■ 君は寂しくマリアにキスをする(中編) ■
最近、つれなくなったわね。
扉を開けた途端に告げられた拗ねた響きの含みがある言葉に、戸惑ってしまった。いつも姿を見せるたびに走り寄ってくる勢いのまま抱きついて歓迎してくるアリストアの態度に慣れきっていたせいもあるけれど。すぐに平静に戻って、彼女が座る椅子の傍らに足を向けた。
「アリストア?」
そう名前を呼んで問いかけると、きゅっ、と唇が不満そうに結ばれた。
「昼は学校。夜は寮の規律で門限があるし。そうそう来れないって」
肩を竦めて言えば、まるで恋人を宥めるかのようで、そう思った途端そんな自分に呆れてしまった。確かにアリストアとアイレスとは人付き合いをしない自分にとっては珍しく友人関係を続けているけれど、それだって、互いの利益が一致しているからで。訪れて顔を見せないからといって、文句を言われるような間柄ではないはずだった。そう思い返して、言い訳するのも馬鹿らしく思ってしまい、手にしていた封筒を彼女の膝の上に置いた。
「はい。依頼されていた調査資料」
「 ――― もう片付いたの?」
驚いたようにようやく顔をあげて、アリストアが視線を向けてきた。
「まあね。それで、今回の依頼料についてだけど。アリストア、確かバーミヤ商会と懇意にしてたよね」
「えっ、ええ。あそこの会長さんはうちにもよく来てるわ。サリナがお気に入りなのよ」
珍しくお客のことを口に出してくることに戸惑いを感じたのか、不思議そうに見つめてくる瞳を見返して、微笑んだ。
「そこで取り扱ってた香水、ルームシャランって呼ばれるのがあるでしょ。あれが、欲しいの」
「あの香水? 人気がなくてもう作っていないから手に入らないでしょう?」
「在庫品がいくつか倉庫に残ってるって聞いたんだけど」
その言葉に、アリストアはふふっ、と嬉しそうに微笑んだ。その表情は何かを企んでいるかのようで、妖艶に見える。
「全部、盗み出して欲しいのね」
それがいつものパターンだった。ユウが望んだものをアリストアが裏で纏めている組織を使って盗み出し、それを高額でユウが売り払う。出所は一切隠して。その売り上げの8割がアリストアたちに分けられていた。お金に執着がないユウが本当は9割でもいい、と言うのを脅し宥め賺して止めさせた。本当はその行為をユウが始めたのは、アリストアたちを成功させるためだったことを知っている。
もとは孤児だったアリストアは娼婦見習いとして働いていた。その主人が最低な人間で、一日一回の食事さえ、乾いたパンと具も味もない水で薄めたスープ。弟であるアイレスは盗みをさせられていた。上手くできなかったときは食事抜きで鞭でお仕置きされていた。
毎日が地獄だった。けれど、ユウに出会ったことでそれも変わった。彼女は何も口にしないけれど、今はたやすくわかる。ユウはあらゆる証拠を集めて、そうとわからないように大人たちを巧みに操って最終的に主人を逮捕させた。その主人も、なぜか牢の中で暗殺されたらしい。その後、アリストアたちの生活もたちまち変化した。主人が隠し持っていたお金をこっそりユウが渡してくれた。これまでの給金だと思えばいい、と。アリストアはそれで館を買い、娼館として商売を手広く始めた。いつのまにか、この国でナンバー1の名声と力を手に入れることができた。アイレスは、ユウに導かれるように自分の夢を思い描き、医師になることに目覚めた。必死で勉強して、優秀な医師になって、今ではアリストアお抱えでパートナーとして手助けしてくれる。幸運をくれたユウという存在に、二人は感謝してもしきれない。それだって、まだ10歳にも満たない少女の力とあっては、惹き付けられるのも仕方なかった。いくらこの国が荒れ果てていて、子どもだって大人にならざるを得ない場所だったとしても。ユウの大人びた行動はそれを飛び抜けていた。
「違うよ。一本だけでいい。あそこの会長さん、悪い人じゃないから。ちゃんと交渉すれば分けてくれないかなと思って」
過去を振り返っていたアリストアは、ユウの言葉を一瞬理解できずに瞬きを繰り返した。
「……一本ですって?」
「自分で交渉に行ってもいいんだけど、流石に子ども相手だとね。アリストアなら、早いかと思って」
――― ダメ?
