■ 君は懺悔し、静かに誓う(前編) ■
雨が降り始めた。
見上げた空は、真っ暗で光が差さない。
(今日は戻りたくない……)
たとえ、後でどんな罰を受けようとも。どんなに傷つけられようとも。今日だけは、戻りたくなかった。
―――― リラン。
気配を消すなんて、当たり前のようにできて、だけど親友の前で冗談でもそんなことをしたことはなかった。彼女の隣にいるときはいつだって、ただの幼馴染でいたかったから。
普通の ――― 。
傘も差さずに立ち竦んだまま、髪を濡らしていく雨の温度が心地よかった。
ふっ、と口元が自嘲を刻む。
どうしても。
どうしても、声をかけることができなかった。
ベランダに続く窓を閉める彼女の姿を、ただ眺めているしかできなかった。
雫が、頬を伝っていくけれど、振り払うこともしないで、踵を返す。それでも、先を進む足取りは重くて
――― だけど戻れない。
びしょ濡れのユウが玄関先に立っているのを見つけたアリストアは目を見張った。慌ててその腕を引いて、館の中へ招き入れる。
「ちょっ、ユウ?! どうしたのっ?!」
「雨が降ってきた」
短く答えるユウの様子にアリストアは眉を顰める。
明らかに、おかしい。けれど、今はそれを追及するよりも先にすることがある。アリストアはユウの腕を取ったまま、歩き出した。
「痛いよ、アリストア」
不満そうに言うユウに、苛立ったような声をあげる。
「風邪引くでしょ、まずシャワーでも浴びなさいっ」
そう言って、ユウ専用に作られている部屋に連れて行くと、そのまま中に入って、お風呂場へ押し込めた。暫らくして、水の流れる音が聞こえてきてほっと胸を撫で下ろす。
だが、アリストアはなぜか違和感を感じた。
「ユウ?」
ドア越しに声をかける。だけど、返事はない。
「入るわよ?」
遠慮がちに声をかけながらも、ドアを開けて息を呑んだ。
湯気がのぼっていない。お風呂場に温度を感じなかった。慌てて、中へ駆け込む。
ユウはシャワーを浴びながら前かがみに両手を突いて、壁に寄りかかっていた。
「ユウッ! なにバカしてるのっ!」
急いでコックを閉める。
ユウ、と肩に手を触れてぞっとした。
ひんやりとした冷たさ。まるで、その体温のない身体は ――― 。恐怖に息を呑む。
「……アリストア?」
―――― この娘は誰だろう?
アリストアの胸に苦いものがこみあげてくる。
いくらなんでも、とアリストアは悲鳴を上げたくなった。ここまで傷つけるなんて、と。その原因を詰りたくなった。
アリストアは、そっと冷たくなったその身体を抱き締める。
「アリストア?」
恐らく、自分では彼女の傷ひとつ癒せない。彼女を癒せる存在は、ただひとり。
どんなに願っても、ユウの深い闇を知っている人間には無理だ。同情も、愛情も。思慕さえも、全てがユウを傷つける。
「ユウ、私には何もできないわ……」
ため息交じりの言葉がでてくる。それでも、ぎゅっと抱き締めた。
「でも、貴女がここに来てくれたなら、私は私の全てをかけて貴女を守りたいの」
たとえ、それが負担になるだけだとしても。
彼女が、私とアイレスを救ってくれた光であるように、ユウにとって、そうなれなくても。
「ごめん……」
腕の中から、そんな小さな呟きが聞こえて、ハッと我に返る。身動ぎするユウを離す。ほんの少し、表情を動かして微笑んで謝るユウがいた。
「大丈夫、ちゃんとシャワー浴びてくるから外に出て。二十分ででてくるよ」
その言葉に、安堵するよりも余計に悲しみが広がる。
それでもその想いを抑えこんで、「約束よ」と笑顔で言って、お風呂場を後にした。
「温かいスープは用意しといた。丁度あいつがシャワーから出る頃には
旨くできてる頃だ」
テーブルの上に診療器具を並べながら、アイレスがソファに座っているのを見つけて、呆れた表情を浮かべる。
「相変わらず、ユウのことになると素早いわね」
向かい側に座ると、自然にため息が零れた。器具を確かめていたアイレスが眉を顰めて、顔をあげた。
「リランのトコに行かないとは、よっぽどだな」
「よっぽどっていうより ――― 、最悪ね」
肩を竦める。ますますアイレスの眉間に皺がよる。
自分の弟でありながら、そんな表情さえも様になっていた。
「守られてるけど、守れないなんて歯がゆすぎるわ……」
苛立ちが募る。ユウと知り合ってから、いつも「どうして」と思わずにはいられなかった。
