■ Black angel 04 ■
レセンテ海岸 ――― 。
透き通った美しい青い海と白い砂浜が煌く海岸が一望できる別荘を訪れて、一週間が過ぎようとしていた。
「リラン、ほんとありがとね」
さらさらの砂を踏みしめて、浜辺を歩きながらユウは隣を歩くリランに言う。
「なに言ってるの。お礼を言いたいのはこっちよ。モデルなんて貴重な体験をさせてもらったし。それにユウの大好きなトオル叔父さんにも会わせてもらったしね」
嬉しそうに笑顔を浮かべるリランの言葉を聞きながら、ユウはふと足を止めた。海を眺める。
「ユウはまだ残って、今度はおじさんの個展の分のモデルをするんでしょう?」
「うん……」
どこか心あらずといった返事をするユウに気づいて、リランは首を傾げる。
「どうしたの?」
元気のない横顔がリランの胸を痛めた。
「楽しかったね。この一週間……」
「……そうだね」
リランも視線を海の方へ向けて、頷いた。
この一週間はまるで夢のようだった。心を許せる人たちと。ふざけあったり、ときに真面目に語り合ったり。夜中に散歩して、花火もした。リランと抜け出して真夜中に裸で泳ぎに行ったりもした。眠れないときは叔父さんに旅をした世界のことを話してもらった。
駆け引きや緊張しなくてもいい時間は ―――― けれど、もう終わりを告げようとしている。
「ねっ、私とユウがモデルをしたほうの絵は完成したらもらえるんだよね」
湿っぽくなりそうな雰囲気を振り払うように、リランが明るい口調で言った。
「うん。叔父さんがリランの屋敷に送るって言ってたよ」
ユウも笑顔を浮かべて答える。
「でも、私としてはユウだけの絵の方も観たかったな」
恨めしそうにリランが言うのに対して、ユウは首を横に振る。
「アレは向こうで完成させて、個展に出したらそのまま誰にも売らずに保管しておくって」
「じゃあ、個展に行こうかな。それか写真を送ってもらうとか ―― ……」
「リラン ――― 」
楽しそうに言うリランの言葉にユウの顔が厳しくなり、咎めるような響きを含む声が遮る。滅多に見ることがないユウの表情に、リランは戸惑った。
「言ったよね。こっちの人間。特にリランには見せたくないって。だから ――― 」
お願い、とユウの声にならない言葉がリランには聞こえたような気がした。
トオルが描きたいと思うユウのイメージをリランには知られたくない。きっとそれを観られたら、どんな賛辞を贈られても、深く傷ついてしまうことがユウにはわかっていた。ユウを知らない。ユウも知らない異国の地の人が観るから我慢ができる。どんな思いを抱かれたとしても、知らないでいられるから ―――― 。
「わかってる。ごめんね、ちょっと意地悪が過ぎたかな?」
長い髪をかきあげて、リランは誤魔化すように苦笑した。ユウの顔に笑顔が戻る。それを見ると、リランは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ここで。もう戻っていいよ。またね」
「また電話する。別荘にいる間は自由だから」
ユウはそう言うと、名残惜しそうにリランを見つめたが、すぐに別荘へと走っていった。
リランもその背中を見送っていたが、クルリと背を向けてユウとは反対のほうへ歩き出した。
「リランは帰ったのか?」
トオルのアトリエと化した一室に入ってきたユウに、筆を動かしながらトオルが訊く。ユウは入り口のドアに寄り掛かったまま頷いた。
「あの娘はいい子だね。純粋で優しくて、思いやりがある。それに可愛い」
惜しみない褒め言葉を口にするトオルにユウもひとつひとつ頷き返す。
「大事な私の親友なの。……だから、残したかった」
ユウの言葉の意味をつかめずに、トオルは筆を置いて彼女の方を振り返った。
「なにを?」
「一度も嘘をついたことがないっていうリランの親友としての誇り、かな」
自嘲気味に笑うユウの表情は哀しげだった。
「誇りか……。二人の肖像画はいいものになるよ、きっとね」
ユウの思いはわからなかったが、トオルはそれでも請け負った。
ユウの出したもうひとつの条件。それはユウとリランの二人一緒の肖像画を描いて、それをリランにあげること。
トオルが承諾すると、ユウは早速リランを呼んだ。構図は二人で決めて、簡単にリランが椅子に座り、ユウがその後ろに立っているというものだった。
「ありのまま描いてくれればいいから」
仕上げは日本に帰って ―― 。
それもユウの出した条件に含まれていた。もとからトオルもそのつもりだった。
「さてと。じゃあ、個展に出すほうの絵に取り掛かるかな。準備はいいかい?」
「いつでも」
ユウは挑戦的な笑みを浮かべてそう答えた。
2週間後。
ユウは潮風を感じながら、ベランダで海を眺めていた。寄せては返る波の音が、引き止めるかのように聞こえるのは、動揺しているせいか。
どんなに願っても止まることがない時間に、ユウは小さくため息をついた。
「ユウ、そろそろ帰ろう。送って行くよ」
帰る支度を整えたトオルが、後ろから声をかけてくる。
諦めるように瞼を伏せて。覚悟を決めるために、頷いて目を開ける。海に背を向けた。
荷物を持って、玄関に向かいながらトオルは隣を歩くユウに訊いた。
「本当に見なくてもいいのか? まだ完成品ではないが、観てもいいんだよ?」
小さく首を横に振って、ユウは答える。
「いつか、機会があったらね」
そう答えながらユウは思う。
もしも今、モデルをした絵を見てしまったら、きっと決心が鈍る。それは許されない。
無意識に手の平を握る。だから、観るわけにはいかない。
その決心をトオルも感じたのか、それ以上は何も言わなかった。
「ここでいいのか?」
統帥の屋敷の門前で降ろしてもらう。誰の屋敷か知らないトオルは訝るように確認する。
「うん、有難う。叔父さんはこれから日本に帰ってすぐ絵に取り掛かるんでしょ?」
「ああ、もちろん」
それを聞いて、ユウは「じゃあ、またね」そう言おうとした言葉を止める。ふと、思いついた。
「おじさんひとつだけ教えてくれる?」
笑顔でその先を促すトオルに、まっすぐと視線を向けて、ユウは訊いた。
「あの絵のタイトル、なんてつけるの?」
一瞬、驚いたようにトオルは目を見開く。けれど、すぐに「もう決まってるよ」と言って、ユウの絵を描くことを決めたときから心にあったタイトルを口にした。
「“Black Angel”」
ユウはその言葉を胸に刻むかのように目を閉じた。
「そっか、ありがと」
そう言って、ユウはトオルに微笑みを向けると、屋敷の方へ足を向けた。腕にはめている時計を確認する。
今はPM,7:00。戻ってきているだろうか ――― 。
悪あがきだとわかっていても、できればまだ帰ってきていないことを祈りながら、インターフォンを押した。
ドアが開いた瞬間から、ユウにとっての悪夢が始まる。