第五章 涙花の代償

一、深遠(1)
 始まりは、あらゆる者たちの ―― 憂いから。だけど、きっかけはひとつの愛から。
 想いは届くのだろうか ――― ……。

 願いはひとつ。
<全てのものが命を守れますように ――― 。>
 望みはひとつ。
<あの子が幸せになれますように ――― 。>

 愛することを理解できないのは、愛したことがないから。だから全ての者に愛が理解できないわけでもない。たとえば ―― 、どんなに。残酷な面をもっていたとしても。気紛れな者であったとしても。自らの手で傷つけてしまったあの子が、幸せになるためなら。どんな偽りの仮面でもつけよう。

 フッと男は気配を感じて閉じていた瞼を持ち上げた。
 闇に凝らす金の目には、一匹の黒猫がうつる。黒い目がじっと、見つめてきていた。

「……本当にいいのか?」
 ゆっくりと猫はそう口を開く。
「取り引きをしたのはそっちだ。今更なぜ確認する? 我らが嘘をつけぬことはわかっているだろう」
 皮肉に笑みを作り、あてこする。
 ――― まあ、もっとも。
 続けながら、顎に手をあてる。
「人間で遊ぶのも飽いていたところだ。それに、我らが手を出さずとももう後は勝手に人間同士で、そう長い時間かからずとも、滅びていく」
「そんな中に大事な跡継ぎを置き去りにするのか?」
 本当に、今更だな。
 男はそう笑った。
 確かに取り引きを持ち出してきたのは、向こうだった。だが、決断を下したのは自分だ。上に立つものが決断した以上、容易に翻すことなどできない。それに後悔の一欠けらもないのなら、尚更だ。

「人間が滅ぶ……、それだけの時間、私一人で統貴は十分事足りる。余分な存在などいらんよ」
 黒猫の纏う雰囲気が一瞬、柔らかくなる。目を細め、鋭い光を宿すと、黒猫は苦笑を零した。
「素直じゃないな」
 それには言葉を返さず、黙り込むと、黒猫はまた呆れたような口調で言う。
「それにしても、あの悪趣味なモンをあいつに食べさせるのは、やりすぎだろう」
 おかげで、あいつは自我を保つことができなくなったんだぜ。
 責めるような言葉に、ため息が零れる。
「……そう言うな。アレを騙すにはああするよりないだろう。邪魔されるのは困る」
「摩耶は……」
 黒猫の言葉はすぐに推測できて、だからこそ、遮った。
「執着が強いものがいては邪魔になる。それでは上には立てん。それに先ほども言った。統貴は私でいい」
 何か言いたそうに開かれた黒猫の口は、だがすぐに閉じられる。代わりに、しん、と静まり返った闇に言葉を紡ぐ。
「……私とて守りたいものはある。何を犠牲にしても」
 まして、犠牲にすることを厭わない「魔」の性質があるのだから。その欲求に統貴である自分が従うのは当然だった。

「そうか……」
 黒猫はただ、そう頷いた。それ以上その話しを続ける気にはなれずに、黒猫に問いかけた。
「準備は整ったのか?」
「ああ、もうすぐ封印はとかれ、力を取り戻す。それと同時に、切り離す力が動き出すさ」
 その言葉に、頷く。
 同時に、黒猫の姿は闇にとけ、ひとり残される。

「…………これで、よかったんだ」
 椅子に深くもたれて、ふと浮かんだ言葉を自嘲を滲ませて呟いた。


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