雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。

モクジ | ススム

  雨の日(1)  

 目が覚めて部屋の中を満たしている暗い気配に気付いてため息を零した。暗いのはきっと、カーテンを締め切っているからだけじゃない。枕に顔を埋めて耳を澄ませてみる。やっぱり、外からは雨の落ちる音が聞こえてきた。
 「最悪……。行きたくないな、学校」
 呟いた声は枕を通すとくぐもってしまって、部屋の中に寂しく響いた。
 「佳澄(かすみ)。学校は行かなくてもいいけど、朝ご飯だけは食べよう。じゃないと、お兄ちゃんは飢え死にしてしまいますよ?」
 私だけの部屋のはずなのに、澄んだキレイな声が拗ねるような口調で返ってきて、慌てて上半身を起こすと、扉がすっかり開かれていて、それに寄りかかるように、声と同じ、キレイな男が佇んでいた。
 「睦兄(むつにい)っ、不法侵入っ!」
 「部屋には入ってないって。ほら、境界線はここだから」
 確かに外開きの扉を開けただけで、部屋の中には一ミリとも足を踏み入れていない。いないけど、そういう問題じゃない気がする。呆れてしまったけれど、肩を竦めて得意げに微笑む姿に、文句を言う気力も出てこなかった。諦めるしかない。睦兄に口で勝てた試しなんて、一度もないのだから。
 「わかった。起きてご飯作るから、とりあえずリビングで待っててよ」
 項垂れてそう口にすると、「はーい」とまるで幼い子どものように素直な返事をしてからぱたりと扉を閉めて出て行った。睦兄の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私はベッドから身体を起こして窓辺に向かうと薄いピンク色のカーテンを開けた。外は灰色の雲に覆われていて、雨粒が窓をしきりに叩いている。それを見て、さっきよりも気持ちは暗くなり、重いため息が零れ落ちた。

 ――― 雨の日はキライ。

 はっきりとした思い出ひとつない父親が事故で亡くなった日も。母親が再婚して義父になった優しいひとが病気で亡くなった日も、まるで止むことを知らないかのように雨は降り続いていた。そういえば、母親が亡くなった日もやっぱり外は雨に覆われていた気がする。そんなことばかり思い出すから、雨の日はキライになった。そうだ。睦兄がいつも以上に過保護になるときも、雨が降っている。
 そうして、私の世界も霧雨が降っているかのように冷たいベールに覆われている。少しだけ、優しくてとても悲しい、そんな感じだと思う。いつか、この雨があがって、すっきりとした青空が広がるときのように私の心も晴れ渡る、そんなときが訪れる日がくるのかは、まだ今のところ想像もつかない。

 「いただきます」

 両手を合わせて、テーブルに用意した簡単な両面焼きの目玉焼きやかりかりベーコン、商店街で買い込んだ採れたて野菜を使ったサラダとクロワッサンを食べることにした。飲み物に青汁を添えるのは睦兄の好みだった。小さい頃は苦手だったけど、今は少しだけ慣れた。それでもつい、自分の分はバナナと黄な粉と蜂蜜も混ぜてミキサーにかけてしまってることは、台所に入らない睦兄には内緒にしている。
 「……学校、やっぱり休んじゃいます?」
 心配そうに覗き込んでくる睦兄をじっと見つめ返す。
 切れ長の黒い目。スッキリと通る鼻筋、いつも何もしていなくても紅い唇にキレイな肌。キレイなひとと言ったら、男女問わず兄の名前を口にできそうなほど、睦兄の顔は嫌味なくらいキレイに整っている。いつも会社では無表情とか怜悧な顔つきとか言われているらしいと兄の親友とかいうひとから聞いたけど、私が知っている兄は、とても優しい。優しいけど、少し過保護すぎて鬱陶しいときもある。鬱陶しいけど、大好きだから文句一つ言えなくなる。だけど、怒らせたら一週間は嫌味と皮肉とあてこすりを言葉の端々にのせてくる。揚げ足を取ることが大好きな困った一面も持っていた。それでも、私にはやっぱり優しいから、そんな一面だって困ったひとだと受け入れてしまう。
 「かーすみー?」
 返事をせずにただ見つめていると、困ったように呼びかけられた。黒い目は優しい光を浮かべているけど、何を考えているかまではわからなかった。ただ、雨だからという他人にとっては憂鬱にはなっても学校を休む理由にはならないことで休んでも、学校に行ったとしても、しょうがないなーと睦兄は苦笑するだけ。それがわかってるから、私は見つめていた視線を外してクロワッサンをちぎりながら答えた。
 「行くよ、ちゃんとお弁当も作ったし」
 「そっか。じゃあ、しょうがないなー。気をつけてね」
 案の定、苦笑を零してそう言った。
 「何かあったらすぐに携帯にかけるんだよ。遠慮なんてしたら、郁斗(いくと)を締め上げるから」
 にっこり笑って続けざまに言われた言葉にいつものことだけど呆れてしまう。どうして私が遠慮したら、郁斗先生が締められることになるのか不思議でたまらない。最初に言われたときにそれを訊いたら、「佳澄の担任だろう。責任もつのは当然だよ」と当たり前といわんばかりの態度に私は苦い笑みを返すことしかできなかった。
 朝食を終えて後片付けをしてから、部屋から鞄を取ってきて靴を履いた。見送るために立っていたスーツ姿の睦兄がハイ、と傘を渡してくれる。それを受け取って、睦兄の顔を見るとキレイな顔に気遣う表情を浮かべていた。不安げに揺れる瞳に、にっこりと笑顔を見せる。
 「行ってきます」
 「……はい、行ってらっしゃい」
 睦兄、と不満げな声を出すと、今度は自嘲気味に笑われた。
 「わかってるよ。はいはい。行ってらっしゃい、気をつけてね。僕も今日は遅いから」
 勿論、今日中には帰るけど、とふたりの間にある約束の言葉は出さない。私はわかってる、と頷いて、それでも心配性な睦兄に念を押してあげた。
 「自宅に帰りついたら、ちゃんとメールを入れるよ。今日はまっすぐ帰ってくるから」
 そう言葉にすると、ようやく納得したのかほっと胸を撫で下ろした安心した顔で頷かれた。その顔を見て今度こそ、玄関を開けて出て行く。
 雨の日はいつもこう。まるで永遠の別れでもあるかのように会話をして、お互いに後ろ髪引かれる思いで家を出る。

