Don't cry baby [前編]
Don't cry baby [前編]
どんなことがあっても、守るよ ―― 。
あの時の恋愛を若かったとか未熟だったとか振り返るつもりなんてない。いつ、どこで、何歳のときに出会っていても私たちはお互いしか見えなくなるほど夢中になったし、何を捨てても抱えているお互いへの想いを守りたいと思ったはず。傍にいないと呼吸さえできなくなりそうなほど。離れると笑い方も忘れてしまうくらいに私は彼に恋をした ―― 。
「ちょっと傷んじゃたかなー…」
軽くウェーブがかった赤みを帯びた髪をもちあげて滑らかとは言い難い手触りに呟きが零れた。以前は艶やかさが自慢で指ですくっても隙間からさらさらとキレイに流れていたのに。ちょっと手入れをしなかっただけなんだけど、と溜息をつきたくなった。手入れをしなかったことには理由がある。本当は、こうなることを踏まえたうえで、わざと、しなかった。手入れのしていない髪はごわつき、ぼさぼさになる。それでも、三つ編みにしてしまえば、見られないほどじゃない。三つ編みに、焦げ茶色の縁の少し厚めの眼鏡。度は入っていないけど。夜寝る前と朝はきちんと美容を気遣って化粧水や乳液やら、昔と変わらずに続けていたけれど、化粧をしていない顔は日差しを浴びて、少しソバカスがでてきていた。二十一歳という成人も過ぎた年齢では、化粧っ気のない私は、影の薄い存在として、大学に通っていた。サークルにも入っていないし、女の子がひとり、友達としていてくれるくらいだった。
朝から夕方まで学校で過ごし、一人暮らしの部屋に帰ってご飯を食べて、お風呂に入ってレポート課題やら自主学習をしてから眠るだけ。ほとんど毎日が同じように繰り返されていたけれど、それでいい。その平穏な日常がとても愛おしく、大切だと感じていた。
ピッピッ、とアラームの音がふいに聞こえて、はっと我に返る。
「いっけない。講義に遅刻しちゃう!」
慌てて鏡の前から離れて、玄関先に用意していたお弁当とバックをつかんで一足だけ置いてある靴を履く。行ってきます、と誰もいないのに、言い残して出てしまうのは、油断しているときにでる、クセになっていた。
ごめんっ。
大学の図書館前のベンチに座って木製のテーブルの上でお弁当を広げていると、大学で唯一の友達が駆け寄ってきて最初に発したその言葉に驚いた。目の前で、いきなりパンッ、と両手を合わせて拝むようにしている友達 ―― 庚由香(かのえ ゆか)は、少しだけ頭を下げている。
「どうしたの、突然」
怪訝な顔をすると、由香は頭を上げて、一枚の紙を差し出してきた。
「今夜ね、兄貴のライブがあるの。一緒についてきて欲しいんだ!」
――― げっ。
ライブ、という言葉に即座に拒否反応を示してしまう。地味に生活していれば、そんなものとは縁遠いと思っていたのに。っていうか、ライブしている兄の妹が地味過ぎやしないか。そうだと思っていたから仲良くなったこともある。勿論、気が合うことは前提として。
「お願いっ。チケット無理矢理買わされたんだけど、ひとりだと心細くてっ」
必死の形相に、断ることは気が引けてしまう。特に今夜の用事がなければ、尚更。
(まあ、たまには気分転換になるかな。)
差し出されたチケットをちらりと見る。アマチュアのバンドライブ。しかも、ライブハウスの名前は聞いたことがない。それだったら、いいかと思ってしまう。きっとそう知り合いに会うこともないはず。それに ―― 。会ったとしても、だれひとり。私に気づくなんてことない。そう思うと、胸が少しだけ痛んだ。その痛みを誤魔化すように、軽く首を振って、にっこりと笑顔を見せた。
「しょうがない。付き合ってあげよう」
有難う、と笑顔で言う由香の言葉を受け止めて、チケットを手にした。
それが二度目の運命の出会いになるなんて、思いもしなかった ――― 。
