人が当主を継ぐべきで。精霊の声が聞けるのに、扱えないなんてことはありえないはずだ。精霊を扱えないために、新城家の「表」と「裏」で分けて香穂とともに継ぐことになった。目の中に入れても痛くないほど可愛がっている妹と一緒に新城家を継ぐことができると、佳人は二つ返事で受け入れた。

 佳人にとって、それが香穂に望める唯一のことで。だから、佳和の言うことは今更だった。

「今更ですよ、どうしたんです?」
 気にしたことがなかったといったら嘘になる。だが、口に出したことは一度だってなく。だからこそ佳和も話題に出したことはなかったはずなのに、佳人は眉を顰めた。

「お前の力は封印されたんだよ。保険だと言ってな」
「……保険、ですか。いったい、誰に?」
 佳人の言葉に、佳和はフッと苦い笑みを零した。
「「魔」との、最後の戦いになるだろうな……」
 その意味を問いかけようとして、来客を告げに来た木村さんに遮られた。すぐに行く、と答えた佳和は問いかけるような視線を送る佳人を振り向いて言う。
「お前はもう帰って仕事の続きでもしとけ」
「ここにいると迷惑ですか?」

 ――― せめて秋が香穂を連れて帰ってくるまではここにいたい。それが何もできない自分にできることだった。お帰り、そう言ってやりたい。

「それなら、屋敷から出るな。母さんたちと侍女たちを守ってろ」
 どこか嬉しそうな笑みを滲ませて言うと、佳和は「わかりました」と素直に頷く佳人の言葉を聞きながら、ひらひらと手を振って客のもとへ足を運んだ。

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