セルズニック号の悲劇

(5)最後のディナー


 ディナーの時間になってセリカを迎えにきたクリスはあまりの美しい姿に、思わず息を飲んだ。
 綺麗に結い上げられている輝く金の髪。冴え渡るブルーの瞳に似合う、淡く染められた水色のドレス。いつもよりも少し赤い口紅。薫りの優しい香水。
 部屋の中で笑顔を浮かべているセリカが、まるで輝き放つ女神であるかのような感覚に陥った。
「なんて、綺麗なんだ…………」
 思わず零れ落ちた呟きに、彼女は恥ずかしげに頬を染めた。
 その姿のあまりの初々しさに、クリスはそっと彼女の頬に触れる。幻の女神じゃなく、本物のセリカであることを確かめるかのように。
「ク、クリス……?」
 戸惑いを見せるセリカに優しい笑顔を返して、彼女の手を取った。
「では、参りましょうか。ミス、セリカ」
 クリスはからかうように言いながら、セリカとともにディナーへと向かった。


 何かを言われることは予想していた。
 クリスは気づかれないように息をつくと、困っているセリカに助けを出した。
「父上、それは失礼でしょう」
「なぜだ?」
 間をおかず、父は厳しい声を放つ。
 彼の瞳の奥に苛立ちが募っているのがわかった。
 それがなぜかもわかっている。
 父が彼女をディナーに招待することをあっさり許してくれたのは、おそらくセリカに上流階級が行うマナーなど、わかるものかと彼女を嘲笑していたからだ。
 身分の違いをわからせるため ―――。
 もちろん、それを知った上でクリスは彼女を連れてきた。
 ミスをしたらいつでも助けを出すつもりで。それにたとえミスをしても、この想いが冷める分けない。だが、どちらにしろ。二人の思惑をセリカはあっさりと破って見せた。
 同じテーブルを囲む一流の人間たちが思わず見惚れてしまうくらい、彼女のマナーは素晴らしいものだった。
 優雅な身のこなし、丁寧な挨拶。食べ方の美しさ。話し方も男女問わず好意を得るような楽しい話題。全てが完璧だった。
 しかし、食事が終わりコーヒーが回ってきたとき、最後の悪あがきとばかりに父がひとつの提案を出した。
『ミス、セリカ。どうだね。この辺で、君の得意だという歌を皆さんに披露して欲しいんだが』
 これには、さすがにセリカも戸惑った。
 それを見て取った父は、機会とばかりに彼女を促す。
 たぶん、彼女に歌を披露させて、下手だ何だと嘲笑うつもりでいるのだろう。
「彼女にも心の準備というものが ――― 」

「かまいません。わかりました」
 クリスの声を遮って、セリカは澄んだ声で答えた。
 驚くクリスに視線を投げかけてくる。大丈夫、とセリカの瞳はそう微笑んでいた。


 マイクもいらないと断ったセリカに、照明が集められる。
 好奇心、軽蔑。どちらにしろたくさんの視線が向けられる。だが、セリカにとってそんなことはどうでも良かった。
 (歌が唱える ―――――。)
 それだけで嬉しくて胸がいっぱいになる。

 昔、お世話になった女性が言っていた。
『いい? どんな場合でも、歌が好きなら唱える機会を逃しちゃダメよ。おもいっきり歌いなさい。心を込めれば、どんな人間にもきっと通じるから』

 セリカは一度、軽く目を伏せた。
 そして次の瞬間、閉じていた目を開けると優しいメロディーに乗って、心を込めて胸に広がる想いを歌った。

《  貴方を探していたの……。   この広い空の下 ――――
  出会いを運命だと信じて。

  目を見たときわかったの    触れ合う指先に気づいたの
  温かなぬくもりに感じたわ

  貴方を探していたの……。

  名前も知らなかったわ     どんな人かもわからなかった
  ただ傍にいたいと強く願っていた

  貴方が運命の人。

  二人をつなぎ止めるものは何もないから ――――

  今すぐ  この空の下 ―――――――
  二人の愛を道標に   何処までも行きましょう

  貴方とともに ―――――――――    》


 ……ホール中に、美しく澄んだ声が響き渡った。どこまでも甘く、優しく。
 ステージ上にいるセリカが、光に包まれているように見えた。

 やがて、メロディーが終わり、セリカの歌声も余韻を残して消えていく。
 しん……。
 時間が止まってしまったかのように、そこにいた全ての人たちの動きが止まっていた。
 セリカを見下していた男たちの声も、汚らわしいとセリカを罵る女たちのひそひそ声も。好奇心にかられていたボーイたち。船員たちの話し声も。子供たちのざわめきさえも、聞こえなかった。
 歌い終わったセリカが、ぺこりと頭を下げると一瞬にしてホールは割れんばかりの拍手に包まれた。

「父上、どうです? 彼女の歌は素晴らしいでしょう?」
 隣に座る父に視線を移す。
「父上……?」
 ぴくりとも動こうともしない父に、訝しむような声をかけると、彼は我に返ったように答えた。
「ふ、ふん。まあ、まあだったな……」
 ふい、と顔を背ける父の瞳に何か光ったものを見つけたような気がしたが、たいして気にもとめず、席を立ち人混みに囲まれているセリカのもとへ足を向ける。
 ミレーヌがそんなクリスをため息をついて見送っていたのに、彼はまったく気づいていなかった。

