違和感を覚えて、秋は自らの手に集まった風の力に視線を向けた。いつもと違ってそこに漲る力が大きく感じられる。精霊たちも花姫の想いに応じたいのだ。
『命を守りたい。』
精霊の想いはとても純粋で、だからこそそのための力を貸してくれる。負けるわけにはいかなかった。たとえ、この場所に香穂がいなくても――。
≪風の精霊よ、鋭き刃になりて、敵を滅せよ!≫
集めた精霊の力を妖魔に向けて放出する。
妖魔は大きな手を振りかざし、秋の投げつけた力を払いながら突き進んでくる。
≪塊(こん)と化し、気を爆ぜよ!≫
近づいてくる妖魔に更に次の力をぶつける。
無数の塊と化した風の精霊が標的目掛けて一斉に襲い掛かる。妖魔に命中すると同時に小さな爆発を起こす。本来なら足止め程度のそれも、今は妖魔の身体の肉を抉り、片足をもぎ取った。
「おのれぇっ! よくも!」
憎々しげな光が妖魔の紅い瞳に浮かぶ。さっと、周囲に視線を巡らせると残っている片手を振り上げた。それを合図に取り囲んでいた村人達が再び秋に襲い掛かってくる。先刻と同じように風を使って遠ざけようとしたものの、村人達は傷を受けながらも突進してきた。
目は虚ろで、受ける傷を気にすることなく進んでくる姿は操り人形のようだ。
彼らに注意を向けた隙に、ハッと視線を戻すと妖魔が姿を消していた。慌てて気配を探る。
「死んでしまえっ!」
声が聞こえたのは、頭上。
咄嗟に視線を向けたときには、秋の真上で妖魔が力を放った。
避けようとして、周囲に村人達がいることを思い出す。今避ければ、妖魔の力に巻き込まれるのは村人達だ。けれど、結界も間に合わない。
「っ、」
生じた秋の動揺に感化されて、精霊の力も弱まる。
その一瞬をついて、頭上から妖魔の力、左右から真人と化した村人たちが襲い掛かってきた。
傷を負う覚悟でとりあえず妖魔の力を振り払おうと、目標を頭上に定めることに決めて、秋は風の精霊を動かす。小さな竜巻を作り妖魔の力を散らそうとしたが、その隙を狙って村人の刃が振り下ろされた。
キィィン。
鋭い金属音のようなものが響いて、秋に振り下ろされた刃は彼の周囲にできた結界にはね返される。
「なにっ?!」
驚いたのは妖魔だ。絶妙のタイミングで、致命傷は与えられずとも自分が受けた傷くらいは返せると確信していたのに。
だがすぐに思い直して、ならばと、そのまま自らの大きな爪で斬りかかる。
唐突に自分の周囲に張られた結界に同じように驚いていた秋は、妖魔の攻撃にハッと息を呑む。戸惑っているうちに、妖魔の爪が中にいる秋もろともに結界を裂こうと振り下ろされ ――
―― 秋、目を閉じて。
前触れもなく、脳裏にそう声が聞こえて、秋は理解するよりも早く目を閉じる。光が閉じた瞼のなかに入り込んできた。
「うわぁぁぁぁっっ!」
妖魔と、村人達の叫び声が響く。
光はほんの一瞬で消えて、秋は瞼を持ち上げる。視界に捉えたのは、風になびく長く艶やかな黒髪。スッと伸びた背中。秋の前に立つ後ろ姿は毅然としていて、そんな彼女を守るかのように花びらが降っていた。思わず状況も忘れて、見惚れてしまう。
「……香穂」
「遅くなってごめんね」
背中に呼びかけると、くるりと振り向いて見慣れた顔が笑顔を浮かべる。謝罪をしながらもその口調にも表情にも悪いと思っていないのは丸わかりだった。けれど、その存在に秋は我知らず肩に入れていた力が解けていくのを感じていた。
「無事でよかった……」
そう声をかける。
香穂に万が一がないことはわかっていても、姿が見えないことは不安で、目に見える範囲に彼女がいないことがどれだけ心配で、焦燥を募らせるか。それを強く自覚して発した言葉に、香穂が大きく目を見開く。そんな顔をされるとは思わなくて、訊ねた。
「どうかした?」
「……ううん。それはこっちの言葉でしょ」
ふいっと視線を逸らされて、秋は疑問の眼差しを向けた。わずかにその頬が薄っすらと赤く染まっていることに気づいた。香穂が照れてることに、くすぐったさを覚える。頬が緩みそうになるのを堪えて、「僕は無事だよ」と返事をした。
「あたりまえ。それより ――」
照れ隠しか、香穂はすぐに表情を戻して、桜の樹に視線を向けた。
さっきの香穂の攻撃で妖魔は消滅したらしく、周囲には村人達だけが意識を失って倒れている。
「花姫は、精霊に戻ったのね」
「うん。結界を解いて、僕に精霊を使わせるためにね。村人たちを救ってって言い残して……。ねぇ、香穂」
「ムリよ、秋。再び花姫を作ることはできないの」
秋の言葉を先回りして、香穂は首を振る。
そうしてこのまま、この樹を残しておくことも出来ないことは香穂が口にするまでもなく、二人ともわかっていた。残しておけば、力を失ったこの樹はやがて悪しきもの ―― 妖魔と化してしまう。
『花姫は、どうしたい?』
あの夜、そう問いかけた香穂に対して、花姫は寂しげな笑みを浮かべた。そっと樹に触れた花姫のその小さな丸い目に懐かしげな光がよぎったのを捉える。どうしたい、と訊きながら、花姫が選ぶ道がひとつしかないのはわかっていた。それは精霊の、精霊として違えることのできない選択肢のはずだ。以前なら、聞くまでもない答えに興味はなく、そんな無駄なことは省いて自分の都合で運んでいたのに、今はどうしてか花姫の口からその答えを聞きたかった。
『 ―― それならば、我を滅ぼしてくれ。狂桜花となったものはやがて力が空になると同時に悪しきものを溜め込み始める。そうしてやがては妖魔と化し村人に ――人に危害を及ぼすことになろう。だから手遅れになる前に、頼む』
わかっていたはずの答えなのに、花姫の口から告げられた途端、胸にざわりと騒ぐものを香穂は感じた。
人間のために、あたりまえのように自らの滅びを望む、理解できないその気持ちが息を詰まらせる。理解できないことが当たり前だったのに、理解できないと思ってしまう自分が嫌になる。
そうして、その願いをなんの代償もなくかなえようとする自身にも戸惑っていた。