歌が始まる前の期待感や騒々しさに懐かしい感覚に襲われる。前は気持ちが高揚するこの空気が好きだったけれど、今はとても怖くて ―― ほんの少し、寂しい。自分から手を離してしまったからかもしれない。まだ、覚悟も出来ていないうちに向き合うことになるなんて思いもしなかった。もちろん、まだ正面なんてとんでもないから、隅っこに立っていることにした。由香はとりあえず来ていればいいのか、居場所については文句は言わない。それにしても、他に知っているライブハウスに比べると狭い場所なのに、人が多い。アマチュアの、その中でも名前なんてまったく知らないバンド出演しかないはずなのに、どうしてこんなに人が多いんだろう、と不思議に思った。
時間になると、バンドが演奏を始めた。
最初に現われたボーカルが由香のお兄さんだと説明された。まあまあじゃないかな、と歌を聞きながら思う。最も、歌のことは ―― 特にバンドのことなんてわからないんだけど。それでも、自然と身体がノッてしまうくらいには、音が上手に取れている。由香も嬉しそうにはしゃいでいた。
お兄さんのバンドは三、四曲歌って終わった。
観客側は暗闇で、ステージにスポットライトが当たるから同じテーブルにいる由香の表情もあまり見えない。由香はお兄さん達が終わっても、ただじっと、ステージを見つめていた。私はワンドリンク制で頼んだ烏龍茶を手にしてなんとなく、周囲を眺める。こういった場所なら男性が割合的には多く、女性もカップルとして訪れる場合が多いのに、今日はなんだか若い女の子達が多い気がした。もしかして、と由香に話しかける。
「ねぇ、今日って。誰かのシークレットライブでもあるんじゃないの?」
「え? なに?」
音慣らしになる大きな音に紛れてしまって届かなかったのか、由香が怪訝そうに顔を顰めた。テーブル越しに身を乗り出してくる。
「このあとのバンドってなに?」
そう聞くと、急に由香の顔がぱっと輝いた。
「実は、驚かせたくて黙ってたんだけどね。なんと、あの ―― 」
そこで声が遮られた。
会場中が沸き立って、聞き慣れた音が鳴り始める。聞き慣れた音 ―― この曲は。まさか。そんな、わけ。
「お待たせしましたー。今日のゲストはなんと! あのっ、Gir(ギア)だー」
DJらしきひとがそう紹介したあと、甲高い嬌声の中、ステージに飛び出てきたのは ―― 。
最初に出てきたのは、淡い茶色の髪を肩まで伸ばした男の人。大人の妖艶を全面に出した雰囲気は一瞬で視線を奪われる。そうして、彼の少し後からもうひとり。真っ黒なさらさらの髪。サングラスをかけていてもわかる、整った顔立ち。スタイルもかっこよくて、一際目立って、惹きつけられてしまう鮮やかな雰囲気を持っている。そこに立つだけで、空気のすべてを支配できるひと。
「どうして……」
自然と呟きが零れ落ちてしまう。私は慌てて、手探りでバックをあさって持ってきた帽子を頭に被せた。周囲はステージに夢中で、しかも端っこにいるから前に立ち塞がるひとたちで隠れてしまっていることが救いだった。由香も必死にステージを見ようと、私にまで気は回らないようで ―― 。
なんでもいいから、ともかく帰ろう。ここにいちゃダメ。由香にはあとでメールか電話で謝ればいい。そう思って、こっそりと出入り口になっているドアに向かう。気を抜くと、震えている足の力を失って倒れそうになる。そんな自分を叱咤するように汗ばむ手の平を強く握った。
「じゃあ、俺は大事な用があるから一曲だけ。あとは、響(ひびき)のソロナンバー聞いてやって」
皆のがっかりした声が会場をうめつくす。
その声に、―― あったかく、優しいその声に、胸がどきんっと跳ね上がる。
「余計なお世話だ。月哉。今日はそのまま帰れよ。久しぶりの日本だからって迷子になるなー」