「素晴らしかったですわ……っ!」
「いやはや、貴女の歌声はなんて心地良いんだろうな」
 次々と贈られる賛辞にセリカは、いちいち笑顔で応えていた。
 集まっている人混みに中にクリスの姿を見つけて、ほっとする。誉められるのは嬉しいが、歌っていないときに人の視線にさらされるのは苦手だった。

「クリ……っ!!」

「セリカ様っ!! セリカ様ではありませんか!?」

 クリスのもとへ駆け寄ろうとした瞬間、自分を呼ぶ声に引き止められた。
 慌てて周囲を見回すと、驚いたような表情でセリカのもとに1人の紳士がきた。
「やはり、セリカ=ラオリーン様でいらっしゃいますね?」
 ラオリーンの名を呼ぶその男は、嬉しそうに眼鏡をかけた瞳を細めている。
 セリカの顔に緊張の色が浮かぶ。
「あなたは……?」
「いやあ、まさかとは思いましたが。やはり貴方だったんですね。こんな所でイギリスの姫君にお会いできるとは思いもしませんでした」

 イギリスの姫君 ―― ?
 男の言葉に、セリカを取り囲んでいた人たちが騒めき始める。
 クリスも、男が得意げに言う言葉を耳にした。

「イギリスの女王の姪にあたる貴方がなぜ、この船に? お忍びか何かですか?」
 それは、セリカに話しかけると言うよりも周囲にいる人間へ向けて言っているように聞こえた。まるで自分は彼女と親しい仲でもあるかのように。
 だがセリカにとってそんなことはもはや関係なかった。血の気が引いた真っ青な顔で、呆然と立っている。
「イギリスでは社交界でお会いできず、がっかりしましたよ。なにせ、貴方はイギリス社交界の華とは呼ばれていても、滅多にお出にならないでしょう?」
 その言葉に、周囲の人間もイギリスにいたときの社交界での噂を思い出す。
 社交界の華、というより、イギリスの華と呼ばれていた彼女のことを。
 女王がもっとも可愛がっているという美しきご令嬢。一目見たさに格式ある社交界に出たがる人間たちはたくさんいたが、華やかな社交界を嫌う彼女を見ることは稀だった。仮に見たものがいたとしても、近づくことは許されない。

 だから、わからないと思っていた。
 一流の身分を持った人たちの中に入っても、わからないと思っていた……。
 ハッ、と顔を上げたセリカの視線がクリスの瞳とぶつかる。
「……人違いです!!」
 その瞬間、弾かれたようにセリカは男に一言だけぶつけると人混みをかき分けて走っていった。

「セリカ!?」
 クリスも慌てて彼女の後を追う。

 男はぱちくり、と目を瞬かせその様子を見送っていたが、やがてその話を聞きたがる人たちに楽しそうに話し始めていた。


「……セリ、セリカッ!!」
 船頭へと逃げるセリカに追いついたクリスは、彼女の腕を捕まえた。
「離して! クリス、離してっ」
 セリカは身を捩って逃げようとしたが、不意に強く抱きしめられた。温かいぬくもりに包まれる。

「セリカ、落ち着いて……」
 優しい声に、知らず涙がこぼれていた。
 「ごめ……なさ……い」
 クリスは嗚咽とともにそう言葉にするセリカを、ただ優しく抱き締めていた。


 黙ってるつもりはなかったの……。
 ひんやりとした夜風が吹く甲板で、やがて落ち着きを取り戻したセリカは語りだした。
「私はいつも大事にされて育ってきたの。叔母も可愛がってくれたし、両親も大切にしてくれた。でも、私の心はいつも悲鳴をあげてたわ」
「悲鳴?」
 その表現に驚くクリスに、優しい笑みを返してセリカは続ける。
「上流界でのマナー。令嬢であることの威厳と気品。親しい人とでさえも気軽に話すことができないという息苦しさ。全てが嫌だったの。……それに」
 一瞬、セリカは言葉に詰まった。
 言うべきかどうか迷ったが、クリスの優しい瞳に促される。
「それだけでもうんざりしていたのに、叔母が私に結婚話を持ち込んできたの」

 冗談じゃなかった。

 ただでさえ、女王の血縁ということで縛られているのに、愛してもない人と結婚なんかしたら、私はもう身動きできないほど閉じこめられてしまう。息苦しさに死んでしまう。

「そこに光をくれたのが、歌手になるっていう私の夢だったのよ。でもそれを口にしてしまえば、絶対に反対される。抑えつけられるように、ね。だから私は、学院からの親友であるメニエに相談したの」
 そしたら、メニエは一緒にアメリカへ行こうって言ってくれたわ。

 夢を叶えるために ―――。

「……ねぇ、黙ってたこと。怒ってる?」
 不意に、海へ視線を向けているクリスを横目で見たセリカが訊く。
「まさか」
 肩を竦めておどけるような仕草をしながら、それでも真摯な瞳でセリカを見つめるとクリスは答えた。
「最初から僕たちの間に身分なんて関係ないだろう? 僕が愛したのは君の身分じゃない。僕が一目惚れをして、これほど恋に落ちたのは、歌をこよなく愛すセリカだよ」
 セリカが心から嬉しそうに微笑むと、二人はその愛を確かめるかのように唇を重ね合った。

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