彼女の存在が、どれだけアリストアとアイレスにとって救いになってきたか、言葉では表せない。そんな簡単なものではない。ユウがいなければ、確実に二人とも今こうして生きてはいなかった。だから、何を引き換えにしてもユウを守りたい。そんな想いを嘲笑うように、自分たちではユウを救えないという現実を突きつけられる。
なにより ―― 、ユウ自身が守られることを嫌がる。必要以上に、寄せ付けようとはしない。
いつだったか、そのことに苛立ちを爆発させたアイレスがユウを抑え付けて、無理矢理に問いただしたことがあった。それを止めなかったのは、アリストアも聞きたかったことだから。だが、答えを聞いてすぐに後悔した。
何の感情も浮かんでいない、その瞳で。感情の色の無い言葉は、二人の心を確実に突き刺した。
『 ――― 押し付けなんて、私はイラナイ』
今もまだ、鮮明に残っている。
あのときの、胸の痛み。
十歳にも満たない子どもが口にする言葉とは思えなかった。
生意気に強がりで言うわけでもなく、ただ事実を述べる機械のように。
アリストアは無意識にぎゅっと手の平を握っていた。
それ以来、何をしてもユウが嫌がる「押し付け」になりそうで、彼女が望むことしか、手を差し伸べることが出来なくなっていた。でも、今は思う。
恐らくユウは、自分の闇を知るヒトが必要以上に近づくことが怖いのだと。だから、彼女が自ら素直に救いを求める存在が羨ましかった。
ユウの一番近いところに、無意識に入り込んでいる彼女の、親友という立場でいるリランが。リランだけが、無条件にユウに守られ、またユウを守っている。
自分たちが手を伸ばして伸ばして、 ――― けれど、拒否されたその関係を、ただの幼馴染というだけで手に入れているリランが羨ましくて。
――― 憎かった。
仕方ないとわかっていても。
「アリストア?」
ふと、背後から声をかけられて、アリストアは我に返った。
振り向くと、濡れた髪をタオルで拭きながら不思議そうな顔をしているユウが立っていた。
「アイレスが温かいスープを取りにいったわ。座りなさいな」
微笑んで、向かい側のソファを勧める。
「ありがと」と小さく言うユウの言葉を聞きながら、アリストアはため息を零した。
「アリストアッ?!」
珍しくユウの焦った声にアリストアは顔を向ける。
ユウの瞳に映っている自分が、涙を零していることに気づいて、驚いた。
手で触れて、ようやく頬の冷たい感触に気づく。
「ど、どうしたの?! なにかあった? 事件なら、今すぐ……」
動揺するユウが、なぜかおかしくて笑いが零れる。
「アリストア……?」
訝るユウに「ごめんなさい」と謝罪を口に乗せながら、ほっと息をついた。
「……安心しただけ」
「え?」
戸惑うユウの様子に、頬が緩む。
「さっき、ユウの冷たい身体を抱き締めたとき。本当に生きた心地がしなくて……。恐かったのよ。このまま ――― 、このままユウが」
「ごめん……」
遮るように、ユウが口を開いた。
紡がれた言葉に、アリストアは息を呑む。まっすぐ見つめてくるユウの瞳は、どこか遠くを見ているようで、胸が痛んだ。
「ごめんね、アリストアを傷つけるつもりは……」
「ユウ……」
「ほら、スープだ」
アリストアの声に別の声が割り込んだ。
とん、とテーブルの上に置かれた湯気の立つスープにユウは我に返ったように目を瞬かせる。ふわり、と鼻腔をくすぐる薫りがユウの食欲を動かす。
「食べていいの…?」
問いかけたユウに、苦笑してアイレスはその頭を軽く小突いた。
「俺がおまえのために作ったんだぜ。お前が食べなくて誰が食べるんだよ」
アリストアも促すように、笑顔を浮かべている。
ユウは側に置いてあったスプーンを手にとってスープをすくう。一口含んで、じんわりと温かいものに心が包まれる。ほっと息をついて、ユウは微かに笑顔を浮かべた。
「美味しいね」
「そっか。それ食べたら、もう寝ろよ。俺たちは行くから」
全部ちゃんと食べろ、と。
アイレスは言い残すとアリストアの手を引っ張って部屋を後にした。
アリストアは自室のソファに座って、不満そうな表情を浮かべていた。
「怒るなよ。あれ以上、ユウを追い詰めたら出て行ってたぜ。あいつさ」
ほい、と。ブランデー入りの紅茶を渡されて、アリストアは「わかってるわ」、と頷いた。
アイレスは小さく肩を竦める。
「わかってるのよ…。どうしてあの子を上手く愛してあげられないのかしら」
アリストアの頬に一滴の涙が伝わる。
ポツン、と落ちたその想いは紅茶の水面を寂しく揺らした。