まあるい月


 まあるく浮かぶ月を見た。

 真っ暗な静けさの中でとけそうな輝きは滲んで見えた。どうして今あの月はまあるいんだろう。端っこが少しだけ欠けていても。真ん中までぐいっと抉れていても。いっそ、そこにあったんだっていう名残りだけ残して消えてしまっていてもいいのに、と思った。   

 私がどんなに頭の中でイロイロな形の月を思い描いても、やっぱり月はまあるく暗闇の中に浮かび上がったままだった。

 暗闇にもとけこめない明かり。星にさえも負けてしまう輝き。私は胸がぎゅと潰れてしまう音をきいた。ぎゅっ、ぎゅっとあのまあるい月を、押し潰してしまったように。小さくなって、小さくなって。だけど、やっぱりまあるい月は形を変えずにまあるいまんまで、暗闇の中でぼんやりと明かりを放っている。とけこむこともなく、他の輝きに紛れてしまうこともなく。微かな光を纏っている。たとえ、滲んで見えても。

 それに気付いたとき、私は急に誰かに電話をかけたくなった。話しを聞いてほしいと思って、月から視線を外した。

 肩にかけていた白いバックの中に手を入れてガサゴソと探る。手の平に冷たい感触があたってそれを掴んで取り出した。シルバーメタリックの携帯電話。かぱりと開いてボタンを押した。その間もずっと、何かにせき立てられているみたいに、早く早くと心臓が音を立てていた。
 コール五回目で相手がでる。低いテノールの声。電話だといつも男の子に間違われてしまうと愚痴っていたことを思い出した。
 「どうしたの、こんな真夜中に」
 「ごめんね。寝ていた?」
 真夜中という言葉に私は今日初めて時計を見た。腕に嵌めていた時計は付き合っていた彼とお揃いで買ったペアウォッチ。同じデザインだけど私は赤。彼は青だった。

 「丑三つ時に寝てない女は、オタクか呪詛をかけにいくかのどっちかよ」
彼女の言葉に噴き出してしまう。時計をはずしながら、そうねと、肯定した。
 「……そのつもりだったわ」
 笑うことをやめて、少し真面目な声で言う。予想していたのか、それとも知っていてもはっきり頷かれると返答に窮してしまうのかわからなかったけど、彼女は黙り込んでしまった。

 シューシューと蛇が威嚇するときに発する音が、受話器の中で鳴っている。それを聞いているうちに、いたたまれなくなって、私はもう一度くり返した。

 「そのつもりだった……」
 そう呟いたとき、風が吹き付けてきた。夜の寂しい空気を含んでいる風は湿っていて、とても重い。その重さに引きずられてしまいそうになって、もう一度あの月を見た。

 まあるい月はぼんやりと、やっぱりただそこにあった。

 さっき、誰かと話したいと思った衝動が再び胸を突き上げてくるのを感じた。熱い、熱い衝動。その勢いに任せて、口を開く。
 「最初は後悔するわけないって思ってた。彼のためなら全部失ってもいいって。それくらい大好きだった。初めてそういう男の人に出会えたの」
 「……あんたは、笑ってたものね」
 ようやく彼女は頷くようにそう言ってくれた。受話器越しの低い声は、胸の中にじんわりと寂しさと思い出を呼び起こす。

 ―――幸せそうね。
 待ち合わせをして、彼女は顔をつき合わせた途端、猫のように細い目を更に細めて、つまらなそうに、ほんの少し羨ましげな口調で言った。私は何も言葉を返さないまま、ただ笑った。彼女が幸せそうね、と口にするときの私は真実、幸せだったから。
 まるで未来は光輝き、私にだけ、でも皆にも公平に幸せが訪れることが決まっていると、知っているかのように。私は笑顔だった。
 すぐに絶望に突き落とされて、そのときわかった。私は何も知らなかったことを。恋は現実なんだということを。
 幸せだった過去を思い出すために瞼を閉じて、突きつけられている現実を思い出すために目を開ける。目を開けた途端、私を取り囲む暗闇に侵されていくような感覚を受けた。なにもかもが暗く染められていく。私の足も。膝も。太腿も。腰も、胸も。手も。暗闇がじわりじわりと這いあがってくるような気がした。
 「私は彼にとってそういう女じゃなかったのね。ただの、通過点だったんだわ」
 最初の女にはなれないことがわかっていた。出会ったのは、それなりに年齢を重ねてからだったから。それまでに彼はきっと沢山の女性と付き合ってきただろうし。だけど、最後の女にはなれると、幸せに浸りきっていた私は自信満々に思っていた。そんなことを思える私は今きっと、最高に可愛くて、どんな女性よりも光り輝いていると感じていた。

