私はどうしても夢を諦めることができません。
どうか、娘の親不孝をお許し下さい。
セリカ=ラオリーン
1914年―― イギリスからニューヨークへの処女航海を行う1隻の船があった。フィラルド会社によって作られたその船は、全長270m、885ft全幅29,18m、総重量47,217t、速度24ノット、43,2K/h 製造費8,000,000ドルもかけられ、世界最大とまで言われていた。
その船の名前を【セルズニック】号、という ―――。
「ふーん、ここが2等船室ねぇ。まぁまぁじゃない!?」
何もかもが新しい部屋をしみじみと眺めて、親友のメニエが荷物をベットの上に置きながら言う。
「十分よ。無事にニューヨークへ着けるなら ――って、なにするのよ!」
笑って応じると、突然メニエが枕を投げつけてきた。
顔面すれすれで受け止めて、投げ返す。
「だって、セリカったらせっかくの旅立ちに不吉なことを言い出すんだもの」
メニエは枕を受け取ると元の場所に戻して、ベットに腰掛ける。荷物を整理する手を止めて、私も彼女の隣に座った。
「ごめん、ごめん。ほら、そんな顔しないで。夢のニューヨーク、憧れのハリウッド!」
慰めるように言うと、女優志望のメニエはその整った顔に輝くような綺麗な笑顔を浮かべた。
「そうよ。私は女優、セリカは歌手。夢のために行くのよね」
「そう。この船はさしずめ、”夢への豪華客船”ってとこ」
笑顔を交わして、私たちは期待を膨らませる。
かすかな不安をその胸に押し込めて…………。
1等船室は資産家のみに与えられる部屋である。様々な財閥の人間が乗客として名を連ねる中で1番の資産家、レイズ財閥の会長は溺愛する息子とその婚約者とともに優雅な部屋でくつろいでいた。
「素晴らしいと思わないか、クリス」
( ――ちっとも思いませんね。)
心の中でそう答えておきながら、作った笑顔で親愛すべき父に尋ねる。
「何がです?」
ミレーヌ嬢から紅茶を受け取り、父は興奮したように言う。
「私たちは今、歴史的瞬間に立ち合っているのだよ。世界最大と言われる船に乗り、その処女航海の場にいる。きっと、向こうに着いたとき我々はこの船とともに注目されるだろう。その乗り心地や素晴らしさを聞きたいがために、な」
「素晴らしいことですわ」
ミレーヌ嬢までが興奮してか、頬を赤く染めていた。
そんな二人を見ていられずに、ポケットから懐中時計を取り出し時間を見る。
「ミレーヌ。もうすぐディナーが始まるから、着替えてきた方がいいんじゃないか」
優しく言うと、彼女は頷いて自分の部屋へと戻って行った。
「美しくて優しくて、男を引き立たせる心得を持っておる。本当にいいお嬢さんだ」
「あなたが知っている彼女の魅力はそれだけですか?」
魂胆はわかっている。そう含めて訊くと、狸顔の父はニヤリ、と笑う。
「もちろん、彼女の最大の魅力は石油王カルッサ氏の娘というところにある」
「そうでしょうね」
自嘲気味に笑ったのにも気づかずに ―― 気づいていたとしても無視されていただろうが ―― 父は席を立った。
「では、私もそろそろ着替えてくるとしよう。クリス、またディナーでな」
片手をあげて部屋を出ていく。
ドアが閉まり、部屋に静けさが戻ると同時にようやく独りの時間が持てたことにほっと息をついた。改めて部屋を見回す。最高級の品々で揃えられた室内は広すぎるはずなのに、息が詰まりそうになる。
「地獄への豪華客船だな」
ぽつり、と呟いてみる。
向こうに戻ったら、ミレーヌと式を挙げなければならない。父が選んだお偉い方々の、見知らぬ他人の前で。
(政略結婚は仕方ないことかもしれないが……。せめて一度くらいは、心から愛せる女性に会って見たかったと思うのは……。)
