――― ゆっくりと、ゆっくりと空が灰色の雲に覆われていく。
(嫌な空だ……。)
ごろりと仰向けになって、ふと見つけた空に思った。
「怜(れい)先輩っ!」
屋上まで駆け上がって、重たい扉を開けた先に固く冷たいコンクリートの上で、そんなことはまるで関係ないとばかりに寝そべっている先輩の姿を見つけ、声をかけた。
屈んで見下ろすと、相変わらずの美貌にはいつも通りの涼しげな表情が浮かんでいて、柔らかく吹く風に真っ黒髪がさらりと揺れる。同じ人間とは思えない容姿とすらりとした細身の身体。学校内ばかりでなく、街中で男女問わずとても人気のある先輩は、性格も飄々としていて一見は優しい。だけど、容易には近づけない空気を纏っていることを知ってる。見ているだけなら問題はないけれど、触れると鋭い刃のように切れてしまう。最も女の子達はそんなところさえも、憧れだと噂しているけれど。
(確かに、かっこいいって言えば、そんな気はしないでもないよね。)
皆が噂をしているように思えない理由はふたつある。ひとつは先輩の性格を知っているということ。もうひとつは、幼馴染である ――― 。
「うっせーよ。俺は睡眠中。見てわかるだろーが」
思考を遮るように目を瞑ったままの先輩がそう口にした。毎回のように言われる言葉に、笑みが浮かぶ。
「それはすみませんでした。てっきり喧嘩っ早い先輩が出血多量で倒れているんだとばかり思って」
実際、確かに先輩は他人に喧嘩を売ることを趣味としているときがある。だけど、とてつもなく強くて、血を流したことなんてない。知っていて口にした言葉は所詮、嫌味だった。
不意に先輩の目が開く。髪と同じ、漆黒の瞳がムッとした怒りを秘めているのを見つけた。いきなり腕をつかまれ、ぐいっと引っ張られる。
「きゃぁっ!」
バランスを失って、先輩の胸の上に倒れてしまった。
衝撃はなくて、代わりに甘くやけに色気のある匂いに包まれる。どきりっと胸が高鳴って、慌てて離れようと腕を突っ張るけれど、しっかり背中に回された腕に抱き締められてできなかった。耳元で艶やかな声に囁かれる。
「どうせあの世に行くのなら、おまえを抱いて悔いが残らな ――― っ!」
がつん、と重い音が響いて腕が緩む。その隙に急いで先輩から離れた。見れば、先輩の顔に鞄が乗っかっている。
「 ―― 先輩。なに俺の彼女を口説いてるんですか?」
呆れたような声がかかって視線を向ける。先輩と並んでも遜色がない、キレイな顔をした幼馴染が立っていた。形の良い眉やスッと通った鼻筋、薄い唇、ひとつひとつのパーツが整っているから不機嫌に顔を顰めても歪まない。淡い茶色の瞳が鋭い光を消して、柔らかく細まると心配するように見つめてきた。
「世羅(せら)、大丈夫か? 怪我は?」
「……うん。ありがと、聖(せい)」
大丈夫、と笑顔を浮かべると、ぽんっと左右の肩に手を置かれた。じっと見つめてくる目は真剣で、言い聞かせるような真面目な口調で言う。
「俺のいないところでこんな野獣に近づいたら、何をされるかわかったもんじゃない。もっと、気をつけるんだよ」
「 ―― ほうほう。ちなみにおまえの言う野獣ってのは」
「もちろん。先輩のことに決まってるじゃないですか」
危険な表情を浮かべて先輩が聖の後ろに立っていた。それに気づいたのか、聖は振り向いてにっこり笑う。
「イー度胸だっ!」
急に聖の腹部に蹴りが放たれる。それを容易く躱して、聖はくるりと回った。
「冗談、冗談です」
「おまえの場合は冗談に聞こえねぇんだよっ」
はんっと鋭く言葉を飛ばす先輩に、肩を竦めて聖は苦笑した。お互いを牽制しあっている二人のやり取りに思わず笑いが零れる。それに気づいたのか、二人の視線が注がれた。それでも笑っていると、困惑したように重なった声に名前を呼ばれる。
「……世羅」
「世羅ちゃん」
不満そうな表情のふたりに告げる。
「本当に仲がいいんだか、悪いんだか」
その言葉に今度はお互い顔を見合わせて、気まずげに視線を交し合った。先に逸らした先輩がふいっと背中を向けて屋上の柵がある場所まで歩み寄っていく。
俺は心底嫌いだ、と呟く声が聞こえた気がして、その背中を見つめる。それまでのからかうような雰囲気は消え去っているように思えた。
「……先輩?」
呼びかけると、パッと振り向いた。真面目な顔つきでスタスタと聖の傍まで戻り、今度は先輩が聖の肩に手を回して言う。
「実は、俺たち。できてるんだ!」
衝撃的な告白。
どう返せばいいのか戸惑っていると、聖が額を抑えて呻いた。さすがについていけないと、先輩の手を振り払う。
「……世羅、帰ろう」
「う、うん」
聖に手を取られて、握られる。そのまま先輩一人を残して、屋上の出入り口になる扉に引っ張られていった。
ぱたり、と扉が閉まる。
ひとり残った怜は、やれやれと肩を竦める。胸ポケットから煙草とライターを取り出して、火をつけた。煙を吸い込んで、吐き出すと同時に呟く。
「……幸せなら、いいさ」
空へ昇っていく煙を追いかけるように見上げて、不意に気配を感じ振り向いた。
「あー、先輩。また煙草なんて吸ってる」
「なんだ。聖と一緒に帰ったんじゃないのか」
視線の先に少し睨みつけるような世羅がいるのを見つけて、さっきの今で本当に警戒心がないな、と呆れてしまう。
(こういうところは本当に変わらない。)
懐かしく思う反面、僅かに感じる苛立ち。それを苦笑で誤魔化して、煙草を軽く持ち上げた。
「いいだろ、俺の趣味なんだ」
そう告げると、世羅は歩み寄ってきていきなり煙草を奪う。
「……お、おい!」
あっさりと奪われてしまったことに焦る。世羅は無視して、煙草を地面に落すと火の部分を踏んで消し、残ったゴミを手に取った。
「身体に悪いから没収します!」
にっこり笑って告げる世羅には勝てないことは長くはない付き合いからわかっていて、早々に諦める。手持ち無沙汰になった手で髪をかきあげて溜息をついた。
「たまには愛する先輩に素直にどうぞって言って、火くらいつけてくれてもイイと思うけど?」
からかうように言うと、世羅はふと考え込んだ。何を言い出すのか好奇心をかられて見守っていたら再びにっこりと笑った。
「 ――― 愛する先輩ならね!」
言われた言葉に一瞬思考が停止する。
世羅らしい言葉に次の瞬間には胸のうちに苦い想いが広がって、視線を逸らして誤魔化した。空はますます重そうな雲に埋められていく。
「ほら、早く帰りましょう! 昨日珈琲代を貸す代わりに今日は奢ってくれるって言ってたでしょ!」
手を握られて、視線を世羅に戻す。思わず舌打ちしそうになった。覚えていたのか、と。なるほど、それで戻ってきたはずだ。しょうがねぇな、と呟きながら世羅に続いて、屋上を後にした。
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