響のからかう言葉に、どっと笑い声が起きた。その声を最後に、私は仕切りになっている重い扉の取っ手を両手で掴んで開けて、出て行くことにした。ばたんっとできる限り静かに閉めたつもりだったけど、大きな音が鳴ったように聞こえた。びくりと、恐る恐る振り返る。スタッフのひとが苦情に飛び出てくることもなく、とりあえずほっとして、階段を上がって行った。
( ――― まだ、胸がどきどきしてる。)
階段を上がりきって、自分の胸に手をあてる。どくん、どくんと、激しい鼓動を聞きながら、まだあの声を生で聞いた瞬間にこんなに動揺してしまう自分を情けなく思った。それでも、身体は ―― 正直なのかもしれない。嬉しいと感じる自分だって、確かに否定しきれないから。だけど ―― そう。こんな偶然はもういやだ。二度と、あって欲しくない。こみ上げてきそうになる衝動をぐっと抑え付けて、今日はもう帰ろうと駅に向かって歩き出した ―― 途端。
「 ―― っ、」
細い路地裏に引っ張り込まれた。
(えっ、嘘っ、なにっ ―― ?!)
背後から羽交い絞めにされて、全力で暴れようとしても、強い力で押さえつけられる。助けを呼ぼうと思っても、口を大きな手の平で塞がれていた。
「静かに ―― 」
ぞくり、と耳元で囁かれた声に背筋が震える。久しぶりに聴く声。そしてずっと、焦がれていた ―― 同時に、ふわりと香る懐かしい匂いを感じて、全身が固まった。暴れるのを止めた途端、拘束は解かれて代わりに振り向かされる。そのまま、強い力で引き寄せられて、抱き締められていた。
「 ――― 冷夏。会いたかった」
その、今にも泣き出しそうな声に、胸が痛む。
「どうして、月哉。ここに ―― 」
「探してたから。俺はずっと、冷夏を探してた。もう、離さない」
ぎゅっと抱き締められている腕に力がこもる。まるで縋りつくようなその力に、拒むことができなくなる。伝わってくる温もりに全身が絡め取られていくかのようで ―― ダメっ。慌てて、首を振る。このまま流されたら、なんのために。そう、なんのために、私は。
「月哉。お願い、話を聞いて」
身体を離そうと思っても、腕に込められた力は少しも緩まなかった。
「俺の部屋でなら、聞くよ。それ以外はなにも許してやれない。冷夏のことを信じてあげられない」
月哉の言葉が胸を貫く。
(こんなに、傷つけるつもりはなかったのに ―― 。)
胸が痛くて、痛くて、涙が零れてくる。
歌えていたから、大丈夫だと思った。海外でもナンバーワンの歌手になれたから、私がいなくても、ヘイキだと思っていたのに。立ち直ったと思い込んで、次に会うときは私も笑顔でいられるようになろうと思っていた。
「わかった。ここで話してたら、誰かに見つかるかもしれないし。月哉の部屋に行くから。ね、ちゃんと話そう」
溢れてくる感情をなんとか押し込めて、声が震えないように気をつけながらそう説得してみる。ようやく、腕が離れた。やっと、まともに顔を見れる。久しぶりの、月哉の顔。素の表情はいつだって、少しあどけない。サングラスをしているせいで、あの青い瞳は見ることができなかった。だけど、サングラス越しにじっと見つめられると、相変わらずどきどきと恥ずかしくなって、居心地が悪くなる。くすりと意地の悪い笑いが耳元で落とされる。
「逃げないって約束のキスをしてくれたら、離れるよ」
「つっ ――」
羞恥に声を上げようとした瞬間、唇が塞がれていた。
昔はどこまでも、甘く優しかった口づけ ―― それが今は、まるで責めるような、悲しさを含んだものに変わっていて、どうしようもなく零れ落ちた涙が、とても苦いものに感じられてしまった。
『あららー。じゃあ、見つかっちゃったわけねー』
電話越しの軽い口調にムッと、怒りが沸き立つ。
「見つかっちゃった、じゃないでしょう。叔母さん、覚えは?」
