香穂が触れた桜の樹に力を送り込んだ途端、激しい風が桜の樹を取り囲む。それまでうつくしく咲き誇っていた花びらが、風に煽られるように一気に舞い散っていく。散った花びらはそっと、倒れている村人達のうえに降り注ぎ、そうしてまるで村人のなかに吸い込まれていくかのように空気にとけて、消えた。
『―― すまぬな、香穂。ありがとう、秋』
不意にそう囁く声が聞こえた。
秋は姿を探そうとしたけれど、声の持ち主は見当たらず、香穂が触れていた樹は花びらと同じように空気に溶け込んでいく。
ずっと、村を護り続けていた桜の樹は秋と香穂に見送られて、消滅した。
目覚めた村人たちは浄化されており、真人から人間に戻っていたものの、花姫のことは勿論、そこに桜の樹があったことを覚えている者はいなかった。
今回の事件についての説明をすべて秋に一任し、香穂は面倒だからと桜の木のあった場所に再び訪れていた。
僅かな苛立ちと憐れみを感じてしまうのは、花姫の存在があまりにも容易く忘れさられてしまったからだろうか。長い年月見守って、護り続けてきたのに何の見返りもないなんて、それどころか存在自体忘れられてしまうなんて惨めだとは思わないのか。
「そうまでして、人間を護るなんてほんと、精霊ってばかじゃないの」
何かが見つかると思ってこの依頼を受けたのに、見つけたそれは、所詮がらくたのようなものの気がした。
『我の存在は、そなたが覚えててくれるだろう』
得意げに言い放たれた身勝手な言葉が浮かぶ。
そう言われたとき、頷きはしなかったからそれは約束にならないし、頷かなかったからと言って忘れることができるわけでもない。逆に香穂にとっては、忘れるという行為自体がムリだ。生きている年月、些細なことでも記憶してしまうのが性分だった。だから、まだ花姫がこの村に植えられた当時、ほんのひとときではあったが出会い、交わした言葉を覚えてる。桜の精霊は珍しかったし、花姫は話していて面白い存在だった。それでも、桜の精霊の寿命を知っていたからもう出会うことがないと思っていた。
「あ、あの……!」
唐突にかけられた声に、気配は感じていたから驚くことなく振り向く。友子が困惑した顔つきで佇んでいた。
「なにか?」
「いえ……。ここでなにしてるのかなって、見かけたからつい、」
彼女の目に好奇心に煌く光を見つけて、馬鹿馬鹿しいと吐き捨てたくなる気持ちになる。口には出さないまでも、肩を竦めて、感傷を振り切るためにも秋が来るまで待つまでもなく、帰ろうと踵を返した。
「私も、ここ気に入ってて……なんでかここにくると胸があったかくなるんです」
だから、この村がとても好きなんですよ。
聞いてもいないのに、友子が言う。
背中越しに伝わってくる優しい空気に、踏み出そうとしていた足がなぜか止まる。だからといって振り向くわけでもなく立ち尽くしていると、不意に「あっ」と小さな声があがった。
「……こんなところに、木の芽が」
喜び含む声を聞きながら、留まっていた足を進める。
風がまるで慰めるかのように、そっと吹き抜けていく。余計なお世話、と感じながらも瞼を下ろす。花姫の姿が瞼の裏に浮かんだ。
新しい命がそこに生まれても、それはもう花姫じゃない。だけど、彼女の想いは受け継がれて、再びあそこに育つ桜の樹は村を、村人たちを護り続けるのだろう。
「花姫、しょうがないから、私は覚えててあげるよ」
忘れられないから、ではなく。
香穂が応じれば、それは違えることのない約束になる。
自らの全てをかけて人間を護り続けた、力ない精霊のその強さは香穂の心の片隅に刻まれた。
「香穂! 帰ろう!」
秋が手を振っている姿を見つけて、香穂は先を急いだ。