第一節. 捕らわれし者たち(1)
「……泣き止んだか?」
 腕の中にいるセラの耳元で、囁くようにルシファーは訊いた。
 びくりと、セラの身体が怯えたように震える。わずかに瞳に涙を溜めたまま、彼を見上げた。
「ったく。お前に惚れてる男の前でそんな顔してんじゃねぇよ。襲いたくなるだろ?」
 抱き締めていた腕をはずして、ルシファーはぽんっ、と彼女の頭に手を置いた。

 安心させるかのようなその仕草に、セラはホッ、と息をついて、すぐに泣いていたことが恥ずかしくなったのか、顔を背けて呟いた。
「前なら、言う前に襲ってたくせに……」
「あん? 襲って欲しいですってか?」
 剣呑な光を漆黒の瞳に浮かべて言うルシファーに、慌てて「言ってない!」とセラは真っ赤になって言い返す。

 その様子に、ルシファーは一瞬だけ安堵の表情を浮かべると、気づかれないうちに彼女から背を向けた。

「さて、と。そろそろ戻るか」

 不意に言われて、セラは首を傾ける。

「え? どこに?」
「 ―――― とりあえず、ウリエルの城」

告げられた言葉に、セラが緊張する気配が背を向けていても伝わってきた。
それでも彼は付け足すように言う。

「今はあそこが一番安全だろーしな。お前もそろそろウリエルとの誤解を解いときたいんじゃねぇの?」

「知ってたの!?」

 驚いた顔をするセラに、彼は肩を竦めて呆れたように口を開いた。

「おいおい、知らないわけねーだろ?」

 その言葉になにかを思い出したようにハッ、とした表情になると、セラは苦しげに眉根を寄せ、顔を俯かせた。

「可哀相にあいつはずーっと、お前に嫌われてるもんだって思い込んでるぜ?」

 意地の悪い光を瞳に浮かべながら言うルシファーが、どこか楽しそうな表情をしていることに気づいて、セラはムッ、とした顔になる。

「私は嫌ってなんか! 嫌ってるとしたら、ウリエルが私を、よ!」

 だから、それが誤解なんだろーが。
 深いため息をついて、ルシファーは肩を竦める。

「まあ、それはウリエルに言ってくれ。ともかく行くぞ?」
「…………」

 有無を言わせないルシファーの視線に、それでもまだセラは拗ねるような瞳を向ける。

 (だからそんな顔するなって言ってるんだ!)
 心の中で毒づきながら、ルシファーは切り札を口にする。
「……あいつの城には、聖も来てる」
 ぼそりと呟かれた言葉に、セラは驚いた表情になる。

「聖がっ?!」

「そっ。ついてくって聞かねえんだぜ? 今はウリエルに預かっててもらってるが、お前が行かねえなら ―― 」

 地球に追い返すか。
 そう続けようとした彼の言葉は、すぐにセラに遮られた。

「行くッ!」

 ルシファーは苦笑いを浮かべる。
「最初から素直にそう言え」
 呆れたような言葉とともに、彼は黒い翼を背中に広げた。




◆――◆


 テーブルで甘い香りが漂う紅茶を飲んでいたウリエルはふと、手を止めた。

「……どうかしたんですか?」
 ルシファーに置いて行かれた聖は、不機嫌そうな表情を露わにしたまま訊ねる。けれど、ウリエルは彼に応えると言うよりは、独り言のように呟く。
「ガブリエルの領域が消滅しました……」
「ウリエル様っ!!!!」

 呟いた瞬間、空間を裂いて突然、ラジエルが姿を現す。その表情は驚きに染まっていた。
 ウリエルはハッ、と我に返って手にしたままだったカップを皿の上に戻し、サングラスを軽く押し上げる。

「おや、お帰りなさい。書状は……」
 ラジエルは聖にちらっ、と視線を投げたがすぐにウリエルに向き直ると、苦しそうに応えた。
「渡してきました。でも……」
 ふと見れば、ラジエルの手には白い紙片が握られている。
 ウリエルは深く息をついた。
「そうですか……。いえ…、それならそれで仕方のないことです」
 めずらしく苦しそうな表情をする彼に、ラジエルは言葉を紡ぐことはできなかった。

