雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。

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  雨の日(2)  

 お待ちしてましたよん、と扉を開けると同時に軽い口調の声がかけられる。窓際に椅子を置いて座っていた郁斗先生が青みがかった目を細めて振り向いていた。口調は軽いけれど、教室で見せるお調子者の姿はすっかり形を潜めてしまっていて、ゆったりと落ち着いた雰囲気を纏っている。左手に持っている煙草のせいかもしれないけれど、いつもサービスの如く振り撒いている姿こそが偽りだと知っているから、驚くこともなく、わざとらしくため息をついてみせた。
 「郁斗先生、英語資料室は禁煙ですよ」
 「いいの、いいの。昼はオレしか使えないように根回しは完璧さ。ああ、そうは言っても鍵は閉めてね。うるさいのは苦手だから」
 ガタガタッ、と手近にあった机を動かして、椅子を向かい合わせに作る。その間に私も手慣れたように鍵を閉めて、手招きをする先生のもとに歩み寄った。机の上に持ってきた少し大きめの手提げ袋を置く。チャックがついた布製で、表面にはアジサイの刺繍がしてある。裏の隅には、K&Mと赤いフェルトで縫い付けていた。小学校五年生のときに睦兄に教わりながら作った手提げ袋。もう何年も使っているから汚れてはきているけれど、大切に使っている。チャックを開けて、ふたり分の弁当箱を取り出し、一つを先生の前にハイ、と置いた。持っていた煙草を躊躇いなく灰皿に押し付けて、嬉しそうに笑う。
 「まいどありーっ」
 そう言いながら包んでいるハンカチを解いていく姿に呆れてしまう。その空気に気づいたのか、どうかした、と手を動かしながら視線で促された。
 「先生なら、お弁当を作ってくれる学生とか先生とか女の人たくさんいるのに」
 言い終わる前に、カチャンと冷たい音が部屋の中に響いた。箸入れから出したばかりのそれを先生が机に乱暴に置いたことに気づいて、ぴしりと空気が固まる。
 「あー……」
 失言だったと気づくには遅すぎた。
 言葉にしてしまったものは元には戻らない。覆水盆に返らず。そんな諺が頭の中を巡っていると、つと先生の視線が私の右手にある箸に向かっていることに気づいて、渋々広げたばかりのお弁当の上に置いた。
 「そもそも、オレがこの学校にいる理由は?」
 椅子にふんぞり返って問いかけられる。愛想を振り撒く猫かぶりの姿は微塵も見せずに、まったくもって偉そうに。それでも、ひたりと見据えられる目に、的を外して答えることにした。
 「……先生だから」
 「佳澄ちゃん? 誤魔化したらどうなるかわかってるよね?」
 脅すように更に目に剣呑な光を浮かべられる。視線を逸らせないように、顎に手をかけられて、上向かされた。ぐっと押し黙って、あくまで目線を向けないまま口を開く。
 「睦兄に会社の責任を押し付けて、逃げ出してきたんでしょ」
 的確に答えずに棘を込めた言葉を突きつけると、ため息を零された。同時に力を失ったように、顎にかけられていた手をはずされる。ほっと息をついて、ようやく先生に視線を向けると、少し悲しげな顔をしていて、ずきりと胸が痛んだ。
 「……佳澄ちゃんが結婚してくれたら今すぐでも戻るよ」
