雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。
暴風雨(5)
パーティー当日。
サリナさんから作ってもらったドレスに着替えて、コートを腕にかけてから、玄関先で待っている睦兄のところへ向かった。
「準備でき ―― 」
振り返った睦兄の言葉が途切れる。
無言のまま、上から下までじっくりと見下ろされる視線に気恥ずかしさを覚えて、戸惑いながら訊いた。
「やっぱり、似合わない?」
「 ―― 似合ってる」
強い口調で応えられて、知らず緊張して強張っていたのか頬が緩んでいくのを感じた。少なくとも、注がれる熱い視線は嘘を言っているようには思えない。だけど見つめ合っていることにも恥ずかしくなって、照れ隠しに言った。
「馬子にも衣装?」
ハッと、睦兄は我に返ったように口元を手で覆って、行こうかと促がしてきた。頷いて靴を履いているときに、ぽんっと頭に手の平が乗る。
「イメージ通りでびっくりしたよ」
今にも消え入りそうな声で、耳に届いた言葉は蕩けるような甘さが含まれていた。驚いて顔をあげると、すでに睦兄は背中を見せて玄関を出て行こうとしていて、その後ろ姿から見える耳が薄っすらと赤く染まっているのを見つけ、嬉しくなった。
車が置いてある地下駐車場に向かうために、エレベーターに乗る。
ダークスーツをいつもより丁寧に着こなしている睦兄の姿は、スーツ姿を見慣れているにも関わらず、溜息をつかずにはいられないくらい素敵で、会社に行くときはほんのりとしか身につけないコロンも、今ははっきりと感じられて、胸がどきどきと早鐘を打っていた。隣に並ぶ睦兄が、男性 ―― 好きな人なんだと意識せずにはいられなくなる。しかも、二人っきりで狭いエレベーターに乗るとそれが余計に身近に感じられて、誤魔化すように話題を探す。
「……いっ、郁斗先生はっ?」
「ああ、先に行ってるって。あいつ、少し……様子が変だよな?」
何かあったのか、と問いかけてくる瞳は、心の奥まで探るかのような鋭い光を宿しているように見えて、さっきのやり取りで感じていた幸せはあっという間に萎んでしまう。
なんにもないよ、そう言おうとして言葉は喉に引っ掛かる。ぐっと飲み込んで俯くと、睦兄の手が見えた。握り込まれている手に力が入っているように見えるのは、気のせい?
期待がほんの少しわきあがる。背中を押されたような気分になって、エレベーターの扉が開き降りるのを機会に、そっと睦兄の手を取った。一瞬びくりと、大きな手が震える。だけど、離されることはなくて、ほっと胸を撫で下ろした。思い切って口を開く。
「……私ね」
「どうした?」
「パーティーが終わったら、睦兄に話したいことがあるの」
繋いでいる睦兄の手が僅かに強張ったように感じた。それに不安を覚えて恐る恐る顔を上げる。睦兄の目は怖いくらい真剣な光を宿していて、じっと前を見つめていた。
「睦兄?」
「……今じゃなくてパーティーが終わった後で?」
低い声で問いかけられる。
パーティーに行くまでに終わることができるような話じゃない。それに今、告白しても振られたら、そのすぐ後で睦兄の隣で笑うことができるほど、強くない。だから、頷いた。
「パーティーの後で、ちゃんと聞いてほしいの」
まっすぐ、睦兄の横顔を見上げて言う。暫く考え込むように前を向いたままだった睦兄は、車の側に着くと繋いでいた手を離してその手をぽんっと私の頭に置いた。
「 ―― わかったよ」
ほんの少し、躊躇うように。だけどその口調には、なぜか覚悟したような響きがあって、首を傾げる。見下ろしてくる目は、さっきまでの真剣な光は消えて優しげに微笑んでいたけれど、ちらりと寂しげな影が走ったような気がした。
「睦兄……」
「ほら乗って。そろそろ行かないと間に合わなくなるだろう」
疑問に思って呼び止めようとして、それより先に睦兄に促がされる。あまりにも一瞬だったから、気のせいかと思って、遅刻するわけにもいかずに助手席に乗り込んだ。
◆
パーティ会場は流石に家族も参加できるとあって大きなホールが貸し切られていた。そこに所狭しと老若男女問わず、人が埋め尽くされている。そのうえ、外では雨が降っていることもあって、空気は湿り、むせ返るような独特の匂いが室内に充満していた。
「……もって、1時間」
