「やっぱり、ここだった……」
秋は深いため息をついて、目の前で無防備な表情で眠っている彼女を見つめた。確か、1年前もその前もその前も。彼女はここにいた。同じ日に。朝からずっと……。
「香穂、風邪引くよ?」
優しく声をかければ、ゆっくりと真っ黒な瞳があらわれる。
「う、ん…、秋?」
眠そうに瞬きを繰り返す香穂の隣に座った。ことん、と肩に重みを感じる。
「忘れられない?」
ひらひらと零れ落ちてくる桜の花びらに視線をあげて、秋は静かな口調で訊いた。舞い降りる花びらをすくいとるように、香穂はそっと手を伸ばして、今にも消え入りそうな声で頷いた。
「……そうね。でも、それが約束だから」
掌を閉じて、香穂は秋の肩に頭を寄せたまま、また瞳を閉じた。
――― 関係ないわ。
そう口を開こうとした香穂の気配に気づいて、秋は思わず彼女のわき腹をつついた。
「香穂、もう少しちゃんと話しを聞こうよ」
優しく宥める言葉を言うと、不機嫌な態度を隠そうとはしなかったが、それでも口をつぐんでくれた。ほっと、胸を撫で下ろして、向かい側に座る、齢を重ね、髪の毛はすっかり白く染まった、それでも綺麗に結わっている女性に視線を戻した。
「それで、笠音(かさね)様。その村はどこにあるんですか?」
香穂の祖母に当たる笠音は、香穂の不機嫌な態度にも嫌な顔ひとつせず、穏やかに微笑を浮かべたままで、秋に答えた。
「この街からは随分と離れていてねぇ……。白ヶ山(しらがやま)はわかるかい?」
秋は脳裏に地図を思い浮かべて、頷く。確かに、この街からはヘリを使っても、北に3時間は掛かる連山のいちばん大きな山で、奥地に入れば樹海とも言われている場所だ。
「白ヶ山にはもともと2つの村があってね。1つは、地図にも載っている。山の名前をそのままとった、白ヶ村で、もうひとつはそこから更に奥地に入って5時間は歩いた場所にある桜ヶ村という」
白ヶ村は秋にも地図で見覚えはあった。だが、桜ヶ村というのは聞き覚えもない。
香穂は知っているだろうか、と視線を向ければ、興味なさそうに庭を眺めていた。こうして黙り込んでいるときは、たとえ秋が話しかけても相手にはしてくれない。
仕方なくため息をついて、秋は話を進めた。
「そこに向かえばいいんですか?」
「そう。距離も遠いから、普段は村の様子を白ヶ村と桜ヶ村の巫女が週に1回は遠見のできる鏡で連絡を取っていたが、急にぱったり桜ヶ村から連絡がこなくなった。そこで白ヶ村から人を数人派遣したが誰も帰ってはこなかったという話しらしい」
そうして、白ヶ村の巫女は親友でもある笠音に「助けてほしい」と連絡をよこしてきた。だが、笠音は病床についている夫を置いて、そうそう屋敷を離れるわけにはいかなかった。そこで、ちょうど夏休みを兼ねて見舞いに訪れた香穂たちに頼んできたということだった。
「わかりました。早速、調べてきます」
秋はしっかりと頷いて、笠音に返事をする。ちらり、と隣を見ても、香穂はまだ視線を庭に向けたまま、黙り込んでいた。
返事をしても、反論しないならそれは香穂も承諾したということで、結局は本当に香穂が納得しない依頼なら、あの手この手で丸め込んで断るし、そのときは秋の意見なんて全く無視だとわかっていたから、笠音からの依頼を受けてくれたことに、秋はこっそりほっと息をついた。
「手配はすべて私がしておくよ」
笠音はそう言うと、膳は急げとばかりに立ち上がって部屋を出て行った。
それを見送って、秋はふと、隣で庭を眺めていた香穂が、とても複雑な表情を浮かべていることに気づいた。声をかけることもできないほどに、深刻な空気を纏って。