■ 君は寂しくマリアにキスをする(前編) ■
自分が不幸だって思ったことはなかった。幸せだと感じたこともなかったけれど。
1人でいることは、当たり前だと思っていた。それは罰かもしれないと、心のどこかで諦めていたから。だから、自分から求めることもしなかった。
いつも、このマリア像を見ていると、感傷的になる自分を止めることができなかった。懺悔を聞かせたいわけでもあるまいし。
やっぱり失敗だったかもしれない。母校に用事があるから、と言った親友と一緒にこの場所を訪れたのは。せめて、今が授業中で、寮の中は静かだということが救いではあった。
寮の玄関口に置かれてあるマリア像は、学園内の教会に置かれているそれよりも、等身大ではあった。だからこそ、少し見上げただけで間近に顔が見えるマリア像が、ユウにはとてもリアルに見えた。まるで、生きているかのように。
――― まるで。
血の気が全く見られない真っ青な顔。乱れていく呼吸。苦しそうに断続的な呻き声を上げながら、それでも彼女は手を伸ばしてきた。
この手を取って、とそう、言っているようで、ユウは恐怖に押し殺されそうになる心を叱咤しながら、震える手で更に痙攣で震えている手に触れた。触れた瞬間、ぬくもりのすっかり消えてしまった温度の手が、最後の力を振り絞ったかのように、手をつかんだ。
っ、と一瞬、零れそうになる悲鳴を押し込める。
「……あのひとを、許してね」
許してあげてね、と繰り返し告げて、彼女は手を放して、そのまま力尽きてしまった。
ユウは、寂しいとか悲しいとかいう感情よりも先に、困惑した。唯一の、母親の遺言となれば、叶えてやりたい。けれど、この場合の、「あのひと」というのが誰かはわからなかった。ああ、でも大切な身内を亡くして、本来なら悲しみ、涙を流さなければならないはずなのに、どうしてもそんな当たり前のことができるほど、今の自分の精神状態は「普通」とは違っていた。
――― さようなら。
彼女との面接の終わりには、いつも頬にキスをしていたから、今回も同じようにキスを繰り返す。柔らかく、温かいというには無理があるけれど。目に映る見慣れたはずの顔は、他人のようで、なぜか置き去りにされた気分を味わった。迷子になった覚えはないのに。
それからすぐに、ユウは入寮することに決めた。決めたというよりは、決められていたというべきか。もっともらしい顔で、父親という敬称を持つ男は葬式だけを簡易的に執り行い、言葉ひとつの声かけもなく、ユウがそれを聞いたのは、クレイス財閥の担当弁護士からだった。もとから荷物もなかったため、手軽にリュックを掴むと、ユウは早々に屋敷を出た。
寮の中を案内されながら、ユウは興味なく話を聞き流していた。少なくとも、規律さえ守れば自らの行動を制限する視線も重圧も此処には存在しないというだけで、屋敷にいるよりも自分にとっては快適だと思う。特に目立たなければいい。ある程度の成績さえ取っておけば、外聞も守れるはずと、どう過ごすかを計算しながらさっきから寮母が述べている規律の穴を考えていた。後は、同室の子が煩わしくなければ、それでいいけど。
「今日から貴女が過ごす部屋がここです」
ひとつのドアの前で立ち止まって、寮母が数回ノックする。規律では、3回と書かれてあったことを思い出した。
「どうぞ、お入り下さい」
部屋の中からそう声が聞こえて、寮母はその言葉に満足したように笑みを浮かべながらドアを開けた。そこで待ち構えるように立っている少女に声をかける。
「ユウさん、彼女がルームメイトになります」
挨拶のタイミングを促されて、礼をする。
「初めまして、ユウ=クレイスです」
「よろしくね、私はリラン。リラン=レーテよ」
にっこりと微笑んで握手を求めてくる。
(ああ……)
思わずため息が零れそうになった。建前のために堪えて、その手を握り返す。「よろしく、」短く答えてすぐに離した。