『叔母さん、ないない。私と貴女だけの秘密を喋るわけないでしょう。しかも私と貴女の時間を奪った男にさー』
どこまでも気楽な言い方に、溜息をつく。だけど、嘘じゃないことはわかる。叔母さんが私との時間をどれだけ大切にしていたかもわかってるし。それに叔母さんにとって ―― 。
鏡台の椅子に座って鏡を見ながら、ふと先週のことを思い出す。
『それでより戻ったの? どうしたのよ、再会してから』
「蹴飛ばして逃げました」
叔母さんはおもいっきり吹きだして、笑い出した。
笑いごとじゃない。あのあと、月哉の足を蹴飛ばして痛みにうめいている隙を突いて逃げ出した。幸いにもタクシーが停まってたから急いで飛び乗ってアパートまで帰り着いた。その後は着替えもしないでただ、ひたすらずっと、泣いていた。泣いて、泣いて。一晩中。おかげで鏡に映る今は、目は充血し瞼が腫れあがって見るも無残な姿になっている。
「叔母さんが言ってないなら、本当に偶然だったのかな。だったらもう、会わないと思うし」
会わない、と自分で口にして、自分で傷ついてしまう。だけど、どんなに傷ついたとしても、それが一番最良の道でしかない。誰より ―― 月哉にとって。
『そうねぇ。まあ、月哉クンの話はいいわ。それより今度、一緒にお昼を食べない?』
「叔母さん」
『いいじゃないの。ね、普通の叔母と姪が一緒にお昼よ。冷夏の大学での話も聞きたいわ』
四十過ぎても叔母さんの気安い口調はお茶目に聞こえて、しょうがないなと思う。どんなことでも叔母さんに頼まれてしまうと断れなくなる。昔から、そうだった。だから、苦笑を零して了解、と頷くしかない。そのまま電話を切った。
ふと、鏡のなかの自分を見る。
昔 ―― たった、三年でも随分変わってしまった。それなのに、あの中でよく見つけられたな、と呆れてしまう。だけど、私だって。きっとどんなに月哉の容貌が変わってしまったところで、すぐに見つけ出せるだろう自信はある。近づいただけで、その空気が変わって胸が震えてしまう。こんなふうに感じるのは、たったひとりだけだから。
「もう、二度と。あんな偶然がありませんように ―― 」
口に出して祈って、シャワーを浴びて少しはまともにしようと、立ち上がった。
課題レポートをパソコンで作っていると、不意に携帯電話の着信音が流れ出した。知っているのは、叔母さんと友達の由香くらい。設定している着信音じゃない。画面を見ると知らない番号からで、疑問に思ったけどとりあえず出てみた。
「はい?」
『月哉だけど』
「っ、」
『切ったら怒るよ』
思わず電源のところに指がかかったのが見えているみたいに、タイミングよく釘を刺されて固まった。
『今どこ?』
「……お、おうち?」
声だけ聞いてると随分と迫力がある。怖すぎる。普段はとても優しい、キレイな声をしているのに。そう思っていると、溜息が聞こえてきた。
『なんで疑問系なの。それで、おうちの場所はどこ?』
「 ――― 言えない」
『わかった』
不機嫌な声が返ってきて、ごくりと唾を飲み込む。これはもう、最悪なほどに機嫌が悪い。いい加減にしろと怒って呆れて、忘れてくれればいいのに。構わないでほしいのに。どうして ―― 。昨夜泣き続けて、枯れたと思った涙が再び溢れてきそうになるのを感じて堪える。ここで、今。泣いちゃだめ。電話を持つ手と反対の手を強く握り締めた。
『大学に迎えに行くよ』
その言葉でハッと息を呑んだ。
「大学知って ―― っ?!」
『俺がどうして携帯番号知ってると思う? 冷夏と一緒にいた友達のお兄さんと偶然知り合ってさ。妹さんと冷夏が一緒に写ってる写真を見つけたんだ。それで情報を知り尽くしたよ。流石に家まではわからないって言われたけどね』
あっさりと告げられた内容に、愕然となる。じゃあ、やっぱりあの再会は ―― 仕組まれてたの?
