■ 贖罪に跪く君を傷つける(前編) ■
テーブルを挟んだ向こう側に座っている親しい女性からの物言いたげな視線を感じて、手にしていた書類から顔を上げた。綺麗なサファイアの瞳とぶつかって、苦笑する。この国で娼館の女主人の座を牛耳っている彼女は、仕事のときの優雅さや華やかな雰囲気、相手に対する分別や気遣いを得意とするはずなのにプライベートになると、その口調はさっぱりしていて、言いたいことは躊躇いなく口にしていた。今は、珍しくただ疑問の視線を向けてきていて、どうやら口火を切るのを待っているらしいことに気づいた。書類をテーブルのうえに置き直して、肩を竦める。
「何か聞きたいことでもあるの?」
単刀直入に促されて、アリストアは困惑するように秀麗な細い眉を顰める。そうして、行儀悪くもテーブルに肘を突いて手のひらに頬を乗せると、深いため息をついた。憂いを見せる姿は影を作り、美しさを更に際立たせる。
「アリストア?」
言うことを躊躇っているその様子に、よほど口にしたくないことだと察して、思い当たった。自嘲するように、笑みが浮かび上がる。
「もしかして最近、流れ出したうわさの信憑性について訊きたいの?」
はっ、と驚いた顔つきでアリストアは目を見開いた。ようやく合点がいく。最も、まだ上層階級にしか流れていないと思っていた。それにしたって、その上客がいるわけだから、アリストアが早々に耳にするのも当然のこと。逡巡していると、テーブルから身を乗り出してきた。ずいいっと近づいてくる顔は常にない真剣なものがあって、少し戸惑いが生まれる。たとえ、その内容が事実であったとしてもその逆だったとしても、アリストアが真剣になることじゃないのに。そんな思いとは裏腹に、アリストアは緊張感の張り詰めた空気の中で、慎重に口を開いた。
「私はあなたの口から聞きたいのよ」
「……アリストア」
心配してくれているのかもしれない。そうは気づけるほどに、あまり人と繋がりを持たない自分にとっては、アリストアたちとの仲は長く深いものになっている。親友であるリランとは別の意味で大切だと思うし、守りたい。同時に、心配されることが重荷だとも感じる。感情を押し付けられるようで、息が詰まってしまう。いっそ、振り払えれば気持ちが軽くなるかもしれないと思いもしたけれど、守りたいと感じることも本音だった。
こんっ、と扉を叩かれて、アリストアと同じ顔をした双子の弟、アイレスが姿を見せる。仕事中だったのか、白衣を着ていた。
「ユウ、いいところにきたな。ちょっと、コレ見てくれねえか」
唐突に何かを放り投げられて、反射的に受け取る。手のひらを広げると、青色と、白色が半々の筒状のカプセルがあった。記憶の中から引っ張り出してきても、少なくとも読破した本に載っている薬品名の中には同じものがない。国に出回る薬には気をつけている。知識からも、経験からもそれは見覚えがなかった。
「下っ端の連中がさっき飛び込んできてさ。仲間を助けてほしいって言うんだ。行ってみたら、半死人だ。そいつはどうやら、金と引き換えに新薬の実験体になったらしい。そいつを襟に隠して盗み、逃げ出してきたみたいだが、アジトに着いたときには、もう動けなくなってた。詳細を聞き終えたときには唇も動けなくなって、完全麻痺。次第に廃人だ」
アイレスは扉に寄りかかって、肩を竦めた。
「何か対処法見つかりそう?」
「いや。なにをやっても改善の兆しがなかった。もう少し詳しく成分を調べてみねえとな」
「そっか。うん。私もあとで研究施設に寄るから」
投げ返したカプセルを受け取ると、了解と頷いて、アイレスはこの娼館の地下から繋がっている研究施設に向かうために部屋から出て行った。パタンと閉まったドアを見て、椅子から立ち上がる。情報を集めるために、団の施設に戻ろうと思った。
