サンセットムーン
どうしてヒトは恋に落ちるんだろう。
肌を辿る指先は、身体の奥に燻っている熱を煽り、全身に広げていく。違うものをひとつに溶け合わせるため、重なって、もう離れないよう。その瞬間は永遠には続かないことを私は知っているのに。知っている、のに。
ベランダにでると、真っ暗な空に白々としたまん丸の月が浮かんでいるのが見えた。
『冬の月は、孤独に思える。ひやりと冷たくて、
――― 寂しい。寂しいよ』
そう言って、泣き出したあなたを。私は。
はい、と差し出されたグラスを受け取る。氷がたっぷりと入っている琥珀色の飲み物は、今見ている光景に似ていた。ありがとうと言って、喉に流し込む。頭の中に浮かんでいた面影も一緒に、熱を飲み込んだ。
「寒くないか?」
同じように並んで、隆貴(たかあき)が柵に寄りかかる。ほんの少し腕が触れて、温もりが伝わってくる。瞼を閉じてそれを感じ、ゆっくりと持ち上げて、やっぱり浮かんでいる月に、私は大丈夫と頷いた。
――― もう。寂しくなんかないわ、と。
エレノアのサンセットムーンが流れている。ハスキーな声は時折かすれて、店の雰囲気を独創的な世界に変えていく。
黒く塗られた石細工のカウンターテーブル席と、同じ材質のテーブル席が六つほど。そのほとんどが埋まっているけれど、此処にいるひとたちは、皆それぞれに孤独でいる。寂しさを感じさせるものではなく、それを楽しんでいた。
誰にも話せない胸の奥の秘密を思い浮かべて、懐かしむ。店の中を満たす音楽と、お気に入りのアルコールに酔いしれて。同じ空気に包まれているけれど、誰もが独り。愛しい時間ではないけれど、長く続く人生の中で必要な瞬間。
頬を緩め、微笑んでいる姿がそれを語っていた。
カウンター席に座って、ブランデーをロックで飲みながら私は歌に聞き入っていた。この歌は、男性の片想いを切々と描いている。月を片想いの相手に喩えて、姿が見えるのに、手が届かない。そんなふうに。
「お嬢さん、ここ空いてる?」
やわらかな声に問いかけられて、グラスの水滴を見つめていた私は視線を動かす。
甘いひとだと、感じた。さらさらと小さな動きに零れる栗色の髪。スッと通った鼻筋。笑みを刻んでいる薄く色づいている唇。目の前にある琥珀色と同じ瞳は声と同じでやわらかい光を宿していた。その奥にある情熱を押し隠して。
「私の隣は高いわ」
薄く微笑んで言う。
「これで足りる?」
差し出されたのは、部屋番号が書いてあるキィカード。
軽く睨みつけて、どうぞと隣を促した。
「彼女と同じものを」
そう言って座った彼がいる右側が急に熱くなる。触れている腕から、じわりと足先まで、甘く痺れる。いつもはその余韻に浸り喜びを感じるのに、今は胸を苦しくさせてしまう。ぎゅっと、心臓を鷲掴みされたみたいに。
バーテンが彼の注文したものを置く。
一度それを流し込んで再び置いたのを見てから、口を開いた。
「 ――― 私」
喉が焼け付いた声は、弱く聞こえる。そんなんじゃダメだと自分に言い聞かせて、もう一度言い直した。躊躇わずに、一気に。
「私、結婚するの」
「誰と?」
まるで冗談でも交し合うように、彼の口調はいつもと変わらない。
「隆貴と」
その名前を告げた瞬間、真剣だと伝わったのか、触れていた腕から彼の身体が強張ったのを感じた。胸の奥が軋んだ音を鳴らし続けている。いっそ、そのまま壊れてしまえばいいのにと願うのに、聞こえないフリをすることだけが精一杯だった。
「隆貴を持ち出すなんて冗談にしては、笑えないよ」
固い声が聞こえてくる。張り詰めた緊張感は、今にも崩れ落ちていきそうで、それが怖くて身動ぎひとつできない。視線さえ、グラスから動かせない。後一口分残っているけれど、それを飲み干してしまったらすべてが終わるようで、できないでいた。
今、すべてを終わらせようとしているにも関わらず。
「……椎名」
彼がグラスを煽る気配を感じながら、声が震えないように気をつけてゆっくりと言う。
「冗談じゃないの。一週間前にプロポーズされて、今日返事をしたのよ」
自分のことを話しているのに、他人事のように聞こえた。
歌が続いている。一番目の歌詞が終わったところで、彼は沈黙を破った。
「俺たちの関係は、そんなふうに簡単に」
「私たちは寂しさを埋めあうだけの関係だったのよ」
遮って強い口調で言う。それは事実であって、きっと真実ではないけれど、言葉にしてしまえば間違ってはいない気がした。愛していたのかと訊かれれば、答えられないから。お互いの、心のどこかにある隙間を触れ合う肌の温もりで誤魔化したかった。
小さく、氷が解ける音が聞こえる。
沈黙の間に流れる、エレノアの歌が切なく胸に響く。
「それにもう、冬は終わるわ」
ひと時だけ。冬の間、冷たい月が浮かぶ間だけ。春にはきっと、寂しさはとけてしまうから。温かな、季節に温もりを補う必要はなくなる。春の月は優しく闇に溶け込んでくれるから、孤独を感じることもない。
歌が終わる前に、そう決意してグラスに残る飲み物を一気に飲み干して、椅子から立ち上がった。不意にカウンターについた手を、大きな手の平に掴まれる。どくりと、包まれる熱に心臓が音を鳴らした。
「 ―― 愛してるのか?」
低い、かすれたような声に、こみあげてくるのは、悲しみ。
手を掴んだまま、ぴくりとも動かない彼の頭を見下ろしながら、ばかね、と口の中で呟いた。伝わってくる熱を胸に刻み付けるように、瞼を下ろす。歌はもう、サビを繰り返し、終わりに近づいていた。
「愛しているわ」
全てを振り払って、目を開ける。そうして、最後に呟いて、掴まれている手をそっと、抜き去った。
失われる熱に、名残惜しむ気持ちを感じながら、最後まで椅子に座ったまま動かない彼を後に、店を出て行った。
ぱたり、と扉を閉めて寄りかかる。ほっと、吐き出した白い息が、星ひとつない暗い空へあがっていく。それを視線で追いかけて、月を見つけた。ぼんやりと薄白い月は、いつものように孤独を表していて、寂しさを誘う。
「ばかね……」
さっきは声にはしなかった言葉を、繰り返して呟く。
卑怯なことはわかってる。だけど、女は馬鹿なままでいられない。本気で愛してくれない男を、そうとわかっていて愛し続けるのはつらすぎる。ただ、寂しさを補い合うだけの関係を続けるには、あまりにも私は ―― 。
「……愛しているの」
あなたを。
そうは続けられないけれど。
気持ちにけじめをつけて、寄りかかっていた扉から離れる。大丈夫、と自分に言い聞かせる。もう、冬も終わるから。寂しくもなくなる。
あの歌を思い出すと、胸が苦しくなる。いつか、この店にいた人たちみたいに、胸の奥に秘めたこの想いを懐かしく思いながら、頬を緩めて聞き流せるときがくるかもしれない。
それまでは、この歌を聴くたびに胸は切なく痛むだろうけれど ―― 。
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