扉を開けて、その光景に見入ってから吐き出した言葉に、睦兄が苦笑する。了解、と返事をしてくれて、とりあえず会場の中に足を踏み出した。けれど、二、三歩も歩かないうちに、たちまち視線を注がれる。そこに興味と好奇心、或いは好意めいたものを感じ取って、そのすべてが睦兄に向けられたものだと気づいた。ちらりと本人を見ても、まるで睦兄の周囲には透明な壁があってそういった視線は全部跳ね返ってでもいるかのように興味なさそうに前を向いている。手を伸ばして睦兄の袖口をそっと、掴む。気づいたように見下ろしてきた。
「何か食べるか?」
「うん。こんな豪勢な食事は久しぶりだもんね。せっかくだから、いっぱい食べちゃおう」
できる限り、睦兄への視線を気にしないよう明るく振舞って言うと、睦兄は少し考え込むように黙り込んで、周囲を見回すとぼそりと言った。
「……僕は佳澄の作るものが好きだけどね」
耳朶を打つ声は優しくて、胸を温かくする。それが家族としてのお世辞の言葉だったとしても、思わず頬が緩みそうになるのを慌てて引き締めた。
二人で豪華絢爛の料理が並んでいるテーブルに向かって歩き出す。ビッフェ式になっているらしく、皿を取ろうと手を伸ばしかけて、ハイ、と目の前にキレイに料理が盛られた皿が差し出された。その手を辿って顔を見る。案の定、郁斗先生がにっこりと笑顔で佇んでいた。
「郁斗先生 ――― 」
普段とは明らかに違う。クリーム色の淡いスーツに合わせたズボン。教員であるときには履いたところを見たことがない、高級な革靴。すらりと背の高い郁斗先生をより華やかにする着こなしは、いつも見慣れている姿でも目が離せなくなる。睦兄とは対照的な姿に、思わず見惚れてしまう。
私が何かを言うより先に、郁斗先生は熱い眼差しを向けてきた。
「いつも可愛いけど、今日はとても大人っぽいね。似合ってるよ」
世界中のどの女性よりも素敵だ、と普段と同じ軽口のはずなのに、今日はこれ以上ないほど真剣な表情が浮かんでいて、口調には本気がこもっているように聴こえる。だけど、それでハッと我に返って、先日の資料室でのことを思い出した。
『……オレは、もう睦月に遠慮しない』
その言葉に込められた、あまりに強い意思に飲み込まれそうになった。そうして、あのときのキス ―― 。おさまっていた怒りがゆっくりと膨らんでくる。
「ありがとうございます」
そっけなく言って、料理に視線を戻す。差し出されたままの皿を無視して再び自分で皿を取ろうとしたけれど、今度は強引に手を掴まれた。片手にもっていた皿を適当に空いたスペースに置いて、郁斗先生が言う。
「睦月。話があるからちょっと佳澄ちゃんを連れて行くよ」
「郁斗先生っ!」
本当にこれまでとは違う。強引な郁斗先生に戸惑いながら、繋がれた手をはずそうとしても、逆に力を込められてしっかりと握られる。睦兄、と助けを求めようと顔を上げようとして、低い声が降ってきた。
「ああ。具合が悪くなりそうだったら、家まで連れて帰ってやって」
「 ――― え?」
告げられた言葉が信じられなくて、幻聴かと思った。
パーティが終わったら話したいことがあるって言ったのに。わかったって頷いてくれたのに。どうしてっ。胸に渦巻いていた怒りが、郁斗先生にじゃなくて、睦兄に向かう。
「睦兄っ」
「おまえはそれでいいんだな?」
私の声を遮るように、静かな口調で郁斗先生が言う。見上げると、まっすぐ挑むような視線を睦兄に注いでいた。貫くような、怒りさえ含まれているような、その視線に私は思わず口を噤む。恐る恐る睦兄の顔を見たとき、なぜか諦めにも似た気持ちが浮かんできた。何かを ―― なにもかもを諦めるときの、睦兄の表情。見慣れているそれを今浮かべられたことがあまりにも、衝撃で。
抵抗するために込めていた手の力が抜けていく。代わりに郁斗先生の手に力がこもって、ぎゅっと握り締められた。
「佳澄が、選んだことなら」
感情を押し殺したような、低い声。だけど、その言葉の意味がわからずに、私は訝るようにじっと、睦兄の顔を見る。答えは見つからずに、ただ、寂しげな表情だけが浮かんでいることだけがわかって、まるで、ひとり。広い世界にたったひとり取り残されてしまうみたいな、その表情に胸が痛くなる。
「 ―― そうか、わかった」