「それよりっ、領域が消滅したって、世羅は一体……っ?!」

 ふたりの間に聖が、割り込む。
 視線が彼に注がれたとき、バタン、と扉が大きな音を立てて開いた。

「聖っ!!!」

 そう名前を呼びながら駆け寄ってくる少女の姿に、聖は息を飲んだ。

「……世、世羅??」
 驚き戸惑う彼に構わず、世羅は抱きつく。

「聖……、会いたかった!」

 ぎゅっ、と抱き締めてくる彼女は確かに、聖が探していた世羅だった。

 どこにいたんだ、とか。どうして黙っていなくなったんだ。とか、言いたかった言葉はたくさんあったけれど。

 そんなことより、聖は彼女を強く腕の中に抱きしめると、ほっとした表情で言う。

「俺も……。会いたかったよ」

 優しく、聖は耳元で囁いた。
 不意に世羅は顔を上げて、不安そうな表情を浮かべて訊く。

「…………怒ってる?」
 黙って、離れてしまったことを。なにも言わなかったことを……。

 聖はフッ、と優しい笑みを浮かべる。

「そうでもない。世羅だけのせいじゃないだろう」
 安心させるような口調で応えて、聖は軽く彼女の髪を撫でる。
 それでも世羅はもう一度、彼の胸に頬を寄せて謝った。

「ごめんね……」
「いいよ、もう。こうして会えたんだ」

 そう言って聖は更に、抱き寄せる。けれど、それぞれ背後から引き離された。

「いつまで抱き合ってるつもりですか?」
「ハイ、そこまで。俺たちの前でいちゃつくなってーの!」

 肩を掴まれて、聖から離された世羅は後ろにいるルシファーに抗議する。

「な! なにするの! 離してよ、ルシファー!」
 ルシファーの手を振り払った世羅はふと、聖の後ろにいる天使の姿に目を止めて顔を強張らせた。

「……ウリエル」

 名前を呼ばれた彼は聖から手を離してスッ、と世羅の前に歩み寄る。

「久しぶりですね、セラ様」

 そっと彼女の手を取り、その甲に口付けを落とそうとして、パッ、と振り払われた。

「!」

 自分の反射的な行動に、世羅は戸惑う。無意識に後ろにいたルシファーの服の裾を掴んでいた。

 それに気づいて、訝るように聖が彼女の名を呼ぶ。

「世羅?」
「あっ……」

 慌てて世羅は手を離した。
 そんな彼女に一瞬、傷ついた顔をしたウリエルだったがすぐに微笑みを浮かべる。

「申し訳ありません、私の気遣いが足りなかったようですね。聖君と積もる話しもあるでしょう。向こうの部屋にいますので、なにかありましたら声をかけて下さい」
 ウリエルはそう言うと、一礼して足早に部屋を出て行った。

「ルシファー……」

 パタン、と閉まる扉を見つめながら、世羅は困ったような表情で名前を呼んだ。

「あー……しゃねぇ。お前は聖と今後の話しでもしとけよ。いろいろあるだろ?」
 前髪をかきあげて、ルシファーは手をあげ言うと、ついでとばかりに傍にいたラジエルを引っ張って、部屋を後にした。

 残された聖は今にも泣き出しそうな顔の世羅に手招きをする。

「世羅……。ぜんぶ話してほしい。隠し事はもう、ナシだ」

 まっすぐ見つめてくる瞳に誤魔化せないと感じた世羅は、ゆっくりと頷いた。




「待てよ、ウリエル!」
 後ろから追い掛けてくる声に、足を止めることなくウリエルは口を開いた。
「笑いに来たんですか?」
 自嘲が込められている口調の問いに、ルシファーは一瞬の間の後、頷いた。

