オレンジの花
そのひとは、花束を持っていた。
小さくて白い花をいくつもつけたかすみ草に囲まれた、花を。
あの花が何だったのか、私は今も思い出すことができない。
三本だけ、持ってきたお線香に火をつけて揺らし、中央に差し込んだ。
昔からこのつんとくる匂いが好きじゃなくて、我慢できずに眉を顰めてしまうのはすでに癖と化していた。今は嫌だとも思わないくらいに、慣れてしまっていたから。
両手を合わせて、目を瞑る。
『どうして、皆手を合わせて目を瞑るの?』
小さい頃の自分の声が脳裏に甦る。
確かあれは、お祖父さんのお墓参りに初めて連れてこられたときだった。まだ小さい私にとって、疑問を口にするのは日常だった。答えることに辟易していた家族と違って、いつも丁寧に教えてくれるのは、お祖母さんだった。
『皆、心の中で語りかけているからだよ』
『どうして声に出さないの?』
『目を瞑って気持ちを鎮めて語り掛けないと、お祖父さんまで届いてくれないからね』
ふぅん、と声に出したけれど、本当は全く意味がわからなかった。だけど、皆がそうやって、天国にいるというお祖父さんに話し掛けているんだってことくらいは理解できた。だから私も、目を瞑って手を合わせて語りかけた。
(おじいちゃん、きこえてる? あたしが見えてる?)
一生懸命語りかけてみたけれど、返事はなくて。なんだか悲しくなってきた私は、『おばあちゃんのウソつきっ、おじいちゃんからへんじはないよっ!』と言って困らせた。
『返事がなくても、ちゃんと声は届いているよ。天国にいってしまったひとはね。一回しか返事ができないんだ。だからおまえが一番大切なときに ―― どうしても。どうしても、応えが欲しいだろうときまで、見守るだけで我慢しているんだよ』
慰めるように告げられたお祖母さんの言葉は、小さかった私を納得させるには十分だった。成長した今なら、あのとき周囲にいた大人たちのように、苦笑するだけですんだのに。
あれから、十五年。
お墓参りに訪れると、いつも時間の流れを思い知らされる。
「 ――― 来ていたんだね」
かさり、と音がしたと思ったら、背中にそう声がかかった。
少し、低めの声。五年間、聞いていなかった声。それだけで、振り返らなくても誰かはわかるなんて、情けない。顔が歪むのは、情けないせいか。それとも、溢れてきそうになる感情のせいかわからなくて、どちらにしてもそんな顔を見せることができず、振り向けなかった。こくり、とただ頷く。
「一昨年も、去年も、来なかったのに」
優しく落とされた声に少しだけ責めるような口調が混ざっていることに気づいて、胸がどきりと鳴った。だって、とも。でも、とも。言い訳は、余計に惨めになるような気がして、言えなかった。すべての感情を飲み込んで、ただ静かに言う。
「……三年しか経っていなかったんですよ」
「僕は三年も待った。その前に、二年」
五年 ―― その年月は長いんだろうか。心の傷を癒すには短すぎるんだろうか。思い出にするには。わからなくて、胸がぎゅっと痛んだ。
黙ったままでいると、じゃりっと踏みしめる音がして、彼がすぐ傍を通り過ぎた。ほのかな、優しい香りに懐かしさがこみあげてくる。眦が熱くなるのを感じて、手の平を強く握り締めた。
お墓のすぐ前に進み出た彼の後ろ姿をじっと、見つめる。さらりと風に揺れる黒い髪。黒い背広から、スッとまっすぐな身体のラインがわかる。あの頃より、威厳のようなものが滲みでているかもしれない。懐かしい背中。抱きつきたくなる気持ちを必死に堪える。意識を逸らすために、彼が供えている花に視線を向けた。
――― オレンジ色の花。百合に似ているけれど、あの華やかさはなく、ほんの少し俯いている花は切なく見える。
「その花は、」
花の種類を訊こうとして、彼が気づいたように言う。
「これは、彼女が好きだったんだ。ひとの心に一瞬で入り込んでくる鮮やかな花」
それはまるで、姿形を変えて冷たい石の中に置かれてしまった、彼女のように。私の憧れ。永遠にそうなってしまった。彼女の好きな花を知っている彼に、胸が痛む。五年という月日は、何かを変えてしまうには十分な時間だと思ったのに。少なくとも――抑えても溢れ出そうとする気持ちを思う通りにできるくらいには。
痛みに切なさを感じていると、彼はだけど、と続けた。
「彼女はただの友達だったんだよ。僕の心に一瞬で入り込んだのは……」
「っ、やめて!」
「やめない。僕が恋に落ちたのは君だ」