 外に出ると独特の雨の匂いと、視界を覆う雨粒が気持ちを余計に重くさせた。

 私と睦兄にはふたりで取り決めた約束がある。
 自宅に帰りついたら、必ずメールか電話をいれること。十八時を過ぎる寄り道もきちんとどこに、誰と行くのか連絡を入れること。門限は十九時。夜はふらふら出掛けない。そうして睦兄は、どんなに仕事が忙しくても、朝は私を見送ってから会社に行く。夜は0時を過ぎることなくその日のうちに帰宅すること。ふたりっきりで暮らすようになってから、一日だって欠かさずに守られている。それがふたりにとっては、日常と化していた。
 学校に着いて鞄から教科書を取り出し、ふと今朝のことが思い浮かんだ。そういえば思わず学校に行きたくないと呟いてしまって、余計な心配を増やしてしまったかもしれない。そう思って、スカートのポケットに入れていた携帯電話を取り出して、素早くメールを打った。
 『学校に着きました。大丈夫だから、お仕事頑張ってね』
 なんだか、妹というよりも夫に送る妻からの励ましの言葉みたいで、一瞬送信するのを迷ったけれど、他の言葉も思い浮かばずにまあ、いいか、とそのままの文面で送った。今は会社に向かって車を走らせている頃だろうから、返信は期待せずにスカートの中に片付けて、机に頬杖をついた。窓側の真ん中の席は、横を向くと丁度外の景色が広がって見える。天気のいい日は青空と陽だまりで居心地がいいけれど、この雨の日に限っては、誰かと席を代わってしまいたいくらいだった。教室の騒々しさも鬱陶しくて、頭が痛くなってくる。
 「おはよう、佳澄」
 前の席の椅子が引かれると同時に声をかけられて視線を向けると、高校に入って出来た友達の結城上総(ゆうきかずさ)がいつも二本に結んでいる長い黒髪を一つに纏めた姿で立っていた。
 「おはよう。上総、髪ひとつに纏めてるなんて珍しいね」
 「ああ、これ? うっかり寝坊しちゃって。学校に来る途中に傘をさしながら纏めちゃったから一つにしかできなかったのよ」
 雨の日に寝坊なんてするもんじゃないね、と肩を竦めて椅子に座った。いつもとは違う雰囲気の上総に私は笑って、じゃあ、と言う。
 「じゃあ、後でふたつに結ばせて」
 「私の髪は佳澄の遊び道具じゃなくってよ」
 「減るもんじゃないでしょ」
 そうからかうと、しょうがないとばかりに苦笑して頷いてくれた。会話が終わった瞬間、タイミングを見計らったようにがらりっ、と大きな音を立てて教室のドアが開かれた。
 「おはよーさん。おまえら、朝のミーティングはじめっぞー。席に着けよー」
 軽い調子で言いながら入ってきたのは、このAクラス担任の神木郁斗(かみきいくと)先生。先生なのに色素の薄い姿をしている。光の下では金色にも見えるライトブラウンの髪と、青みがかった瞳、日本人離れした容姿はモデルでも通じる。実際にこの地域の学校では隠れてファン倶楽部まで存在しているという噂もあるし、きっと事実だと思う。本人もお調子者で人当たりもよく、郁ちゃん先生と親しまれていた。本来ならまだ二十六歳の若い先生が人気があると他の年齢を重ねた教育に厳格な先生たちにはつらく当たられるところだったが、郁斗先生は外面もよくて、逆に生徒に親しまれる方法だの、面白い授業の仕方などアドバイスを求められるみたいで、可愛がられているようだった。まだ先生になって一年足らずなのに、その要領のよさには睦兄共々、呆れてしまう。しかも、先生になった理由がとても不純なのに ―― 。
 「英語担当っと、春日(かすが)ぁー。プリント作成あるから、昼には来ておくれね」
 いきなり名前を呼ばれて我に返った。青みがかった目が向けられていることに気づいて、慌てて頷くと、すぐに視線はそらされて、別の話題に移っていった。連絡事項を伝え終えると、幾人かの女子に囲まれながら先生は教室を出て行った。
 「今日、雨止むかな……?」
 椅子を後ろに傾けながらぽつりと、上総が呟いた。私はやっぱり頬杖をついたまま、どうだろうね、と曖昧な返事をする。
 天気予報では、今日は夜までずっと降り続く。六月は、だから苦手。水が足りない地域には申し訳ないと思うけど、それでも、梅雨なんてなくなればいいのにと思ってしまう。せめて、雨の音がなくなれば、降っていても憂鬱になることなんてないんだろうか、と縋るように思ってしまった。ありえないとわかっていても、そんなことを思ってしまうくらいには、気分が追い詰められていた。

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