短い返事を残した郁斗先生は、話を切り上げて私を連れて行こうとする。慌てて振り向こうとするけれど、もう睦兄は背中を向けていて、拒絶を感じるその背中に私は何も言うことができなかった。代わりに、先を歩く郁斗先生に声をかける。
「待って、郁斗先生! どこ行くの!」
「ステージ?」
あまりにあっけらかんとした返事があって、思わず足を止めた。手を繋いでいた郁斗先生もつられて足を止める。振り向いて、怪訝な顔をした。
「ステージって、どうしてそんなところに……」
確かに一番前にはちょっと段差のあるステージがセットされてある。今日のパーティで準備されているだろう出し物のための。今はまだ前準備という段階で、もう三十分くらいしたら何かが始まると、入り口で貰ったプログラムに書いてあった。だけど、招待客に何かをさせるようなイベントはなかったはず。そう思って、そういえばこのパーティに出ることになったそもそものきっかけが郁斗先生の言葉だったことを思い出した。
「睦兄が困ることになるって言ってたことですか……?」
「ああ。あれは君と睦月をくっつける計画を企んでたけど、予定変更。まぁ、設定はそのまま使わせてもらおう」
「……私と睦兄を?」
「反応して欲しいのは、予定変更ってとこなんだけどね」
噛み合わない会話に苛立ちが募る。肩を竦めて、飄々とした態度をとる郁斗先生を睨んだ。
「郁斗先生が何を企んでるのか知りませんけど、私は付き合う気ありませんから!」
ぐっと足に力を入れて、動かない意志を示す。これ以上振り回されるのは嫌だし、睦兄にも文句のひとつくらい言わなきゃ気がすまない。
「 ―― 春日さんっ?」
二人の間に急に声がかかって、ハッと視線を向けると、村田君が驚いた顔つきで駆け寄ってくるのが見えた。
「村田くん……」
灰褐色のスーツを着ている彼は、睦兄や郁斗先生とは違って、目に見えて似合わない。見慣れてないからかもしれないけど、あまりに違和感があった。村田くんは傍まで来ると、眼鏡の奥で目を眩しそうに細める。
「キレイだね。すごく似合ってるよ!」
まっすぐに褒められて、恥ずかしくなる。俯いて、ドレスの布を軽く引っ張った。
「ドレスが、でしょ?」
「そんなことないよ。春日さんだから、そのドレス似合ってるんだと思うよ」
「 ―― ありがとう」
自然とそう否定されて、私も素直にお礼を口にした。そこに、ごほんっと咳払いが割り込んでくる。反応したのは村田君だった。
「あっ、郁ちゃん先生。春日さんと一緒だったんですか?」
「まぁね。オレの所にも招待状が来てたからね」
会社繋がりのこのパーティに教員である郁斗先生が招かれたことが不思議なのか、村田くんは首を傾げる。私も、郁斗先生は睦兄の知り合いでくっついてきたってことにするっていうので、話を合わせるよう言われていたので、自分に招待状が来ていたことをばらす言い様に訝った。
「……なんか、もめてたみたいですけど」
言いづらそうに村田くんが私に視線を合わせてくる。気遣うような表情に、大丈夫、と答えるより先、郁斗先生が言った。
「彼女は恥ずかしがりやだからね。まぁ、春日に告白したおまえへの牽制にもなるし、ちょうどいいか。んじゃ、待ってろよ?」
にっこりと笑顔を見せると、郁斗先生は繋いだままの手を急に引き寄せた。
「いっ、郁斗先生?!」
ひょいっと、まるで俵を抱えるように、郁斗先生の肩に担がれる。驚いて声を上げても、聞こえないとばかりに足を踏み出した。
「春日さん?」
「ちょっ、郁斗先生!」
困惑する村田君の表情が見える。ばしばしっと背中を叩いても、郁斗先生からの反応はなくて、次第に周囲からも好奇心に満ちた視線が注がれてくる。
こんなの、おかしい。あまりにも強引過ぎるやり方に、腹がたつ。信じられない。郁斗先生がなにをしたいのかわからない。付き合いのあったこの数年間の間で多少なりとも郁斗先生のことを理解したと思っていた気持ちが粉々に壊されていくような気がした。
「はい、到着」
とんっと降ろされたのはステージの一角。自由になって、とにかくお腹の中に溜まってる腹立たしさをぶつけようと郁斗先生を見る。郁斗先生は、側に置いてある機械の設定をするようにつまみを回したり、スイッチをあげたりしていた。
「何する気ですか!」
「うん、まぁ、いいからいいから」