肩を竦めて思い直す。そうだな、仕方ないことなんだ。
その思いを心の中に押し込めて、ディナーに出るための支度を始めた。
―――― 少し酔ったようだから、夜風に当たってくるよ。
喫煙室でそう父に断り、デッキへ出掛ける。
外へのドアを開けた瞬間、冷たい風が刺すような感覚でぼやけた頭の中を突き抜けていった。それと同時に、優しい歌声が耳に届いた。
《 夢に向かって 私はいま 旅に出ようとしているの
海の向こうには何が待っているのかわからないけれど
この星空を見れば きっと素晴らしい何かがつかめるような気がするわ…… 》
(うーん、いまいちかなぁ。)
リズムが上手くつかめずに悩んでいると、どこからか拍手が聞こえてきた。
「素晴らしい……」
感嘆するような言葉に振り向くと、そこには1人の青年が立っていた。
ブラウン系の髪に黒い瞳、整った顔つき。男性にしてはほっそりとした感じのその人は優しい笑顔を浮かべている。
「今の……失敗よ」
照れ隠しに言うと、彼は軽く片目をつぶって見せた。
「失敗は成功のもと、とも言う」
その言葉は誉めてるのか慰めてくれてるのかわからなくて、肩を竦めて曖昧に誤魔化すと、彼も面白そうに笑った。
「私、セリカよ。よろしく」
「僕は、クリス。クリス=レイズだ」
握手を交わしたその手から伝わるぬくもりに、何かしら新しい感情が浮かび上がってくるのを感じた。初めて逢ったのに、懐かしさが溢れてくる。
(これは……なにかしら?)
不思議な感情に支配され、戸惑いながらも、にっこりと笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、クリス。せっかくお会いできたんですけど、私もう行かなくちゃ」
握手をしたままで言う。
「そうかい? それは残念だけど、仕方ないね。じゃあ」
「ええ……。また……」
口調はあっさりしていたが、お互いの手は握られたままだった。
「……僕の手が離れたくないって言ってるんだ」
冗談めかして言われる言葉に苦笑しながら、同じ気持ちになっていることに喜びを感じる。だからこそ、その気持ちを素直に口にしていた。
「私の手も離れたくないって言ってるわ」
「それなら、もう少し話していかないかい?」
その優しい言葉に頷きかけたが、ふと思い直した。
「ごめんなさい。そうしたいんだけど、友達が待ってるの……だから」
セリカから手を離すと、彼は仕方なさそうにため息をついた。
行かなきゃ、とは思うのにセリカ自身、立ち去りがたくてなかなか踵を返すことができないでいた。それでももう本当に行かないとメニエが心配してしまう。
「お休みなさい……」
「ああ、おやすみ」
全身の力を振り絞り、ようやく諦めて、船内へと続くドアに向かっていたとき、彼の声が聞こえた。
「明日っ、お昼にここで!」
「ええ、わかったわ!」
笑顔で手を振ってから、船の中へ入っていった。
あんなに美しい女性がこの世にいたなんて……。
夜の海を眺めながら、先ほどの出来事を思い浮かべる。
暗闇に輝くブロンドの髪。空のように明るいブルーの瞳。美しい容貌とプロポーションはもちろん。何よりも感動したのが、なめらかに響く彼女の歌声だった。そして、笑顔。
知らないうちに、切なげなため息をもらしていた。
「クリス?」
――――― セリカ!?
戻ってきてくれたのかと思い、振り返るとそこにはミレーヌが驚いたような目でこっちを見ていた。
「どうしたんです?そんなに慌てて……」
「いや、何でもない。少し驚いただけだよ」
戸惑いを隠して、平静を装う。
「ここは寒い。中へ入ろう」
彼女の肩に手を回して、失礼にならないようエスコートしながらドアへと誘った。