横たわる砂霧の傍で、泣き止まない香穂の肩に秋はそっと手を置いた。
「……香穂。彼女を」
「うん、わかってる……」
本当は、離れたくない。でも、安らかに ―― 幸せそうな顔をしている砂霧をこのままにしておくこともできない。
どんなにつらくても。どんなに、悲しくても ――― ……。
香穂は頬を伝う涙を拭うと、秋に言う。
「秋、頼める?」
秋が頷くのを見て、香穂はもういちど砂霧に視線を戻す。最後の別れに、頬にそっとキスを送る。香穂が離れると、秋はゆっくりと口を開いた。
≪風の精霊たちよ。いま我らが友を導き、魂に安らかな眠りを与えんことを
――― ≫
秋が唱え終えると同時に、砂霧の身体は光に包まれて、空気に溶け込むように消えていった。
砂霧、今まで有難う ――― 。でもきっと、これからも見守っていてね。
優しくそよぐ風に、砂霧への想いを託して香穂は空を見上げた。
大きな屋敷の庭にある満開に花開く桜の木の側で、ひとりの美しい女性と幼い
―― 五、六歳に満たない女の子が楽しそうに話をしていた。
純粋な光を宿した淡い茶色の瞳で、女の子はその女性を見つめながら思いついたことを次々に話していく。優しい笑みを浮かべながら、女性はひとつひとつ頷き、それを聴いていた。
ふと、屋敷の中から女の子を探す声が聞こえ始める。
「お嬢様、お嬢様 ――― ?」
同時に静まっていた風が騒ぎだした。桜の花びらがそれに応えるように、揺れる。
「……あ、パパも呼んでる。もう行かなくちゃ」
女の子が立ち上がると、女性はいつものように唇に人差し指を寄せる。
「わかってる。ママたちには内緒ね。じゃあね、バイバイ!」
紅葉のような小さな手を振って、女の子は女性に別れを告げる。
女の子が屋敷の縁側に着いたとき、タイミングよく襖が開いた。
「あら、香耶(かや)。庭にいたの?」
縁側で靴を脱いで座る女の子に、部屋から出てきた母親が優しく訊く。
「桜を見ていたの。とってもね、キレイだったよ!」
「香耶はあの樹が好きなのね。ママも大好きだけど」
母親は女の子の柔らかい黒髪を撫でながら言う。
「さあ、おやつができたみたいだから食べにいきましょう」
そう言って、女の子を立ち上がらせる。女の子も元気に頷いて、いい匂いがしてくる台所に向かって走り出した。
母親もその姿に苦笑しながら、後を追う。
――― ……、
不意に呼ばれたような気がして、咲き誇る桜の樹がある場所に振り向いた。
風に揺れる桜の花びらが、優しく舞っている。
「……まさかね」
そう呟いて、自分を呼ぶ娘のもとへ踵を返し、歩いていく。
女の子と話していた女性は、その様子を笑顔を浮かべて見守っていた。
(香穂さま ―― 。いつまでも、お幸せに。)
祈りながら、女性は優しい風の中へと還っていった。