「やめときなさい」
朝食を食べながら、昨夜の話を終えたとき、メニエが真剣な顔でそう言った。
「どうして?」
スプーンを置いて訊くと、彼女は水を飲んでから、厳しい表情で続ける。
「いい? あなたが言うクリス=レイズっていうのは、たぶんここの乗客たちが噂している財閥のご子息様。つまりはおぼっちゃまなのよ。そんなのに関わったら、弄ばれて、ポイッ」
あっさりとしたメニエの口調に、思わず頷く。
「そうね……」
―――― まさか、彼がレイズ財閥の御曹司だったなんて。
芽生え始めたばかりのこの想いは……、断ち切らなくちゃいけない。
そう思ったとき、メニエが複雑な表情でこっちを見ているのに気づいた。
「なに?」
「もし、あんたがどうしても……って言うんなら、向こうについてすぐ家に」
彼女の言おうとしていることを悟って、すぐに首を振る。
「冗談はやめて。わかったわよ。彼にはもう近づかない」
きっぱり断言すると、彼女は改めて朝食を食べ始めた。
(だけど、1日 ―― ううん、ほんの少しの間だけなら。)
もう1度だけでも。彼に会いたい。
太陽が空高く昇る頃。
お昼を食べた後で、再会した二人は甲板を散歩しながら楽しい時間を過ごしていた。
「じゃあ、その人に憧れて?」
セリカはニューヨークへ行く理由をクリスに話す。
「そうよ。だから私も歌手になりたくて、イギリスから飛び出してきたの」
「すごいな」
尊敬と敬意が込められた目で見つめられ、恥ずかしさに頬が赤く染まっていくのがわかった。
「そんなことないわよ」
「いや! この時代に君みたいな勇気のある女性がいるとは思わなかったよ。本当に素晴らしい」
少し興奮したように言うクリスに、手で肩を掴まれる。手を乗せられた肩が火照っていくような気がした。
知らず、クリスの無邪気に輝く瞳に吸い込まれそうになる。
彼の唇がそっと、優しく触れた。
『――――― 彼はおぼっちゃまなのよ。ポイッて捨てられるわ』
そのまま恋の波に飲まれようとした瞬間、メニエの言葉が脳裏をよぎっていった。
「だめよ、クリス。私たちはこんな事しちゃいけないわ……」
彼から顔をそらして、やっとの思いで言う。
「どうしてだい? 素直な気持ちなんだ。君を愛してる」
「まだ会ったばかりなのに、そんなこと言うなんて……っ!」
「時間なんて関係ないよ」
クリスはそう言いきると、もう一度顔を傾けた。
(そう……。時間なんて関係な ―――……)
「やっぱりダメ!」
彼の胸を押して、その腕から逃げ出す。
「セリカッ!?」
戸惑うクリスをよそに、手すりに足を向けた。
海の匂いが優しい風に乗って通り過ぎていく。
(気持ちいい ―――。)
傍にきたクリスもその風を感じている。
海に視線を向けたままで、彼に話しかけた。
「……ごめんなさい。まだあなたのことを信じられないの」
このままこの恋に身を任せても良いのか。それとも ―――――。だって、あなたはお金も権力も持ってるし、何よりもあなたはかっこいいもの。頭もいいし、最高の男性よ。きっとあなたの周囲にはそれにふさわしく、美しい女性たちがたくさんいる。それなのに、何一つあなたにふさわしいものを持っていない私にそんなことを言うなんて……。
「ふさわしいものって、たとえば?」
彼は悪戯っ子のように目を輝かせた。
「そうね ――。たとえば、ふさわしい地位、とか?」
「僕が最も望むことは、ふさわしい心を持った君、なんだけどね」
優しく言う彼の瞳は真剣だった。
思わずその瞳に心がぐらつきそうになったとき、ひとりの紳士が美しい女性を連れてこちらに向かってくるのに気づいた。
「クリス!」
名前を呼ばれたクリスは一瞬だけ顔を顰めたが、すぐに笑顔を浮かべるとゆっくりした動作で振り向いた。
「父上、どうしたんです?」
(父上 ―――っ !?)
じゃあ、この方がレイズ財閥の……。
「どうした、じゃない。お前がミレーヌ嬢をほっといて別の女性と歩いていると聞いたもんでな」
レイズ氏は睨み付け、なめ回すような感じで真っ黒い目を向けてくる。探るようなその視線に耐えていると、クリスが庇うように立ってくれた。
「父上、失礼ですよ」
クリスの非難めいた口調にレイズ氏は少し驚いたようだったが、すぐに気を取り直し、口端をあげた。
「不躾で悪かったね。私はウェリス=レイズ、クリスの父親だ。こちらにいる女性が、ミレーヌ=カルッサ嬢。クリスの婚約者なんだよ」
「よろしくお願い致します」
婚約者……クリスの?
『捨てられるわ ―――― 』
「私はセリカ=ラオリーン。こちらこそ、よろしくお願いします」
メニエの言葉が頭の中を埋め尽くす。
「では、私はこれで ――― 」
一礼して、足早にその場から離れた。
なんてひどい人なの! 婚約者がいる身でありながら!
よりにもよって『愛してる』だなんて。やっぱりメニエの言った通りだったんだわ。
よかった……。大変なことになる前に気づいて。そうよ、よかったのよ。もう二度と彼に会ってはいけない ―――。
そう思うのとは裏腹に、涙が零れて止まらなかった。