海の果て


 私の実家は海に近い場所にあって、玄関の外に出ただけで、潮の匂いを感じとることができた。

 夏になると、よく泳ぎに出掛けたし、他の季節でも、何かあるたびに砂浜へ行った。だから、海が季節ごとに変化することを知ってる。夏は眩しいくらい、海面に光を受けて、灼熱の砂浜とともに生き生きと煌めく。海と空の間を飛行する鳥は新鮮な餌を狙って翼を羽ばたかせる。冬に近づくにつれて、波の音は鋭さと寂しさを増し、訪れる冬のあらゆる厳しさに耐えるために、生きているすべてのものがひっそりと、身構える。

 兄は、そんな冬の海が好きだと言った。夏に泳ごうとも、砂浜の熱に煽られて、駆け回ろうとも、私の兄は、なにもかもに寂しさが宿る冬の海が好きだと口癖のように言っていた。

 がっしりした体格も、厳つい顔も、他人に慕われる性格も。勉強よりもスポーツが好きなところも、兄を形成するすべてが、とてもそんなロマンチックな言葉を口にするとは思えないのに。

 疑問に思って、私は訊いてみた。
「どうして? 夏よりも冬がいいの?」
 向けた視線の先で、兄は煙草の煙りを吐き出して、ああ、と掠れた声をだした。

「つまらない感傷でしかないが……」
 私は黙って、言葉を待った。波の引く音が小さくなる。
「目に見えない光が詰まってる気がするんだ。夏みたいに、あからさまじゃなくてさ」
 そう言って、目を眇(すがめ)る。見えない光を探すように、視線を遠くへ投げかけて。
 そこに兄の言う光があるんだろうか。
 私もそれを追って目を向ける。寂しさが漂う、海面だけが続いていて、兄の言う光は見つからない。兄が見つけていて、私にはわからないことに疎外感が生まれる。
「……なんにもないよ」
 拗ねるように言うと、はっと愉しそうに笑う声が聞こえた。馬鹿にしたような、けど仕方ねぇなと突き放すわけでもない、空気が伝わる。
「おまえも俺くらいになりゃわかるさ」
 たった二歳しか違わないのに。まるでその差が永遠に縮まることがないように、苦く笑って言う。

 俺くらいになりゃわかるさ。

 そういえば、あの話しはあれっきりだった。ただ一時のくだらない、会話。すぐに忘れて二度と思い出さないと思っていたのに。今、寒々とした空気のなかで、鋭い波音を響かせる海を前に思い出した。
 はぁっ。零す息は白く、あの時。兄が吐き出した煙草の煙りと重なる。じわりと眦が熱く感じた。
 「……同じ歳になったよ」
 決して、追い付かないはずの年齢。たった一日。そして、すぐに追い越すことになる。
 兄は、海で遭難したひとを助け、自分は還らなかった。夏の海に飛び込んだまま。

 ―― もし。冬の海だったなら。兄が好きだといった冬の海ならば、兄は無事に帰ってきただろうか。海に返してもらえただろうか。
 そんな馬鹿馬鹿しい、とりとめのないことを考える。考えて、無駄だと思い知る。胸の痛みが増すだけで。

 目を眇て、私は海を見る。
 揺らめく海面に光が反射しているのを見つけて、悲しみが押し寄せてくるのを感じた。夏のような眩しさはなくて、控えめな光が漂う海。波は静かだけど音には鋭さが隠れ、熱を失った砂浜は湿り気を帯び、飛び交う鳥は高らかな声で鳴く。

 兄と同じ年齢で同じ位置に立って、兄が好きだと言った冬の海を見ながら、私に理解できたのは、もう二度と兄は戻らないということだけだった。

 二度と隣に立つことがない兄の存在を思い知るだけだった。

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