(……私は今きっと、世界一幸せな人間だわ。)
隣で眠るクリスを見ていると、そう思わずにはいられなかった。
彼の頬に軽くキスをして、気づかれないようにベットを抜け出し着替える。
「……早いね」
クリスの声が聞こえて目を移すと優しい笑顔で見つめてきていた。
(ちょっと恥ずかしいかも……。)
照れ臭いのを隠すために、ひとつの提案をする。
「朝早い船の散歩に行こうかなって思って……」
「いいね。でもその前に ――― 」
そう言って、手招きをする。
(なに ―――― ?)
不思議に思いながらも傍に行くと、いきなり唇を塞がれた。
驚く間もなく、すぐに彼の唇は離れる。
「おはようのキス」
優しい声でそう言ったクリスはそっと、抱き締めてくる。
「幸せにするよ、絶対」
真剣で力強いその声に、温かい幸せを感じるぬくもりが込み上げてきた。
ええ、幸せになりましょう。
たとえ何が起きても ――――。
4月の風が、冷たさを乗せて過ぎていく。
火照った身体には気持ちが良かった。
「僕の母は、お金持ちのお嬢様でね。父とは政略結婚だったんだけど……」
クリスの話を聞きながら、甲板を歩いていた。
つないだ手からは互いのぬくもりが伝わりあう。クリスはかすかに手に力を込めて先を続けた。
「あの人は可哀相な女性だった。父は彼女を形だけの妻としか扱わなかったよ。まして、母の実家が破産したとたん、彼女を見捨てたんだ。そして、僕の母は自殺した……」
自殺、その言葉がセリカの心に重くのしかかってきた。
「だから、僕は。本当は、結婚するのなら心から愛した女性がいいと思っていた。でも、結局この時まで巡り会えなかったけど」
先程とは違う口調で言うと、クリスはその黒い瞳に悪戯っ子のような輝きを浮かべて、セリカを見つめた。
「クリス……」
セリカは言葉に詰まる。
せつなさと彼に対する愛情で胸がいっぱいになった。
「今夜、父上に会ってくれないか? 正式に君を紹介して、認めてもらいたいんだ」
決意のこもった真剣な瞳で、彼は言う。
セリカは思わず、頷いていた。途端、クリスがパッと華やかな笑顔を見せる。彼に優しく抱き寄せられて、囁くように耳元で有難うと、言われた。
暫くの間、二人はぬくもりに満ちた暖かい抱擁を交わしていたが、風が冷たくなってきたこともあって、また夜に会う約束をして互いの部屋へ戻っていった。
セリカは二等船室以下に開放されている食堂で、少し遅い食事をとっていた。
昨夜と今日まで続いた幸せを噛み締めながら。
「あ ―っ 、首筋にキスマーク!」
不意にそう声が聞こえて、思わず持っていたスプーンを放し、首に手を当てる。
その動揺に背後から笑い声が聞こえた。
「なんてね。う、そよ」
からかうような口調とともに、メニエが姿を見せる。
「……もうっ!」
赤く染まる頬を膨らませながら、セリカはすねるように上目遣いで彼女を睨んだ。
メニエはさっとセリカの前の席に座ると、食事を続けるセリカを優しく微笑みながら見つめる。
「幸せそうね?」
「ええ。とっても」
上機嫌に素直に頷く親友に、彼女は「ご馳走様!」と苦笑した。
一通り、たわいもないお喋りをしていたが、セリカが朝食を食べ終わり、食後のコーヒーを飲み始めるとメニエも自分のコーヒーに口を付けて、真剣な口調で訊いてくる。
「で、彼には全て話したわけ?」
びくっ、カップを持っていた手が一瞬、震える。
その動揺を見たメニエは、深いため息をついた。呆れたように言う。
「まったく……。それで良いの?」
「わかってる。ちゃんと言わなくちゃいけないってことくらい」
「だったら……っ!」
苛立つように言うメニエを遮って、セリカは後を続けた。
「でもっ、私はもう違うもの! 私の過去を彼にまで背負わせたくないし、彼には私自身を見ていて欲しいんだものっ!!」
知らず大きくなった声に、セリカはハッと我に返った。周囲から向けられる視線に顔を赤らめ、うつむく。
「……けどね、セリカ。それでも隠してることは、いつかばれるものよ」
「ええ……。そうね……」
優しく諭すような口調で言われたセリカは、物憂げに頷いた。
「捨てたはずなのに、まだ縛られてるみたいだわ」
「実際に縛られたままでいるのとは違うでしょう?」
諦めたように息をつくセリカに、励ますようにメニエが言った。
その頃、船は予定時間よりも早く港に着くために、そのスピードを速めていた。