不安そうに見上げれば、アリストアは呆然としていながらも、首を左右に振った。ダメなわけないじゃない、とまだ目を虚ろにさせたまま呟く。思わず、一括していた。
「アリストア!」
「わ、わかったわ。二、三日中には手に入れとくから」
「お金はちゃんと支払うからね」
ほっと胸を撫で下ろして、ユウは足早に部屋を出て行った。その背中に「お茶でも」と言い掛けた言葉はばたん、と閉められた扉に遮られてしまった。すぐに扉が開く音がして、ユウが戻ってきたのかと思ったアリストアはそこに弟の姿を認めて、溜息をついた。
「なんだよ。人の顔見て溜息つくなんて、姉貴特有の愛想笑いはどうしたんだ?」
「あんた相手にしてもね……」
呆れたように返して、肩を竦める。そのまま、椅子に座りなおした。向かい側に座って、テーブルの上に置きっ放しの書類を見たアイレスが口を開く。
「ああ。……ユウまで俺に冷たい。せっかく来たのに顔も見せてくれないなんて」
そのがっかりした声を聞きながら、とりあえず気持ちを落ち着かせるために一気に紅茶を飲み干して、一息つく。名案が浮かんだ。
「アイレス。明日少し一緒に出掛けましょう」
「なっ、なんだよ。いきなり」
慌てるアイレスを横目に心の中で燻る想いを感じていた。
信じられない、と目を瞠る。恐らく隣に立っている弟も同じ想いを抱いていることがぴりぴりと伝わってきた。夢だ。幻だ。そう呟いている声が聞こえてくる。
あのユウが年相応な笑顔を浮かべてる。無邪気に傍にいる同い年の少女と戯れていた。
「ユーウっ、今から買い物に行かない?」
「いいけど、代わりにセイレン通りに出来たカフェに付き合ってよ。あそこの紅茶美味しいから気に入った」
「わぁ、ほんと? 連れて行ったかいがあったかなー。じゃあ、買い物合間の休憩に寄ろうね」
嬉しそうに笑う少女の顔を見て、更にユウの顔が優しい表情になる。まるで、慈しむように。アリストアは、今まで一度としてそんな表情を見たことがなかった。悔しい想いがわきあがってくる。
「……なんだよ。あいつ、あんな表情できるのか」
ふと悲しげな声に視線を向けると、アイレスが悔しげに拳を握りこんでいるところだった。その傷ついた顔に今の自分も恐らく同じ顔をしているんだろう、と寂しく思った。その想いを感じながら、同時にわきおこる、少女への憎悪。それを押し隠しながら、アリストアは目の前の光景を見ているだけでは我慢できなくなって、割り込んでいった。
リランに誘われて買い物に出かけるために、門をくぐり向けたところで反対側から呼びかけられた。ユウ、とその声は昨日も会った女性のもので。驚きに言葉を失う。振り向くと想像通りの ―― だけど、この場には相応しくない華やかな美貌をもった女性が立っていた。同じ顔が隣に並んでいれば、まるでこの周辺だけが切り取られた絵画のようだった。
「キレー……」
感嘆を呟いて、それ以上の言葉が出てこないのか、ただ溜息を零すリランにようやく我に返る。アリストア、と名前を呼ぶ前に、手を取られた。
「例のものが手に入ったの。取りにくるでしょう?」
その言葉に、昨日の今日で、と顔には出さずに感心する。流石に仕事は早い。昨日の様子から大丈夫かな、と心配していたことが杞憂に終わってほっと胸を撫で下ろした。ああ、でもと隣でまだ放心しているリランを見て思い出す。
「ごめん。明日の夜に取りに行くから。今日は用事が ―― 」
「ダメよっ!」
高らかに言葉を遮られた。不安そうな影を宿している目は動揺を明らかに浮かべていて、困惑せずにはいられなかった。娼館を経営するトップとなって、男たちに見下されたりしないよう、女主人としての風格、威厳をもち、気品を醸し出すアリストアの雰囲気は容易く揺らぐものではない。その様子に心配する想いがないわけではなかったけれど、それでもユウにとってはリランといたいという気持ちが大きい。大事な昔馴染みではあるけれど。