「ちょっと、ユウ!」
引き止めるように声をかけられて、ドアを開けようとしていた手を止める。振り返ると、アリストアが不満そうな顔で見ていた。
「何も言ってくれないの?」
「 ―― 今は、まだ」
「そう、わかったわ」
曖昧な返事に、アリストアはあっさりと頷いた。驚いて、思わずまっすぐ見返すと、彼女はふわりと優しい微笑みを浮かべる。
「待つことには慣れてるの。今はまだってことは、いつか必ずってことでしょう?」
甘い、声だと思う。ゆっくりと胸に落ちてきて、だけどそれは重く、すぐに息苦しさを覚える。そう感じてしまったことにさえ、罪悪感を感じ、「また来るね」と言い残して部屋を後にすることしかできなかった。アリストアが仕方ないわね、と寂しく笑うだろうことをわかっていながら。
‘リーダー’の執務室にある机の上のパソコンと向かい合いながら、やる気なくキーボードを打つ。時計を確認して、あと二十分待って有力な情報がないときには、研究所に行ってアイレスと調べようと思っていたけれど、集中できないでいた。
噂が広まるのは早い。他の誰かに何を言われても傷つかない自信はある。事実を知らないひとたちにはわからない。醜聞しか耳に入らないひとたちには。それで誤魔化されてしまう人たちに私が気にかける必要ない。結局、気にしているのはそれがリランの耳に入ってしまうこと。随分、臆病になってしまったかもしれない。両親にも見向かれず、上辺だけを装って暮らしていたときには怖いものは何もなかったのに。ただ、父親だという彼の有益となる人物たちに気に入られてさえいればよかった。それだけが私の生きている意味で、それは私には何の価値もなかった。だから、失ってもよかった。それなのに、たった一つの噂でやっと見つけたかけがえのないものを失うかもしれないと思った途端、怖くて堪らない。
「違うね……」
噂だったら、一言「そんなことない」と否定さえすれば信じてくれる。怖いのはそれが ―― 。
不意にピッと小さな音が鳴って、思考を中断した。パソコン画面を見ると、メールが届いていた。情報屋として信頼しているひとからのもの。知り合ったのは情報を知りすぎて殺されようとしていたところをたまたま、助けてしまったことが縁で、それ以来は知りたい情報を優先して手に入れ、教えてくれていた。勿論、相応の見返りを渡してもいる。
メール文を一通り見て、最後の一文に眉を顰める。読み終わると同時に人の気配を感じて、顔をあげた。ドアを叩く音が聞こえる。返事がある前に開くのは、‘レッド’の癖。案の定、姿を見せたのは彼女で、両手に一杯書類を持って歩み寄ってきた。
称号の名の通り、赤く染めた髪は目立つけれど、整った綺麗な顔に似合っている。きりっとした目つきは、彼女の気性を見事に現していた。
「ゴメン、ゴメン。気がついたら、書類溜まっちゃってたわ」
「いつものことだからね」
肩を竦めて言うと、ムッとした顔をする。わかりやすい彼女の感情表現は、わりと気に入っていた。これで、統帥一番でなければ、だけど。
どさりと書類を置かれて、その量に溜息をつきたくなる。まあ、いい。さっさと片付けて統帥に回してやれば、余計な手を出す時間も減る。
「そういえば、今って、‘レッド’は時間あった?」
‘レッド’は腕を組んで、不満そうな顔をする。
「私たちのことは把握してるでしょ、‘リーダー’なんだから」
「頼みたいことがあるんだけど、動いてくれる?」
「それって、団としてってことじゃないの?」
怪訝そうに言われた言葉に、考え込む。まだ全貌がわかっていない。しかも、この計画の裏にどんな思惑があるかさえ掴んでいない。だけど、あの薬を見たときから、何かしらの予感があったし、今までそういった予感ははずれたことがなかった。
「まだ今夜知ったばかりの情報で、なんとも」