「……ああ、まぁな」
「普通は慰めにくるもんでしょう?」

 歩みを止めて彼を振り向いたウリエルは呆れたように言った。
 ルシファーは肩を竦める。

「そう言えるヤツに必要ねぇだろ。だいたい、あいつがあんな態度をとるのは、わかってたはずだ」

 ウリエルは視線を落として、苦しそうに眉根を寄せた。

「―― ええ、わかってましたよ」
 そう。わかっていた。一度犯してしまった過ちが、そう簡単に許してもらえるはずがない。それでも……。

「それでも、この長い年月でセラ様も忘れて下さっていると思いたかったんです」
「ウリエル……」

 彼の表情に、ルシファーは昔の自分を見つける。

 一度犯した過ち ――― 許されるためなら、どんなことでもした。
 無理だと悟ったとき、絶望した。
 苦しくて、苦しくて……、全てを忘れたかった。

 救ってくれたのは一人の少女 ――― 。彼女のためなら、命を捧げても構わない。
 似合わないと思いつつも、そう感じた自分がいた。

 今、あの頃と同じような苦しみの中に、ウリエルがいる。
 ルシファーは数秒の躊躇いのあと、一度ため息をついた。

「……知ってるか? あの時、セラはお前に会いに来ようとしてたんだ。お前は、お前だと。なにもかわらない、そう伝えにな」

「!?」

 不意をついた彼の言葉に、ウリエルは驚きに目を瞠った。
 その様子を見ながら、ルシファーは続ける。

「だが、アレクシエルがそれを許さなかった。あんな姿を見られたウリエルは、もうセラには会いたくないだろう、と。ウリエルがああなったのはセラのせいだと責めている、と。だから会いに行く必要はない、そう言われたらしいぜ」

 その言葉をウリエルは愕然とした気持ちで受け止めた。

「……ばかなことを! 私には、セラ様があの姿を見られて、怯え…怖がられている。もう二度と会いたくない、と言っていたと。アレクシエルが言ったんですよ?!」

 珍しく声を荒げる彼に、けれど冷たい口調で問う。

「お前はあいつが本当に、そんなことを言うと思ってたのか?」
「それは……」

 ウリエルは手の平を握り締めた。

「セラは自分のせいだと責めてた。お前に対して罪の意識があったんだ。だから、アレクシエルの言葉をそのまま受け入れたのさ」

「アレクシエルが……」

 信じられなかった。
 いや……、今の彼を見れば信じられただろう。だが、あのときはまだ ――― 。

「あいつは全ての天使からセラを引き離そうとしてたんだ」
 忌々しそうにルシファーは言った。

「彼はそこまで……」

 狂ってしまっていたのですね……。
 そう口にしようとして、ウリエルは止めた。かわりに、ふと思いついたことを訊く。

「あなたは知っていて、どうして今まで黙っていたんですか?」

「よく言うぜ。あのときはまだ、アレクシエルの方が信頼されてたからな。俺がなにを言っても信じなかっただろ?」

 どこか拗ねたような響きが含まれている言葉に、ウリエルは知らず笑みを零した。

「そうですね……。あのときはまだ、あなたは魔王様でしたからね」

 楽しそうに揶揄する彼にルシファーは苦笑いを浮かべる。

「言っとくが、これは貸しだ。あとの誤解は自分でとけよ」
「ええ、とりあえずは感謝しておきます」

 クスリ、と嫌味のない笑みを零して、ウリエルは続けた。

「私は一度、自分の部屋に戻ります。また後ほどセラ様のところで、会いましょう」
 そう言って、彼はルシファーに背を向けると歩き出した。
「ああ、わかった。じゃあな」
 ルシファーも踵を返す。


 やっぱり、余計だったぜ ―――。
 思わずため息が漏れそうになるのをまあ、いいか。と誤魔化し、ルシファーはふと、死角になっていた壁際に視線を向ける。
 そこには悔しそうな光を紫の瞳に浮かべたラジエルの姿があった。
 (あーあ、厄介な奴を忘れてた……。)
 苦笑いを浮かべながら、ルシファーはからかい口調で話しかける。