 今思うと、それはとても恐ろしく、愚かしい女の性だったのかもしれない。

 「何言ってンのっ!」
 怒った声が受話器から聞こえてきて、驚いた私は少し携帯を耳から遠ざけた。
 「……っ、と聞い…ン…のっ?」
 声が遠ざかってしまって、慌てて元に戻す。遠ざけたことを誤魔化すように、当たり前だと答えた。聞いてるに決まってるでしょ、と何食わぬ声で。
 「いーい。あんたにとって、あの男が通過点だっただけよ。やめなさいよね。そういうネガティブ思考は」
 言葉は説教めいたものなのに、その声はやっぱりつまらなそうで。ほんの少し呆れた含みがある口調に、ほそい、ほそい目が思い浮かぶ。笑っていても、怒っていても彼女の目はただ細くなる。私はそんな彼女を脳裏に浮かべたまま、ぎゅっと携帯を握り締めた。
 「それでもっ、私にとっては、彼がすべてだった!」
 胸の奥に溜めて、溜めて、溜め続けた何かを吐き出すみたいに零れ落ちた言葉は、熱く頬を流れていく。言いたかった想いを、聞いて欲しかった言葉を、彼女はただ黙って聞いていてくれた。

 シュー。再び、小さく音が流れ出して、すべての言葉を吐き出した私が、すんっと鼻を鳴らすと、彼女はつまらなそうに言った。

 「あんたは馬鹿ね」

 なんだか笑えてしまった。

 「ちょっと、なに笑ってるのよ。まさか私に言われて自覚しちゃった?」
 ううん、と見えるわけもないのに、まるで彼女が今、目の前に立っているみたいに私は首を振った。
 「改めて言われると、私がしようとしていたことも、馬鹿なことだと気づいたの」
 「何を、しようとしていたの?」
 急に彼女の声が慎重になった。気遣ってくれる声が嬉しい。嬉しいけど、恥ずかしかった。それを誤魔化すように言う。
 「こんな時間に起きているのよ。呪詛をかけてみようかと思ってたわ」
 「……あっ、そう」
 拍子抜けしたのか、ただ短い声だけが返った。本当のことを隠したことは気づかれているのかもしれないし、誤魔化すことができる私の言葉に安心したのかもしれない。それはわからなかったけれど、それ以上追求されなかったことにほっと胸を撫で下ろした。
 「もう切るわよ。私これでもお肌に気をつかってるの。睡眠不足は大敵なんだから」
 今にも電源をオフにしてしまいそうな彼女を遮って、ねぇ、と話しかける。
 「今夜は月がきれいね」
 「月? いきなり月?」
 それから少しだけ間があった。恐らくカーテンを開けて、私が今見ている月を探している。
 「……なによ。ただのぼやけたまあるい月じゃない」
 やがて見つけたのか、つまらなそうな声でそう言って、「もう切るわ」と呆れた口調で告げられた。今度は引き止めずに「おやすみ」と言うと、私が突然電話をかけたように、彼女は挨拶を返すこともしないで電話を切った。
 携帯電話をバックの中に入れて、ふと反対の手に持っていた時計の存在を思い出した。彼といたときはなによりも大切にしていた宝物。
――― だけど。
 私がどんなに願っても、消せはしない。思い出がぼやけてしまおうと、形は変わらずにそこに在り続ける。他の思い出にとけこむこともなく。ひとつの明りとして、心の中に灯り続ける。どんなに小さく押し潰そうとしても。なくなってしまえばいいのにと、望んだとしても。私が恋した形はあのまんまで胸の中に残り続ける。
 まあ、いいか。とようやく私はそう思うことができた。他の人にとって、あれがただのぼやけたまあるい月であったとしても、私にとってはとてもきれいなまあるい月に見えるから。まあ、いいか。と繰り返し、思った。
 誰も知らないような、本当は真剣な恋をしたひとたちは皆が知っているかもしれない、大切な何かを手に入れた気がして、もうそれで満足してしまった。だから、後ろを向いてさっき乗り越えてきた柵に時計をつける。

―――ばいばい。
 時計をつけ終えてから、もう一度だけまあるい月を振り返った。
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