深雪たちと再会した香穂は早速、とばかりに詰め寄られた。
「それで、どういうことなの?」
疑問だらけ、と近づいてくる深雪に曖昧な笑みを返して、香穂は地面に倒れている摩耶の傍に歩み寄った。
生きている気配は、すでになかった。そっと手を伸ばして、いまだ暗闇の中でも色あせない金髪に触れる。
「秋の中に封印した光の女王を甦らせるには、秋の持っている力を全て放出する必要があったの」
――― だから、秋と戦うフリをした。
香穂は立ち上がると、深雪たちに向き直って視線を遠くに投げる。
「秋と戦うフリをすることにはもうひとつ理由があった」
「魔」に人間と敵対することを信じ込ませて、この世界に残っている高魔たちを向こうの、本来の「魔」の住む世界に呼び寄せることができた。人間に総攻撃を仕掛けるって言ってね。
「だけど本当は精霊が世界を切り離すとき、この世界にできるだけ高魔を残さないための計画だった」
「じゃあ、彼らは? 私たちと当主が戦った「魔」はなんで?」
疑問を覚えて深雪は口を挟んだ。
香穂はそっと空を見上げた。
「彼らは ―― …… 私の計画に気づいてしまう可能性があったから」
摩耶と影葉は、「魔」である香羅に、最も近い存在だった。摩耶は弟であり、婚約者だった。影葉は香羅の力によって、作り出された「魔」だから。傍にいられたら、すべてが終わる前にきっと気づかれていた。そうなったら、今までのすべてが無駄に終わってしまう。
「彼らを斥候にだしたのは、そのためよ」
殺さなければならなかったから ――― 。
堪えていた苦しみが溢れてきそうになって、香穂はふっと視線を感じて振り向いた。心配そうに見つめてくる秋に気づく。気遣うその瞳に、嬉しくなって「大丈夫」と笑顔を返す。
「秋の力にすべての私の力を放出してぶつけて……、私が完全に人間になってしまえば、何かしらの影響は出てくると思っていた」
闇を司る力のすべて ―― 。微かでも残っていた「魔」としての力、そして精霊を扱う力さえも、失ってしまったら。作られた影葉は跡形もなく、消えてしまう。摩耶も、強い衝撃を受け力を失くしてしまう。その隙を狙えば、当主の力なら“統貴一族”である摩耶とはいえ、滅ぼすことができると思った。
もういちど、香穂は摩耶に視線を落とした。
「もう……、精霊はこの世界には、存在しないのか?」
香穂の背中に当主はそう問いかける。
精霊に呼びかければわかるはずが、なぜか当主は自ら確かめることが怖くて、できなかった。
精霊が存在しないなど、と ―― 。だが、すぐに風がざわめき始める。それを感じて、香穂は笑った。
「人間が大好きな精霊もいるから。少しは残ってるよ。もう関わることがないのは、精霊の王たちだけ。闇の王とか、――― 光の女王とかね」
躊躇いがちに最後の言葉を言って、香穂は秋に視線を向ける。
それは秋も感じていた。あのとき、初めて母親に会い。だけど同時にこれが最後だと ――― わかっていた。寂しいといったら嘘になる。会えたことは嬉しかったが、秋には新城家の家族も、なにより香穂がいるから寂しいという思いは浮かばなかった。
秋が力強く頷くのを見て、香穂はほっと胸を撫で下ろす。気持ちを変えるために、口を開いた。
「さてと。そろそろ摩耶を弔わないとね」
「でも香穂は人間になったんだろう?」
秋の言葉に、香穂は頷いた。
「そうね。だから、秋。手伝って」
精霊の血を引く秋なら、香穂とすべてをかけて戦った今でも、 ――― 微かな精霊しか存在しなくても、扱うことができるから。
秋が頷いて、香穂の傍に歩み寄ろうとした瞬間、異様な気配が漂ってきた。緩んでいた空気のせいで一瞬、そこにいた誰もが気づくことに遅れる。
――― どうして。
どうしてなんだ。姉様……僕を殺すの?
たかが愚かで、無力でしかない人間なんかのために ――― 。
酷いよ。僕はこんなにも、姉様を愛しているのに。
だめだ、だめだ。 ――― だめだよ。姉様も僕と一緒でないと。そう……。一緒に行くべきだろう。ずっと、一緒にいるべきなんだ。
それは最後の想いだったのか。それとも、執着の末の呪いだったのか。強い想いは、形となって香穂に襲い掛かる。
「…………っ!?」
「「香穂っ!!」」
信じられない光景だった。その場にいた全員が、切羽詰ったように香穂の名前を呼ぶ。
死んでいるはずの摩耶を深く濃い闇が包み込み、そのまま香穂に向かって直進してきた。
(避けきれない ――― っ!)