「珍しいわね、あんたがそんな曖昧な情報を口にするなんて」
肩を竦められて、確かにその通りだと思った。あまりにも曖昧すぎる。だけど、あの薬とメール文に嫌な予感は膨らんでいくばかり。
「まあいいわ。あんたが言うなら、悪いことにはならないでしょ。動いてあげるわ」
その信頼はどこからくるのか、と思わず口に出しそうになったけれど、せっかくの言葉に飲み込んで、「ありがとう」と返した。
「計画ができたら、通信で呼び出して。待機しておくから」
了解、と頷くと同時に彼女は踵を返して部屋を出て行った。閉まったドアを見て、腕に嵌めている時計に視線を向ける。二十分は経過していて、そろそろ研究施設に行くことにした。パソコンの電源を切ろうとして、メール文が目につく。
『 ――― 狙いはおまえかもしれん。十分、気をつけろ』
理由はわからなかったけれど、それは的を得ているような気がした。
シリア王国の最下層で暮らす者たちは一食さえままならない。最下層の者たちを雇おうとする経営者はいない。利益を求めるなら多少のリスクを負っても学歴があり、知識や礼儀を身につけた者を雇うのが通常で、最下層に暮らす者たちはそれを受けることができない。悪循環だった。彼等が働き一日暮らすこともやっとな代金をもらえるのは限られたことだけ。
王宮の暮らし振りを知っているユウはこの落差に辟易していた。罪なき子供たちが巻き込まれることを受け入れることはできないがテロリストの活動が頻繁に起きるのも頷ける。方法が間違えてるだけで。
ユウに出来ることは最下層に暮らす子供たちに自分ができる精一杯で最善の環境を提供することだった。その一歩が病。環境の悪い暮らしではすぐに重い病気にかかる。そのため様々な病気の抗体を作るために研究所を設けた。
その責任者がアイレス。アリストアの双子の弟で資金提供をユウが行っていた。優秀なこの研究所では全てのといってもいいくらいに病気に関する抗体薬が作られ、また一般に麻薬と呼ばれる人体に悪影響を及ぼす薬に関しても抵抗薬を作り出していた。この研究室でしか手に入らない薬もあれば、此処で手に入らない薬はない。お金がない者たちには無料で、有り余っているところからは高額で提供している。
地下施設はアリストアが所有する娼館のひとつにあった。隠れた入り口は様々な場所にあるが、どこもパスワードがないと入れない。またセキュリティも緻密に仕掛けられていて、他所から侵入できないようになっている。
パスワードを打ち込んで、研究室の実験室に入ると、そこではすでにアイレスが映し出されている画面の前で腕を組み考え込んでいる姿があった。隣に立って、画面の分析表を見る。
「これは一種の麻薬だな。成分のベースがそうだ。ややこしいプラスαがあるけど」
「アフィラミンが入ってる」
「記憶喪失の作用だろ。珍しい」
「扱いにくい薬を麻薬の一種として使うのにわざわざ入れるかな」
アフィラミンは記憶を操作するときに用いられる薬物の一種。しかし、量の加減によって、すべてを忘れてしまう場合が多い。人間として培ってきたすべての記憶を。
「嫌な記憶を忘れたい、とか思うやつもいるだろ」
「或は知られたことを忘れさせたい?」
その辺りが妥当だな、と頷くアイレスの横で実験薬に試薬をかけて様子を見守る。
「だったら、別に麻薬として他の薬と混ぜる必要はないよ。アフィラミンの研究だけで量の加減を見つけ出せれば、記憶の操作もできるようになるし」
最も、それだけを見つけ出すにも相応の時間と知識が必要だろうけど。例え見つけ出せたとしても、人間に使用して必ず成功するとはいえないほどに難しい成分のひとつ。
「廃人になるのは、そのアフィラミンと麻薬のベースの物質が混ざり合って、記憶と身体の機能を失わせるからだろう」