そうとしか考えられなくて、相変わらずの用意周到なやり方に、もう溜息しか出てこなかった。
「月哉、私達は別れたはず ―― 」
『その話は、会ってからしよう。どうする? 明日、大学まで迎えに行く?』
「まっ、それは待って! わかった、わかったから。今から月哉の部屋に行くから」
だったら待ってる、と返事があって電話はすぐに切れた。それ以上の言葉を許してくれる気はないようで。
(とにかく、できる限り変装していかなきゃ。)
男の子っぽい格好で。三つ編みして後ろで止めて帽子被ろう。あとは、ジーパンにTシャツで。それと顔を隠すためにサングラス。急いで準備をして、部屋を出ることにした。
張り詰めていく緊張感を持て余しながら ―― 。
駅を降りて街中に立つと、人通りの多さに辟易してしまう。大学がある場所は山の上だし、その近くにあるアパートは駅に近いとはいえとても静かで、時折緊急車の鳴らす音が響く程度だった。電車で三十分。相変わらず、賑やかなこの場所は、前は当たり前だったのに今は違和感を覚えた。
三年ぶり。タクシーに乗って、マンション近くで降りてから少し歩いた。見渡せる限りには、カメラマンとかいる気配はないみたいで、仮にいたとしても、今の格好なら誰かまではわからないだろう。とりあえず、マンション入り口に立って、脇に立っている管理人を見つけた。三年前と同じおじさん。
「柏木さん、お久しぶりです」
そう声をかけると、皺が刻まれた顔に怪訝な表情が浮かぶ。あっ、そうだったと自分の変装を思い出して、サングラスを軽く上にあげた。
「私…、冷夏です」
「おおっ、冷夏ちゃんか! 三年ぶりだね。懐かしいっ!」
警戒心を露わにしてた顔に途端に笑顔が広がる。
「よかった。おじさんも変わらないですね」
親しみを込めて言うと、苦笑を零された。
「歳は取ったさ。三年も経った。だけど、君は変わらずキレイだね。いや、大人っぽくなったかな」
「うまいですね。随分、変わりましたよ。私は」
社交辞令だとわかる。三年前と比べたら、今の私はとてつもなくひどい有様になっているから。
おじさんは、いいや、と首を振って優しい眼差しを向けてくれた。
「どんなに格好が変わっても、君の瞳はあの頃のまま。澄んでいてキレイだ」
思いがけない言葉にハッと息を呑む。穏やかで、いつも温かく見守ってくれているおじさんは三年経っても本当に変わらなかった。懐かしさがぐっとこみあげてきて、涙が浮かびそうになる。それを堪えて、代わりに微笑んで見せた。
「 ――― ありがとうございます」
にっこりと微笑みあって、そうして気づいたようにおじさんが言う。
「そうだった。話は各務くんから聞いてるよ。君がきたらすぐに通すようにって。三年ぶりだろう。ゆっくりしておいで」
「はい。じゃあ、お邪魔します」
そう言うと、どうぞとボタンを押してオートロックの扉を開けてくれた。ホールへ歩んでいく。おじさんの様子からすると、三年経って日本に戻ってきた月哉に会いにきたんだろうと思っていることがわかる。私達が別れたことは知らないみたいだった。
ホールにあるもうひとつの扉の横についているセキュリティ盤に向かう。部屋番号を押すと、声が返った。
「私、来たよ」
そうマイクに向かって話すと、返事もなく扉が開いた。それを通り抜けながら何も返事をしなかった月哉に溜息をついてしまう。もう三年も前の話なのに、まだ怒ってるのかと呆れたくなる。エレベーターに乗って、最上階を目指した。一つしかない部屋のドアの前に立って、再び備え付けのインターホンを押す。がちゃ、と音がしたと思ったら、強引に腕を引っ張られて中に引きずり込まれていた。