ユウは無意識にリランの手を握っていた。
まるで迎えに来た母親を拒む、子どものような仕草だと自覚してしまった。
まだ、リランといたい。一緒にいたい。気持ちが膨らんでいくのに合わせて、リランと繋いでいる手に力が入っていくのを感じながら、少しだけ罪悪感に胸が痛んだ。
「アリストア……。明日じゃダメなの?」
「……明日まであれがあるかはわからないわ」
その冷たい一言が胸を切り裂いていくかのようで。
「ユウ。約束は明日にしよう。今日は行ってきていいよ」
息苦しい空気を振り払うかのように、リランがにっこりと笑った。リラン、と名前を呼ぼうとして、リランと繋いでいた手を取られた。
「ほら。お前の同級生もこう言ってるし。いいだろ、行くぜ」
一方的にそう言ったのは、アリストアと同じ傷ついたような顔をしているアイレスだった。その口調はいつも端々に感じていた温かみは消えていて、とても低く冷たいものを思わせた。まるで引き立てられていく犬みたいだ、と自分のことを思いながら、ユウは後ろ髪を引かれる想いで、リランに「ごめんね」と繰り返して、アイレスに引っ張られていくままついていった。
二人の館に連れてこられて、広間に足を踏み入れる。いつものようにソファに座ると、ようやく手を放したアイレスが、目の前に立った。アリストアは約束のものを取りに行くと言って別の場所に向かった。不満そうに腕を組んで睨んでくる目を眉を顰めて見つめ返す。
「なんでそんなに怒ってるの?」
「俺にはわかんねーんだよ。ユウ。どうして他のヤツに気を許すんだ?」
その言葉を聞いて、ハッと息を呑んだ。
( ――― 気を許す?)
アイレスの言う他のヤツというのは思い出すまでもなく、リランのことだと想像はつく。だけど、気を許す? それは ―― 。
「……そんなつもりない、けど」
今までのように「そんなつもりはない」とはっきり断言できなかった。それに気づいたのか、アイレスの眉が更につりあがる。不満そうな顔つきが怒りに溢れたものに変わっていった。腕を強く掴まれてしまう。
「俺はっ」
「じゃあ、なに? アイレスは私が誰にも気を許しちゃいけないっていうのっ?」
わけのわからない苛立ちが心の中に燻り始める。どうして求めてくるんだろう。自分は求めてなんかいないのに。必要だと思ってないのに。一方的に、押し付けてくるのは、ただ重いとしか感じられなかった。
「そうじゃないっ。だったら、俺たちでもいいだろっ。お前は、俺たちには一度だって気を許したことないのに、なんでっ。どうして会ってすぐの」
「 ――― 押し付けなんて、私はイラナイ」
感情のすべてが剥ぎ落とされた気分だった。
腕を掴んでいる手に力を込められても、痛いとさえ感じられない。目の前で怒っているアイレスも遠い存在のように思えた。感覚のすべてが遠ざかっていく気がした。
「アイレス、もう。いいわ」
二人の間にアリストアの声が割り込んだ。その声で我を取り戻したのか、アイレスも小さく息を呑んで腕を放した。悪い、と呟いて顔を背けられる。代わりにアリストアが目の前に歩み寄ってきて、視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「ユウ。はい、約束していた香水。もう売れていないからって会長さんが在庫品をすべてくれたの。残りは倉庫に置いてるから」
「そう。有難う」
渡された瓶を受け取って、立ち上がった。ぎゅっと握り締めたその瓶の固い感触だけが現実めいていて、何も言わずにただ見つめてくるアリストアの視線とアイレスの沈黙から逃げるように、部屋を出て行った。
『 ――― あのひとを、許してね。許してあげてね』