せめて干渉してこない人間だったら、と願っていたけれど。早々に挨拶をしてきた彼女を見ればその期待が裏切られたのはすぐにわかった。
教科書を読むのは面倒だったけど、本を読むことは好きだった。ひとりの世界に入ることが出来るし、そこから得られる知識は糧になる。最もだからといって、授業をサボる言い訳でもないけど。
「やっぱりここにいた」
声が聞こえて見下ろすと、呆れたように見上げてくるリランの目とぶつかった。視線を本に戻して、頁を捲る。
「先生が探してたわ。授業サボり、47回目よ」
「レーテ嬢に関係あるの?」
「ルームメイトだもの」
不満そうに発せられた口調に心の中では嘲る気持ちが大きくなる。本を閉じて、木の枝から勢いをつけて飛び降りる。
「 ―― きゃっ!」
悲鳴をあげるリランの側にバランスを取って、きちんと着地した。こつん、とまだ目を閉じているリランの頭を本で軽く叩いて、戸惑っている間に本をその手に渡した。
「ちょっ、危ないでしょ!」
「怪我はさせてない」
驚愕が引いたリランは頬を膨らませ、腰に手をあてて抗議してきた。それに肩を竦めて応じて、歩き出す。けれど、ちょっと待って、と腕を引かれた。
「私のことじゃないっ! あなたが怪我したらどうするのって言ってるの!」
――― は?
言われた言葉を理解できずに、リランの怒っている顔を見つめ返す。
「な、なによ?」
戸惑うように言って眉を顰めるリランに首を振って、再び背中を向けると歩き出した。後ろで、本っ、とか、ちょっと、とか呼び止める声が聞こえたけれど、その本が今日サボった授業の教科書で、翻訳はすべて終わっていたし暗記もしたから必要なかったので、振り返らなかった。
――― あなたが怪我したらどうするのって言ってるの!
昼間、リランに言われた言葉を思い出していた。
「……あれはどういう意味だったのかな」
ひとり呟くと、テーブルの上で盤を睨んでいたアイレスが眉を顰めた。綺麗な顔はどんな表情をしていても変わらない。訝る表情さえ綺麗だとは、口にしたらその手に持っている白のチェス駒が問答無用で投げつけられそうでできないけれど、アイレスとそっくりな、女性であるだけ、より繊細な顔つきをしているアリストアが遮って問いかけてきた。
「どうしたの?」
「今日は気分が乗らないから、帰るね」
盤上をそのままに立ち上がると、アイレスが問いかけるような眼差しを送ってきた。
「珍しいな。まだ館の営業は始まってないから、いてもいいんだぜ?」
「そうよ。寮に帰るのは嫌なんでしょ? なんなら、ここにずっといてもいいのよ。部屋を用意してあげるから」
わくわくと嬉しそうに目を輝かせて言うアリストアに、自然と頬が緩む。普段はどの女性よりも美しく着飾り、頭の切れる娼館の女主人である彼女が時折可愛らしい少女になる。今となっては滅多に見ることができない素の姿だと双子のアイレスが嬉しそうに微笑んで言っていた。
「そうだな。そうしろよ。俺の見習いってことにしとけば、誰も手を出さないだろ」
出させねーし、とやっぱり面白そうな顔で言って、座っていた床から立ち上がった姿が窓に映った。
二人の言葉には答えを返さないまま、窓の外にある景色を眺める。陽も沈み、暗くなってきたこともあって、この辺は人通りが多くなってきていた。馬車や車を使用していない人々の姿の柄が悪いのは一目瞭然。裏の界隈であるこの場所はアリストア所有の館を始め、娼館や酒屋、表を堂々と歩けない者たちの隠れ家など、治安の悪さでは有名だ。多少の騒ぎには警察だって目を瞑る。
あの規則だらけの寮よりは、この場所が適応しているように思えて、同意をしようと頷きかけたとき、不意に視界の隅に見慣れた ―― とてもこの界隈に訪れるはずもない少女の姿を捉えて驚いた。考えるよりも先に、扉に向かっていた。
「ちょ、ユウっ?!」