断固とした声。耳を塞いでも入り込んでくる言葉は、胸を切り裂く。歓喜に溢れそうになる心を戒めるものとして。
「……君と彼女と知り合って二年。関係を壊したくなくて、臆病な僕は君に告白できなかった」
――違う。
ほんとうは、臆病なのは彼じゃなくて、私だった。
三人の関係を壊したくなかったのも、私。彼女じゃなくて、自分が選ばれるはずがないと思い込んでいたから。そんな私を彼は思いやってくれていただけ。その思いやりに、優しい眼差しに、いつしか彼の想いを信じられるようになっていた。その矢先――。
一度だけ、互いに想いを抑えきれなくなって、キスをした。まさか、彼女に見られるなんて思いもしなくて。
今もまるで昨日のことのように、脳裏に焼きついている。
くしゃくしゃに歪んだ顔。睨みつけてくる眼差し。嘘つきっ、大嫌いっ、と投げつけられた言葉。苦しみと、痛みと――深い悲しみの中で、彼女は飛び出し、そうして。
眩いライトのなかの、暗い影。耳を劈くようなブレーキ音。
三年経って、なお。
いまも、まだ。
「彼女が事故に遭って、君は混乱状態に陥った。僕も平静じゃいられなかったし、だから待とうと思った。まさか、君が姿を消してしまうなんて思いもせずに」
彼の口調には責めるような含みは込められていないのに、胸が軋んで、その痛みを堪えるために手のひらを握り締める。汗ばんだ手に緊張していることを思い知らされる。
「探したよ。三年、けど君は見事なほどに連絡を断ったね」
「……心の整理をつけたかったの」
あのとき、私はどうすればいいのかわからなかった。
覚えているのは、彼女をこの冷たい墓石に入れる瞬間の、息苦しさと、深い悲しみ。胸が張り裂けそうになるほどの罪悪感。そうして、彼が用意した白くて小さなかすみ草に囲まれながら鮮やかな色に咲き誇る、この花。
風に揺れる花を見ながら、ただ。今はだめだと感じた。
このまま――なにもなかったように。
これまでのように、彼の傍にはいられない、と。
独りよがりでも、自分勝手でも、どう思われようと、彼女のあの、叫び声と眼差しが聞こえている間は。
三年、短かったような気がする。だけど、彼を忘れようと必死になった時間を思えば、長かった。
――私には、長かった。とても。
「心の整理、か……」
そこから先を尋ねることを怖がるかのように、弱々しい口調で彼は私の言葉を繰り返した。
そっと、肩に彼の手のひらが乗る。
どきりと、胸が高鳴った。触れられた場所がすぐに熱くなるのは、この三年間、彼だけだった。冷え切っていた心が温かくなるのも、彼と一緒にいるときだけ。
「……君は、できたの?」
躊躇いがちに問いかけられた言葉に、私は頷く。
供えられたオレンジ色の花を見つめながら。
「ほんとうは、彼女に言うはずでした。私は彼を愛している。あなたの気持ちに負けないほどにって」
肩に置かれた彼の手に力がこもるのを感じた。
その手に、自らの手をそっと重ねる。伝わりあう熱がお互いの気持ちを表しているみたいで。
目を瞑る。心を込めて、語りかける。
(私は彼と一緒に歩いていきたい――。)
彼への気持ちを黙っていたこと。
泣き叫ぶ彼女を追いかけられなかったこと。傷ついた心をどうすることもできなかったこと。
謝りたかった、たくさんのこと。
(――許してね。)
そう話しかけた途端、風がふわりと通り過ぎた。
小さな白い花が舞い上がり、俯いていたオレンジ色の花がまっすぐと咲き誇った。花弁を私に向けて。
『しょうがないわ――。』
囁くような声。
ほんの一瞬のそれに、私は目を瞬かせる。
「っ!」
「花が――!」
驚いたような彼の声に、顔を見合わせる。
自分に都合のいい考えかもしれない。ただの偶然かもしれない。だけど。
お祖母ちゃんの声が脳裏に蘇る。
『天国にいってしまったひとはね。一回しか返事ができないんだ。だからおまえが一番大切なときに ―― どうしても。どうしても、応えが欲しいだろうときまで、見守るだけで我慢しているんだよ』
許す言葉を告げるまで、彼女も三年待っていてくれたのかもしれない。ずっと、見守っていてくれたのかも。
彼がふっと笑う。優しいその笑顔に、私も涙が溢れてくる。
「――あなたを愛しています」
五年、待たせてしまったけれど。
その間も、きっとこれからも変わらずに。
ずっと――。
告げた視線の先で、オレンジ色の花が鮮やかに咲き誇り、風に吹かれて、まるで頷いているかのようにそっと揺れていた。
Copyright (c) 2008 All rights reserved.