 ごめんなさい、と謝る前に懲りずにそんなことを言うから、謝罪の言葉はため息に変わってしまう。本当に、この男(ひと)はどこまでが本気かわからない。
 郁斗先生は、睦兄が大学サークルで知り合って、過程の詳細はわからないけれど、睦兄曰く、悪友。郁斗先生曰く、親友になったらしい。そうして、二人が暇潰しに作成したコンピュータープログラムの開発が爆発的に売れることになって、開発会社を設立した。その業績は業界内で今もトップを保っているが、その途中で郁斗先生は会社を全部睦兄に任せて、私が高校に入るとき同じ高校の先生に就任してきた。その理由が、私にアプローチをかけるためと、思春期に入って悪い虫がつかないように見張るためらしいといったまったくもって、教育者にあるまじき理由だった。そんなことで先生になってしまえる郁斗先生がどれだけ頭がよいかは想像もつかないけど、行動自体はどれだけ馬鹿馬鹿しいことか。そう言うと、先生は苦笑して「会社やりながら、株に手を出してどっさり儲けてる睦月には敵わないけどなー」と肩を竦められた。
 「いつも言ってるデショ。オレは佳澄ちゃんにべた惚れなの。心も身体も魂も捧げちゃいたいくらいよ。あ、心はすでに捧げてるから、あとは」
 「いりません。第一、郁斗先生は私のタイプじゃないもの」
 にべもなく言い切って、再び箸を持ってお弁当を食べることにした。郁斗先生の戯言に付き合っていたら、食べ損ねてしまう。
 「えー。じゃあ、佳澄ちゃんはどんなんがタイプなワケ?」
 不満そうに頬を膨らませて、同じように箸を持ち直した郁斗先生にそう訊かれた。タイプ? 私は首を傾けて考える。頭に浮かんだひとの面影を慌てて打ち消して我に返ると、青い目にじっと見つめられていることに気づいた。正面から真剣な郁斗先生の目を見ると、更に青の深みが増して、すっかり青い目になってしまう。心の奥を見透かされてしまいそうで、怖くなって、誤魔化すために口を開く。
 「少なくとも、八方美人で、何人も彼女がいて、女なんて性処理の道具だよ。恋愛なんて面倒だね。去るもの追わず、来る者が後腐れなさそうだったら拒まずがオレの主義さーなんて言わない人ですよ」
 「……そっ、それ、だ、誰にっ……て睦月(むつき)かっ。あいつしかいないっ!」
 珍しく本気で動揺している姿に、まったくと呆れながら、今日の鮭は少し焼きすぎたかもしれないと咀嚼して反省する。違う、それは誤解だ、佳澄ちゃんに会う前の話でっ、今は皆縁を切ってる、とうるさく口にする郁斗先生にため息をつく。
 「もういいですから、早く食べて。資料を作るんでしょ。私、今日は早く帰りたいから放課後は残りませんよ」
 冷たい口調で言い切ると、はいはい、と苦笑しながら郁斗先生はようやくお弁当に箸を伸ばした。ソースで味付けをしたウィンナーを口の中に放り込んでもぐもぐと動かしながら、その視線を窓の外に向けた。
 「あー、そうか。今日は雨か。送っていくよ」
 「郁斗先生は学校のお仕事があるでしょ」
 「佳澄ちゃんより大事なものなんてないよ。それに、オレが送っていったほうが睦月は安心するんじゃないの」
 睦兄が安心する、その言葉は私にとっては切り札になる。譲れないところでそれを出してくる郁斗先生が卑怯なのか、優しいのか、私にはわからない。だけど、そう言われて私はようやく素直に甘えることができる。俯いたまま、「お願いします」と言うと、くしゃりと優しく髪を撫でられた。