変化した実験薬を顕微鏡で覗き込みながら、アイレスの言葉にうなずく。シナプスの伝導が反応しなくなって、消滅していく。細胞も死滅する。麻薬としての効果も無い。そうなるとわからなくなってくる。何のためにこんな薬を作っているのか。誰が ―― 。考えていたとき、ふとこの成分表と似たものを見たことがあると閃いた。
「『エンジェル』!」
新種の麻薬を開発しているという情報を得て、そのアジトに乗り込んで‘レッド’とともに捕まえた。開発プログラムは全部消去したはず。多少の成分には違いがあるけれど、あのときはまだ開発途中だった。
「『エンジェル』はおまえが摘発しただろう? 最初から作り直すには相当の資金源が要るぞ。それが動けば俺たちに、少なくともおまえにわからないわけない」
「最初からならね。だけどあの成分を覚えているひとがいたとしたら? 黒幕とメインの研究者たちは捕まえたけど、残りは脅迫されていたとして、見逃したから」
ああ、それは ―― 。アイレスは合点がいったように息をついた。
これで、誰が作っているかは推測できた。そのときの研究者達を洗い直してみる、とアイレスが手元にあるパソコンに打ち込み始める。それを任せながら、成分を検討して、抵抗薬が作れるか実験に入った。
「 ――― 最近どうだ?」
んーっと、薬棚から保存している液体が入った試験管を取り出しながら、アイレスの言葉を繰り返す。『最近、どうだ?』滅多に聞かない言葉に眉根を寄せる。ちらりと見ても、彼の顔はパソコンの画面から動いてはいなかった。
「いつも通り」
「段々、おまえ身動きできなくなってきてるんじゃないか?」
「人を年寄りみたいに言わないでよ」
冗談に切り替えながらそう答えると、誤魔化すなよ、と低く鋭い声が飛んできた。反射的に喉元まででかかった拒絶するための言葉を飲み込んで、肩を竦めるだけにする。沈黙が降りて、それぞれの作業に専念した。
「 ―― ユウっ、見つけた!」
不意にアイレスが声を上げる。目の前の大きなスクリーンにパソコン画面が映し出された。ひとりの名前と、経歴が現れる。
「あの研究員たちの中で現在もこの国にいて、アヤシイ動きをしているのはこいつくらいだ」
「一度摘発したらその薬はZのチェックにかかるのに、危険を冒してまで『エンジェル』の開発を続行した理由がわからないなー。テロリストが動いてる気配もないし、お金かかるだけなのに」
団のチェックがかかっている代物をこの国で売ることは勿論、他国へも持ち出すことは不可能だ。その流れはすぐに団の知るところになり、つまり、持っていても何の役にも立たない。
「あと考えられるとしたら、復讐……?」
「個人的な恨みで使おうっていうのか? それにしたって、わざわざ使うかよ。これを作り出してるってだけでZに目をつけられるのに」
「復讐の相手がZの団員だったら、おびき寄せる罠にもなるね」
ようやく納得できる気がした。この流れが一番しっくりくる。
相手はこんなにも早く見つかるとは思っていないだろう。情報の速さ。それは、ユウが最も大切にしていることだった。この国では先回りしなければ、最悪の事態はいつだって訪れる。薬が未完成のうちに動かなければならない。情報機器が発展している現在では、完成してデータが流されたら後を追う事は難しいから。
「おまえが囮になる気か?」
怪訝そうな顔で聞いてくるアイレスの瞳に鋭い光が帯びているのを見つける。それには気づかないフリをして、実験薬のデータを取るために成分に抵抗できる薬の種類を書きとめていく。
「とりあえず、ある程度の実験を重ねてから、抵抗薬になるか試してみよう。アイレス、研究員に集合かけて。できるだけ急いで作らないと」
そう促すと、それ以上は追求しても答えないことを理解しているアイレスは溜息をついて、動き出した。