そう適当に返事をしながらも、私が逃げ出さないよう片手はしっかり手首を掴んでいる。そこに込められている力に嫌な予感を覚えて、眉を顰めた。郁斗先生は私が嫌がることはしない。そう信頼していたのに、急に不安になって、睦兄を探そうと視線を会場に巡らせる。すぐにその姿は見つかった。だけど、隣に立っている女性に気づいて、どくりと心臓が嫌な音を鳴らす。
睦兄に、まるで寄り添うように立っているのは、村田紀子と名乗った女性で、彼女は何かしら親しげに睦兄に話しかけていた。
「……睦兄」
思わず零した呟きが、こんなに離れていてもまるで聴こえたかのように、ふいっと睦兄の視線が私に向けられた。まっすぐ。 ―― 真剣な光が宿る瞳を私も見つめ返す。だけど、すぐに睦兄は視線を逸らして、その場所から移動してしまった。
ぐさり、と突き刺されたみたいに胸に鋭い痛みが走る。心臓を切られたみたい。郁斗先生に繋がれている手とは反対の手を胸に添えた。
「よし、でーきた。んじゃ、ごほんっ」
郁斗先生が満足そうな声を上げ、マイクを手に取った。
「皆さん、今日ここで重大な発表があります」
マイクを通した郁斗先生の声に、会場中の視線が私達に注がれる。嫌な予感がして郁斗先生の手を振り払おうとしたけれど、しっかりと繋がれていてできなかった。
(嫌っ、こんなの ――― !)
郁斗先生が何を言おうとしているのかわからなかったけれど、それが決して自分の意に沿うようなことじゃないのはわかる。全身が嫌悪感で一杯になった。
「私こと、神木財閥 ――― 」
ハッと思わず息を呑む。郁斗先生が自分の家のことを口にするのは滅多にないことで、それは後には引けない覚悟を持ったときだと知ってる。それで何を言おうとしているかわかって、一気に血の気が引いた。
神木家財閥、というただ、それだけの言葉に、会場中がざわめく。
「郁斗先生っ、やめ ―― 」
やめて、という前に、郁斗先生の手からするりとマイクが抜き取られた。
「神木郁斗の親友であり、共同経営者の春日睦月である、私が本日、村田社長の姪御さんである、村田紀子さんと婚約することを発表します」
「睦月っ?!」
頭の中が真っ白になる。
――― いま、睦兄は何を言ったの? ……なんて言ったの?
呆然となる。視界の中で、睦兄が会場に向かって手を差し伸べ、ざわつく人垣の中から女性が艶然とした笑みを浮かべて壇上に向かってくるのが見えた。
「 ――― っ!」
二人で並んで、何を言うの? 婚約? どうして?
真っ白になっていた頭の中が今度は疑問で一杯になる。身体中が震えているのが自分でもおかしいくらいにわかった。吐き気がこみあげてくる。ドレスを褒めてくれたこと。手を繋いだときの反応とか。ほんの少し期待していた気持ちが粉々に砕け散っていく。それでも、まだ信じられなくて。救いを求めるように郁斗先生を見る。郁斗先生と睦兄のふたりの仕掛けで、実は冗談でしたって、――― 険しい顔つきで睦兄を見ている郁斗先生の視線に、これが現実だと思い知らされる。
(いやっ!!)
目の前で、睦兄が他の女の人の手を取る。包み込むように重ね合い、握られるその手に、胸の内に炎が宿る。押し寄せてくる、真っ黒い感情に恐怖を感じて、気がついたときには、その場を駆け出していた。
「佳澄ちゃんっ!」
「触らないで下さいっ!」
会場を出たところで、腕を掴まれて引き止められる。外は、強い風が吹いて、ものすごい雨が降り注いでいたけれど、そんなことは気にもならなかった。吹き飛べばいい。全部。なにもかも。雨に洗い流されれば ―― 。
「郁斗先生なんて嫌いっ! 大ッ嫌い!!」
掴まれている腕を無茶苦茶に動かして振り払う。だけど、強い力は放してくれなくて、そのまま引き寄せられて腕の中に抱き締められた。郁斗先生のスーツが雨に濡れて、黒ずんでいるのだけが雨に濡れていく中でぼんやりと見える。
「 ――― ごめん」
耳元で囁かれた、ひどく真剣で。つらそうな声に、ハッと息を呑む。
「ごめん」
繰り返し謝られる言葉は、私の胸を抉る。苦しくて、苦しくて。もう、どうすればいいのかわからなくて。ひたすら謝り続ける郁斗先生の苦しみまで伝わってきて何も言えなくなり、ただその背中に縋りつくしかなかった。
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