 おにいちゃん。どうして、そんなに。
 そんなに、こわいおかおを しているの?

 かみのけも。きれいな、おかおもぜんぶ。あめがぬらしていくよ。おかさをわすれたの?
 こわいかおをしているのに。
 どうして、どうして、そんなに ないているの?

 佳澄、と自分の名前を呼ぶ声に、はっ、と顔をあげると上総が心配するように覗き込んできていた。
 「大丈夫? 具合悪い?」
 「うん、ヘイキ。ちょっと寝てただけ」
 安心させるために笑顔を浮かべると、深い溜息が返ってくる。だけど、それ以上は何も訊かずに、上総は教室内にある時計に視線を向けた。つられて見ると、時間はすでに下校時刻を示している。
 「あれ。ホームルームいつの間に終わってたの?」
 五時間目の授業が終わったときまでは覚えてる。それから郁斗先生が来るまでと思って机にうつ伏せになっていたら、いつのまにか眠っていたらしい。すっかり帰り支度を終えた上総は、呆れたといった顔をする。
 「郁ちゃん先生はね、気づかないフリしてたよ。それって寝かせておけってことでしょ。相変わらず佳澄には優しいね」
 何かしらの含みをこめた口調で言う上総の言葉にぎくりと身体が強張る。郁斗先生の演技を見破れるなんて、上総の鋭さに感心してしまう。ぽんぽんっ、と一冊のノートで頭を叩かれて視線を向けると、笑顔を向けられていた。
 「はい。お母さんから預かってきたレシピノート」
 すっかり渡すのを忘れてたわ、と言われて、今日初めて私の気持ちが浮上した。ノートを受け取ってパラパラと捲ると昔ながらのおかずの作り方がぎっしり書かれてあった。
 「嬉しいっ。ありがとう!」
 笑顔で御礼を言うと、再び上総が呟くように言った。
 「……教室に他の人がいなくてよかった」
 「え、どうして?」
 「佳澄の満面の笑顔を見たら、うちの男子どもは惚れちゃうからよ。そんなことになったら、郁ちゃん先生に苛められちゃうもの」
 肩を竦めて言われた言葉に居た堪れなくなる。私の笑顔ひとつでそんなことになるわけないと非難を込めて見つめてみても、上総はただ苦笑だけ零して、話をノートに戻した。
 「それ、お母さんがあげるって。佳澄のために書いたもんだからって」
 「本当? 嬉しいなー。今夜、お礼の電話入れるから、おばさんに言っておいてね」
 了解、と上総は帰り支度の終えた鞄を持って立ち上がった。後ろに向けてた椅子を机に戻して、「じゃあ、部活行ってくる」と手を振る。テニス部だけど雨が降っている今日は、視聴覚室を借りてミーティングがあるらしい。うん、と同じように手を振って見送った。
 上総がいなくなると教室は私だけになって、余計に雨の音が強くなった気がして今日何度目かの溜息が零れ落ちた。急いで帰り支度をしていると、携帯が震えたことに気づいた。取り出してメールをチェックすると、郁斗先生から『いつものとこ。すぐきて』と入っていた。仕事はどうしたんだろう、と疑問には思ったけど、要領のいい彼は私を送っていくと決めた瞬間に手早く終わらせてしまったに決まってる。少しだけ呆れながら、私も鞄を閉めると立ち上がった。
 「あれー。春日さん。まだ、残ってたんだ?」
 がらりっと扉が勢いよく開いて姿を見せたのは、同じクラスで同じ図書委員の村田君だった。短い黒髪に小さな顔。黒い丸眼鏡をかけているからはっきりとした顔立ちはわからないけど、きっと眼鏡をとったら、整っていると思う。睦兄のキレイな顔や、郁斗先生の色気のあるかっこよさとは違って、村田君は同じ年代の爽やかな雰囲気があった。清潔感のあるかっこよさ。
 「春日さん?」
 「あ、うん。今から帰るところ。村田君は?」
 慌てて返事をすると、彼は手に抱えていた何冊かの本を示して言った。
 「図書室で本を借りてきたんだ。鞄を置いていったからさ。取りに戻ってきた」
 そうして、自分の机に戻ってうえに乗せていた鞄に本を詰め込んでいった。
 「そういえば、明日。図書委員の集まりがあるから、忘れるなよ」
 思い出したように言われた言葉に、予定を引っ張り出して、明日が金曜日だと気づいた。一ヶ月に一回の定例図書委員会。私が頷いたのを見て、彼は笑った。それから鞄を持って、じっと見つめてくる。
 「どうしたの?」
 「帰るんだろう? 一緒に行こうと思ってるんだけど?」
 当然のように言われて、思わず焦ってしまった。
 (まずい。郁斗先生と約束してるのに……。)
 声が上擦らないように気をつけて、必死に巡らせた言葉を口にする。
 「下駄箱までね。今日は、お兄ちゃんが迎えに来てくれるから」
 私が言うと、一瞬驚いた顔をした村田君は、すぐに「下駄箱までね」と笑ってくれた。その言葉にほっと胸を撫で下ろして、ふたりで教室を出ることにした。
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