母親はそう言って息を引き取った。どうして、そんなことを求めてくるのかわからなかった。だって、憎んでもいない。なんとも思っていない相手を許す方法なんて知らない。
見下ろしてくる像の瞳には寂しげな光が宿っているように思えるのは、今の心情を映し出しているせいかもしれない。慈愛を模するマリア像は百合の花束を抱いている。見つめていると、その手が今にも動き出して、差し出されてくるかのようだった。
「愛してって言われるよりはマシだったかもね」
「愛せないから?」
思わず零した独り言に返事があって、その気配にほっと息をついた。それでも気配を感じられないほどに過去に浸っていたことに苦笑を零す。リランが隣に立って、同じようにマリア像を見上げるのを感じながら、もう一度視線を向ける。
「愛がわからないから」
そう答えながら、思ったよりもその言葉が心の中にしっとりと落ちてきた。きっと、そう。だけど納得すると同時に絶望した。それだと、まるで ――― 。
「ユウ?」
「お母様が私に触れたのは最後に死ぬ寸前だけ。それが最初で最後。父親らしきひとの顔を見たのは ―― 5回。言葉を交わした数はもっと少ない。命令に返事だけ。会話は一度もない。それでも、それが普通だったの。あの閉鎖された空間では」
だから、感情が揺らぐことなかった。
ふわりと抱き締められる。さらさらと細い金糸の髪が揺れていることに気づいて、その温もりが伝わってくると同時に喉の奥が鳴る。熱い感情が溢れてきそうになって、目の前の身体にしがみついて堪えた。
「感情ひとつもらえなかったのに、どうして皆は私に求めるの?」
笑顔も。許しも。愛情も。持っていない人間になにを期待しているのか。されているのかわからない。自然と零れ落ちるそれさえも、誰かを傷つける行為になるのなら、生きていることさえ間違っているような気がしてくる。
抱き締めてくるリランの腕に力がこもる。それは苦しいと思うよりも、とても居心地がよかった。それでも、と耳元でリランの声が聞こえる。
「ユウ、それでも貴女を生んだお母様は愛してたのよ」
リランの言葉に、息が詰まる。
眦が熱くなっていくのを感じて、でもそれがなにを意味するのかわからず、ただ堪えた。身体を離して、目の前のエメラルドの目を見つめる。
「どうして ――― 、どうしてリランがそんなこと言えるの?!」
――― 会ったこともないのに。
一度としてあの腕はこんなふうに、抱き締めてくれることはなかった。あの目は見てくれることもなかった。ただひたすら、そう。最後まで振り向いてくれない男のことばかり見ていて。傍にいたのに、そのことに慣れてしまえるほど自身を見てくれることはなかった。
「だって、ユウは此処にいるもの」
その言葉と一緒にもう一度身体をぎゅっと抱き締められた。何もなかった胸の中にゆっくりと落ちて満たされていく。いつか、満たされたら、感情が溢れてきてくれるだろうか、とそんな想いさえ抱いてしまう。
「 ――― っ、ごめん。ユウっ、痛いっ!」
急に身体を離されて、その言葉に思い出した。胸ポケットに入れていた瓶を取り出す。
「あっ、これって」
「そう。リランのお母様が好きなんでしょ? 在庫に残ってたらしいから、貰ってきたの。いくつかまだあるみたい」
「貰っていいの?」
勿論、と頷いてその瓶を手渡した。有難う、と嬉しそうに微笑む顔に自然と頬が緩む。不意に名案が浮かんだとばかりにリランが両手を打った。
「お礼に今日のディナーに招待をするわよ。お母様に連絡するわね。みんな喜ぶわ」
その言葉に興味を引かれたけれど、その前にやっておくことがあった。
「少し遅くなるけどいい?」
「カイラとシャイラの我慢の限界は8時までよ。それまでにね」
悪戯っぽく笑って言われた聞き覚えのない名前に首を傾ける。双子の妹弟よ、と楽しそうに笑われて、了解、と笑顔で頷いていた。