「用事思い出したっ」
慌てる二人の声を背中に浴びながら、先を急ぐ。頭の中が真っ白になった。今まで感じたことがない体験に、鼓動が早まっていく。館の玄関を抜けて、通りに出ると、視線を周囲に彷徨わせながらおぼつかない足取りで歩いている寮でのルームメイトに向かって走っていく。追いついて、その勢いのまま腕を掴んだ。
「 ―――― っ!」
瞠目した目が驚愕と恐怖を映し出していた。
「こっちにきてっ!」
動揺する彼女に構わず、腕を掴んだまま問答無用で引っ張って、裏通りを抜ける場所まで一気に連れて行った。幸いにもまだ、そこまで暗い時間帯ではなかったこともあって、絡まれることなく、一般の国民が行き交う表通りに出ることができた。
「ちょ、ちょっ…! 息…っ、苦しっ、」
繋いでいる手を引っ張って、もう一歩も動けないとしゃがみこんだ彼女に振り向いて、溜息を落とした。
「あの界隈はレーテ嬢が来るような所じゃない。親に言われなかった? 遊びでも行っちゃダメだって」
「寮の門限破るの、9回目。次に破ったら、お仕置き部屋に一週間閉じ込められちゃうのよっ?」
ムッと、頬を膨らませて、彼女は立ち上がり両手に腰を当てて一気にそう告げてきた。一瞬、何を言われたのか理解できずに黙り込む。その間に更に彼女は口を開いた。
「その間、反省文も毎日書かされるし、課題も多いし、休日も掃除させられるし」
すらすらと出てくる言葉と、その様子に違和感を覚えて眉を顰める。よく見れば、繋いだ手から彼女が小刻みに震えてることに気づいた。気分でも悪いのか、と疑問に思った途端、ふわり、と甘い香りに抱き締められた。身体を離す前に、耳元でほっと安心したような声が聞こえて、動きが止まってしまった。
「 ――― 本当は、あの辺で見かけたらしいって、クラスメイトの親が言ってたのを聞いて、心配したの。何か大変なことに巻き込まれてるんじゃないかって」
「それでわざわざ、探しに来たの? あんなところまで?」
信じられない、と含みを込めて言えば、急に身体を離される。見合わせた顔は不満そうな表情を浮かべていた。
「だって、ルームメイトだもん。心配するの当然でしょ?」
「他人だよ」
満面の笑顔を向けられて、胸が痛んだ。短くそう切り捨てれば、身内からも心配、という言葉を聞いたことがないこれまでを思い出して、泣きたくなった。顔に出すわけにもいかなくて、代わりに表情を消した。
「他人でも、心配するのは私の勝手だもん」
年相応の我侭のような言い分に、思わず苦笑が零れる。
「変な子」
思わず口に出した言葉に、反論してくると思ったけれど、レーテ嬢は微笑んで「お互い様!」と告げた。その笑顔を見ていると、胸に温かい感情が溢れてくるのを感じた。それが何かはわからないけれど、今まで抱えてきたものとは正反対の位置にあるような気がする。初めて味わう甘い感覚。そう悪くない感情かもしれない、と思っていると、鐘の音が聞こえてきた。
「ああ、門限……初めて破っちゃった」
言葉ほどがっかりした顔はしていない。ぺろっ、と小さく舌を出した彼女の手を取った。
「大丈夫。ばれないように部屋に戻してあげるから」
そう言いながら寮のある場所に向かって歩き出す。
「えっ、でも。今までだって、門限越えて帰ってきて怒られてたの、クレイスさんでしょ」
「まあ。追い出されたかったからね。でも、もう少し、リランとルームメイトでいるのも悪くないかなって思ったから、今日はばれないように帰る」
なに、それ、と楽しそうな笑い声が返ってきて、不意にそれは止まった。
「いま、リランって……」
小さく嬉しそうな呟きがあったあと、繋いだ手にぎゅっと力がこもった。
「ユウ、有難う」
何に対してのお礼の言葉だったのかわからなかったけれど、それでも素直にそう言うことができるリランを羨ましく思いながら、心の中で「有難う」と、呟いていた。