「つっ、月哉!」
覆い被さってくる彼の顔から慌てて逸らして叫んだ。すぐに顎をつかまれて向き合わされる。この前とは違ってサングラスがかかっていない青い目がじっと見つめてきた。どくんっと激しく胸が高鳴り始める。
「やっと、捕まえた」
微笑みひとつなく、真剣な顔で告げられた言葉に胸を貫かれる。
あまりに切実な雰囲気で抱き締めてくるから、腕を振り払うことができなかった。
どれくらいそうしていたかわからない。しばらくして、少し落ち着きを取り戻した月哉が腕を解いて、それでも手を掴んだまま「 ―― あがって」と促す。頷いて、靴を脱いだ。フローリングの廊下を通って、リビングに向かう。一面の窓からは、眩しいくらいに光が差し込んでいた。それと向かい合わせの柔らかいクリーム色のソファ。それを見たとき、懐かしさがこみ上げてくる。前はこのソファに座って日差しを浴びながら転寝できる時間がいちばん幸せな時だった。同じ空間にいる月哉の気配を感じながら。彼の足音や、音を作るときのハミング。時折、呼びかけてくる声。すべてが温かい空気になって溶け込み、私を包み込んでくれていた。
「飲み物入れてくるから、座ってて」
月哉の声にハッと我に返る。キッチンに行こうとする彼を慌てて引き止めた。
「待って。ね、ちゃんと話しよう?」
背中を向けていた月哉が振り向いて、つと歩み寄ってくる。至近距離まで来ると手を伸ばしてきた。思わず目を閉じると、ぱさりと帽子を取られる。三つ編みにして纏め上げていた髪が降り、それさえも解かれてしまう。
「なにするの!」
髪に触れられることが嫌で頭を押さえようとして、今度はサングラスを取られた。
「月哉!」
そう怒鳴ったところで、感情ひとつ浮かんでいない青い目に見据えられて、唾を飲み込んだ。真剣な表情のまま告げられる。
「変装は似合ってないよ」
感情が掴み取れない声。突き放すようなその冷たさに、胸が苦しくなる。再び背中を向けてキッチンに向かう月哉を呼び止めることはできなくなった。
――― 三年。
その期間は、私にとって新しい自分を作り出すのに必要な時間だった。自分の夢を叶えるために。自分の足で立つために。なにより、月哉のことを思い出にするために。それなのに。
肩の力を抜くように息をついて、とりあえずソファに座った。
結局は、話し合うしかない。大学も電話番号も知られているのなら、逃げることは出来ない。だけど、譲れないものがある以上、また月哉を傷つることになるのが怖い。そうして、そこまで追い込んでくる月哉を少なからず、憎いとさえ感じてしまう。けれどそれ以上にやっぱり私は ―― 。
「熱いから気をつけて。冷夏が好きなミルクティー」
すぐに戻ってきた月哉はお盆に乗せたカップを二つ、前のテーブルに置いた。
「早かったね」
「準備はしてたんだ。紅茶の葉はコンサートでイギリスに渡ったときに買ったやつ。冷夏用に沢山ストックしてあるからいつでも使って」
「月哉」
私が呼び止める声も聞こえないように、月哉は隣に座りこみながら、話を続けた。
「本当はどれがいいか聞こうとしたんだけど連絡つけられないし。仕方ないから全種類買っちゃってさ。おかげでダンボール一箱ゼンブそれ。俺は知らないけど、紅茶の葉っぱって賞味期限あるんだっけ? あるなら毎日三回は飲まないと減らない」
「月哉っ、やめて!」
