第一節. 偽りし者たち(2)
 誰かに呼ばれたような気がして、振り向いた。
 街中で通りすがる人たちに見知った顔は見つけられなくて、それでも確かに聞こえたはずの声を探して視線を彷徨わせる。耳を澄ませてみても、聞こえるのは街を支配する騒音。
( ――― 気のせい?)
 そう思った瞬間、コツンと頭を小突かれた。
「どうした?」
 覗き込んでくる聖の瞳に小さく息を呑む。キレイな顔は見慣れているはずなのにいつも見惚れてしまう。
「……世羅?」
 気遣ってくれる声に大丈夫、と微笑んでみせる。
 幼馴染という関係を一歩踏み出して付き合うようになったのは中学の頃から。それまでも世羅には聖しか見えていなかった。だから付き合おう、と正式に聖に言われたときには、聖も同じように想ってくれていたことがわかって、とても幸せな気持ちになった。
 正式に付き合うようになって、周囲の友達からはよく「美男美女のカップルだね」と溜息を零されるようになったけれど、世羅はその言葉に違和感を覚えていた。確かに聖はカッコイイ。美貌が売りのモデルなど足元にも及ばない。到底、自分の容姿が比較になるわけがないと思ってる。だけど、そんなことは関係なかった。惹かれたのは聖の顔じゃなくて、存在そのものだった。いちばん古い記憶、その瞬間から、世羅の心には聖しか存在せず ―― それはまるで、そうなることがあらかじめ決められているかのようだった。

(本当に ――― ?)
 ふと頭の中に声が聞こえる。
 わきあがる疑問。
 それはすぐ、からかうような声にかき消された。

「やだやだ。なーんで俺がこんな熱々カップルと一緒に歩かなくちゃなんないわけ?」

 はっと我に返って、振り向く。やってられないとばかりに先輩が肩を竦めた。立っていた聖の頬を引っ張って呆れたように言う。
「こんな顔に見惚れるなんて、世羅ちゃんもまだまだだね」
「先輩っ、なにするんですか! 離して下さいっ!」
 抵抗しようと暴れる聖をなんなく先輩は押さえつける。身長が4,5センチ先輩が高いだけで体格差はほとんど変わらないはずなのに、身動きできなくなった聖は悔しそうに睨んでいた。
「どぉ? 今からでも乗りかえない? 俺のほうがかっこいいでしょ」
 そう言って、痛がる聖から手を放し、軽くポーズを決める先輩に自然と頬が緩む。笑いながら首を横に振った。
「だーめ! 私は聖一筋だもん!」
 得意げに告げると、聖が嬉しそうに笑みを浮かべた。そんな聖をちらりと見て先輩はひらひらと手を振る。
「へぇへぇ。そうですか」
「そうです……って、あ! 聖、そろそろ時間だからもう行くね!」
 にっこり笑いながら答えて、ふと腕時計に目を落せば針は3時を示している。土曜日、つまり今日は後30分後にピアノの練習が入っていた。慌ててそう言って、手を振る。踵を返して走り出そうとしたら、呼び止められた。
「世羅ちゃん!」
 驚いて振り向くと、先輩がにやりと口端をあげる。何を考えているのか急に大声で言う。
「愛してるぜ、世羅ちゃん!」
 往来の真ん中での告白に頭が真っ白になる。見る見るうちに頬がかぁっと熱を持つのを感じた。きっと顔が真っ赤になっているはず。周囲からの好奇の視線を感じて、先輩を睨みつけた。今にも先輩に殴りかかりそうな雰囲気を纏っている聖に気づいて、ふと思いついた。にっこりと笑顔を浮かべる。
「聖っ!」
 呼ばれた聖は、剣呑な光を消して優しい眼差しを向けてくれた。それを受け止めて、先輩と同じように、だけど心を込めて叫ぶ。
「 ――― 愛してるよっ!」
 同時にキスを投げて送る。先輩にはあっかんべーと舌を出して、今度こそ二人に背中を向けて走り出した。

「……どういうつもりですか?」
 世羅の姿が見えなくなると、隣に立っていた聖が彼女と接しているときにはけして聞かせない低い声で訊いてくる。普通ならその威圧感に恐怖を覚えるが、まったくもってからかいがいのある奴だという思いしか抱かない。わざとらしく肩を竦める。
「なにが?」
「どうして俺の彼女に手を出そうとするんですか?」
「さてね」
 とぼけるように返して、掴みかかってくる聖をひょいっと躱す。行動なんて見え見えだ。怒りを纏う聖の姿にフッと苦笑する。
「そんな怒るなって。いいだろ、どうせ彼女はおまえしか見えていないんだ」
 そう告げると、相手にしても無駄だと悟ったのか背中を向ける。
「当たり前ですよ。でもダメですからね」
 釘を刺すように言って、世羅が走って行った方向とは逆へ踵を返すと、足早に歩いて行ってしまった。

 遠ざかっていく背中に向けていたからかうような視線が温度のない、鋭いものに変化する。雰囲気をがらりと変えて、苦々しく吐き捨てる。
「俺は命令されるのが嫌いなんだぜ」
 特に最も嫌いな男にな、と呟いて、突如感じた嫌な予感に世羅が走っていった方向を見る。
「 ―― ちっ、失敗した!」
 忌々しげに吐き捨てると同時にすでに足は走り出していた。
 後を追いかけてくるかのように、灰色に染まりつくした空から雨が降ってくる気配を感じていた。


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