誰もが救おうと手を伸ばしかけたが、間に合わなかった。
だが寸前で、香穂は誰かに突き飛ばされる。闇はその誰かを包み込む。
―――― 力と力がぶつかり合って、闇は爆発し消えていった。
呆然とその光景を眺めていた香穂は、我に返った瞬間、それが誰か気づいた。
「 ――― 砂霧っ!!!」
慌てて倒れている砂霧に駆け寄る。
だが ―― 思わず立ち尽くし、香穂は息を呑んだ。
砂霧の下半身がなかった。右腕も吹き飛んでいる。
「砂霧っ!」
香穂の呼びかけに、ゆっくりと砂霧の目が開く。
「……よかった。ご無事で、香穂さま……」
今にも消えてしまいそうな小さな声で ―― 震える唇で言う砂霧に、涙が零れるのを香穂は止めることができなかった。
「なに言ってるの! あんなの避けきれたわよっ!」
そう叫びながら、思う。
嘘だ ―― ……。
覚悟さえしていた。これが弟を見殺しにした自分の罪だと思いながら。その想いをわかっていながら、砂霧は微笑んで謝罪を口にする。
「……もうしわけ……あり、ません……」
いつもと変わらない口調に、香穂は不安を覚える。身体中が震え始めた。それを誤魔化すように笑って言う。
「ともかく治してあげるから。じっとしてて」
癒しの術をかけるために砂霧に手をかざそうとして、香穂はハッと我に返る。今はもう、自分にはそんな力はないということを思い出した。
砂霧は唯一、残っている左手で、香穂の手をそっと押しやる。
「砂霧?」
不安が香穂を支配していく。
「私はもう……だめでしょう。あなたも、わかっている……」
「なっ、なにいってるの?!」
そう言いながらも、確かに香穂はわかっていた。
自分に「魔」としての力が残っていても。精霊の力があったとしても。今の砂霧はもう、救えない。それほどに損傷は大きくて ――― 。
(だけど、でも ――― っ!)
「いやよ、いやだからね! 私は認めないからっ!」
泣きじゃくり、我侭を言う子どものように、香穂は感情のまま口にする。覚悟をしているかの素振りを見せる砂霧に、ただ不安と恐怖に支配されていく。
香穂の頬に流れる涙が、砂霧の顔に落ちる。砂霧は自らの頬が濡れるのを感じながら、香穂の頬にそっと手を伸ばす。指が涙に触れる。
「……幸せでした。貴女に……逢えて。「魔」である香羅さまのときの姿も素敵でしたが……、やはり、人間として過ごしていたときの、秋さまを愛する香穂さまの姿が大好きです……」
呼吸が乱れていく。
香穂はどうすることもできない自分に苛立ちながら、叫ぶ。
「わかんないっ! わかんないよっ! 人間っていっても使い方がまだわかんないっ!」
砂霧は宥めるように、頬に触れていた手を降ろして、香穂の手を握る。
「貴女には……あなたを愛するたくさんの、ひとたちが、いま、す……。そして、私も……」
――― ぐぅっ、ごほっ、ごほごほっ!
砂霧の口から大量の血が零れる。
影葉と同じように香穂の力によって作られた砂霧だったが、その器は人間のもので。だから、香穂の力が失われ、影葉が滅んでも砂霧はそうならなかった。でも、器の損傷にはこんなにも脆い ――― 。
「傍にいて、傍にいてよ! 主人の命令が聞けないのっ?!」
砂霧を失う恐怖が香穂の心を支配する。
ふと、砂霧は香穂の後ろで心配するように見ている秋の姿を見つけた。その視線に気づいたのか、秋は泣きじゃくる香穂の傍に寄る。
「……秋さま……。香穂さまのことを……頼みます」
まっすぐに見つめてくる目。強く ―― 真剣に。
秋は逸らさずに、しっかりと受け止めて、頷く代わりに力強い瞳で、まっすぐ砂霧を見つめ返した。
(もう、大丈夫……。今の秋さまになら安心して、香穂さまを任せることができる。)
砂霧はずっと胸を塞いでいたものが取り除けた気がして、息をついた。
「やだ……っ、砂霧、そんなこと言わないでっ!」
いつも傍にいる、そう約束したのに。そう ―― 誓ったのに。
砂霧は泣いている香穂の顔が揺れ、視界がぼやけていくのを感じながら、最後の気力を振り絞る。
「お願いを……。私は風に還りたい。貴女が愛した風に……私はなりたい…………」
香穂は力を失っていく砂霧の手を両手で強く握った。
「風になったって、そんなので傍にいてくれたって……。話もできないし、……もうっ、会えないじゃないっ!」
死なないで、死なないで ――― 。
必死にそう願う香穂の想いが伝わってくる。砂霧は優しく微笑んだ。
――― 泣かないで下さい、愛しい人よ。
貴女に出会えて、本当に幸せでした。貴女を姉として、母として。何よりも、対等な者として愛せたことが嬉しかった。たとえ、貴女を愛するように作られていたとしても。この気持ちだけは、……心から溢れてくるこの想いだけは、真実でした。
だから、悲しむ必要はありません。これからも、風となり、いつまでも貴女を見守っています。
「砂霧……?」
ああ ―― 香穂さま。
美しい桜が。満開に咲き誇る桜が見えます。傍で、ほら。秋さまが手を振っています、深雪さんたちも。影葉も ―― 摩耶さまも。……佳人さまたちも。
そして ―――
「な、なに冗談やってるの?! 怒るわよっ! 目を開けなさいっ! 砂霧っ!!」
がくり、と力の抜けた砂霧の身体を香穂は激しく揺する。
だけどその身体が動くことも。いつでも香穂を見守っていた瞳が開くこともなかった。
「いやよっ、砂霧っ!!」
砂霧 ――――――― っ!!!!