喋り続ける月哉の顔がとても苦しそうで、大声で遮ろうとしたけど、気がついたときには、身体を押されてソファの上に倒されていた。覆い被さってくる月哉の顔が間近に迫る。青い瞳、秀麗な眉、スッと通る鼻筋。薄い唇。二十半ばになってもあどけなさを残し、それが余計に美貌を際立たせていた。泣き出すかのようにくしゃりと顔が歪んでもキレイで、時が止まったようにただ、見惚れてしまう。
「なんでっ ―― 」
苛立ったように言われる。瞳は悲しみで揺れていた。
「三年前。アメリカに行くときに、勝手に冷夏は別れを告げた。けど、それは事務所の差し金だと思った。だから、向こうでナンバーワンを取れば、もう何も言わせない。その条件で、そのためにひたすら俺は頑張ったんだ。それなのにっ。俺が、冷夏が引退してすっかり消えたと知ったとき、どんな気持ちだったかわかるかっ?!」
掴まれてる肩が痛い。まっすぐぶつかってくる月哉の感情が、胸を熱くする。その感情に飲み込まれて、涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
「待っててくれると思ったんだ。……冷夏はっ、待っててくれるだろうって」
掠れた声に、月哉も泣くのを堪えてるんだとわかる。いつも、どんなときだって冷静だった月哉が、こんなにも感情を剥き出しにしていることも。彼を泣かせていることも、すべてが私が傷つけたからだと胸が張り裂けそうになる。今、口を開けば月哉に対しての想いが勝手に出てきそうになるから、何も言わずに見つめていることしかできなかった。
「冷夏が姿を消したと知った瞬間から、俺は憎んだよ。事務所も。冷夏の叔母さんの貴子さんも。 ――― 冷夏も」
まるで月哉の言葉が鋭い刃でもなっているように、胸を突き刺す。憎まれても仕方ないと思った。だけど、突きつけられるとこんなにも苦しい。見つめてくる瞳から逸らすことができずにいると、月哉は悲しげに微笑んだ。
「愛してる。だけど俺を独りにした冷夏を憎んでもいる。二つの感情を持て余して気が狂うかと思った。けど、偶然に冷夏を見つけて。やっぱり愛してるんだと思い知らされた。冷夏は? 冷夏もそうだろう?」
「 ―― 私は」
いっそ、頷いてしまいたかった。三年間。どんなに忘れようと努力しても、会ってしまえば。こうして、触れ合ってしまったら、そんな時間はいともたやすく消えてしまう気がする。
『あなたが約束してくれるなら ―― 。』
ふと脳裏に浮かび上がった言葉に、我に返った。
( ――― ダメッ。ここで、負けてしまうわけにはいかない。)
気持ちを押し殺して、キッと月哉を見据える。
「私にとって、三年間は長かったの。私は、もう月哉とのことは思い出でしかない。諦めて。そして、お願いだから忘れてしまって」
何度こうして彼を傷つけてしまうのかわからない。同じだけ、自分の心を。どんなにこれが最善の方法だとわかっていても、傷つけあうしかないなんて。だけど、月哉をここまで傷つけたらもう、きっと離れていく。苦しいけど、それは傷つけた罰だと受け入れるしかない。不意に掴まれていた肩がぎりっと痛んだ。
「っ、月哉、離し ―― 」
目の前で月哉は、キレイな笑顔を浮かべていた。キレイな、笑顔。その瞳は、いつも光に溢れて輝いていた瞳は、とても虚ろで。ぞくりと背筋に嫌なものが走り抜ける。
「つ、月哉?」
「わからない。どうやったら冷夏を諦められる? 忘れられる? そんなことこの三年間自分を滅茶苦茶にして試してみたさ。けどなにひとつ効果は無かった。ああ、でもわかったことはあるんだ。一度こうして触れ合ってしまえば ――― 」