「何だよ、ラジエル」

 呼ばれた少年は、眉を顰めて顔を背けた。その姿にフッ、と笑みを零す。

「俺様に惚れたか?」
「ちがうっ!」

 間髪入れずに否定される。

 (わかりやすい奴だな……。)
 口元が緩むのをこらえながら、ルシファーは彼の顎に手をかけ軽く持ち上げた。

「言いたいことがあるなら、言え」

 絡みつくようにまっすぐ見つめてくる漆黒の瞳に、ラジエルは知らず捕らわれそうになって息を呑む。

「……っ、僕には……っ!」
 何かを吐き出すように口を開く。

「お前がウリエル様とセラ様の誤解を解いたからって関係ないんだっ!!」
 静寂を守る廊下に彼の悲鳴にも似た叫びが響く。

 ルシファーは彼から手を離して肩を竦めた。

「そーだな、お前にはどうでもいいことだ」
「っ!?」

 突き放すような言葉にラジエルは目を見開く。
 それを可笑しそうに眺めて、ルシファーは瞳を伏せた。

「自分たちのしたいようにする。それが俺たち天使が神に与えられた"自由意志"、とでもいいたいんだろ?」

「お前は天使じゃないだろう! 図々しいぞ??!」

 即座に返された言葉に、ルシファーは何か言いたそうな含みをこめた瞳でラジエルを見たが、それをため息にかえた。

「へぇ、へぇ……。邪魔者は消えるぜ。だが、ラジエル。いつまでもわからないフリが通用するとは思うなよ」

 一瞬だけ剣呑な光を浮かべて、彼を一瞥するとルシファーは背を向けて用は済んだ、とばかりに歩いていった。

 遠ざかる足音を聞きながら、ラジエルは拳を握り締める。

「……わかるもんか。お前になんか! わかるもんかっ! 絶対にわかるわけがないんだっ……!」
 込み上げてくるものを無理矢理に抑えつけるように、ラジエルは繰り返し呟いていた。


 これはなんだ?

 面倒くさそうに白い封筒を受け取ったアレクシエルは、中を見ようともせず、目の前で怯えたような光を宿している少年に訊いた。

「……ウリエル様から首座様に渡すよう頼まれた書状です」

 ―― ふむ。
 アレクシエルは手にしていた書状を弄びながら、憐れみをこめた視線を彼に向けた。

「ラジエル ―――― 君は自分の役目を忘れたのかい?」

 びくり…、  どこか冷たい響きが含まれている言葉に、ラジエルの身体が強張る。
 それを嘲るように、アレクシエルはさらに重ねて聞く。

「忘れたのかい?」
「わ、わかってます! でも僕はウリエル様を!」

 そう言って、顔を上げたラジエルは視線の先に予想していたよりも冷たい光が浮かぶ瞳を見つけ、言葉に詰まった。

「裏切れない、とでも? 私を裏切っておいて、そんなことを言うんだね?」

 ラジエルの額に冷や汗が伝う。
 それを見たアレクシエルはふと、手にしていた書状を両手で引き裂いた。

「首座様!!」

 びりびり、と切り刻むような音が絶望となって、ラジエルの耳に響く。

「がっかりしたよ。潜入していた私の部下がいつのまにか、ウリエルの手に落ちたのだからね」

 アレクシエルはため息混じりに言う。
 細かく破った書状をラジエルの頭の上に散らす。

「もう二度と顔を見せるな! ウリエルにも余計なお節介は無用だと告げておけ!」

 叩きつけるように言うと、アレクシエルは部屋から出て行った。


 (そんなつもりじゃなかった……。)

 紫の瞳に苦しそうな光が浮かぶ。

 ただ……、首座よりも、ウリエル様が僕を理解してくれただけ。道具として扱うより、僕を僕として見てくれただけ。

 気づいてなかったと思うんですか……?

 貴方が、僕を捨て駒としか見ていなかったということを。
 昔は確かにそれでもいいと思っていた。

 だけど ―― いつからだろう。愛されたいと望み始めたのは……。
 今、思えば……。セラ様に出会った頃からかもしれない。


 ラジエルは手の平に残った小さな白い紙片を強く握り締めた。

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