そっと、月哉の手の平が頬を撫でる。
「もう二度と、冷夏を離せなくなるって」
そう告げた瞬間、月哉の唇が強引に重ねられた。溢れてくる愛しさも。優しさの欠片もない、痛みだけが伴うキス。伝わってくるのは、ただ悲しさだけで。全てを求めてくる月哉に抵抗しても、抜け出すことはできなかった。
歌が聞こえる。
キレイで、優しくて。だけど、ほんの少し寂しさが混じった歌。
目を開けると、間接照明に照らされている天井が見えた。気だるさを感じながら、上半身を起こす。するりと上掛けが落ちて、自分が全裸だと気づいた。慌てて滑り落ちた上掛けを引き上げる。いつのまにか寝室に運ばれていたらしい。あのソファよりも寝心地がいいキングサイズのベッド。最初はダブルだったのに、身体を重ねるようになってから、月哉が購入した。恥ずかしがった私に、ずっとこのベッドの上で過ごしたいな、と無邪気な笑顔を浮かべて言いながら。
忘れなきゃと思うのに、こうして二人で過ごした空間を見つけると鮮やかに甦ってくる記憶。頭を振って追い出した。
「 ――― 帰らなきゃ」
そう呟いて、何時だろうと時計を探す。私がプレゼントした青いデジタルの目覚まし時計は変わらずにサイドテーブルに置かれてあった。『21:35』を示している。まだ終電まで時間がある。ほっと胸を撫で下ろして、洋服を探した。ベッドの側にはなくて、ふと思い出す。月哉に剥ぎ取られて、だったらソファのところに放り出されたままかもしれない。とりあえず、シーツを身体に巻きつけてベッドから降りた。ドア越しに月哉が歌っている声が聞こえてくる。その声は今まで聞いたことがないくらい、悲しみに溢れていた。
罪悪感を感じながら、それでもここにいるわけにも行かずに、ドアを開けようとして、戸惑った。
――― かちゃ、かちゃかちゃ。
何度取っ手を掴んでドアを押しても開かない。
(嘘っ、なんでっ?!)
ドアが壊れてる? まさか、でも。パニックになりながら、仕方なくドアを叩く。
「月哉っ、ドアが壊れてるの。開けてっ」
「 ――― どうして?」
歌がやんで、聞こえてきたのは、静かで落ち着き払った声。その声に嫌な予感が駆け巡る。
「どうしてって……。私、帰らなきゃ」
「冷夏の家はここだろう。どこに帰るって言うんだ?」
「ここって……。どこって……。だって、そんな」
わけがわからない。こんな常識のないことするような月哉じゃない。急に絶望が押し寄せてきた。
(どうして、私は月哉を傷つけることしかできないんだろう。)
我慢してきた涙が零れ落ちていく。
「っ、……くっ、……ぇっ」
嗚咽を押し殺そうとして握り締めた拳で口を塞ぐ。それでも我慢できなくて、泣き出した。
かちゃり、と小さく音が鳴ってドアが開く。
涙で歪んだ視界の中に困惑している月哉の顔が見えた。まるで置いてけぼりにされた子どものように、悲しさを纏って。ドアの前に座り込んで泣いている私の傍まで来て、目線を合わせるようにしゃがみこんだ。そのまま、腕を引かれて抱き締められる。
「ごめん」
小さく、耳元に落とされた言葉。
「 ―― ごめん」
その真剣な声と、伝わってくる月哉の温もりに、どうしようもないもどかしさだけが溢れてくる。大丈夫、と言って安心させたかったけど、突き上げてくる衝動が言葉を奪う。代わりに、月哉にしがみついて、ただ、泣きじゃくった。
差し込んでくる光に気づいて、瞼を持ち上げた。窓からは一面に光が溢れている。
( ――― 朝?)
身体を起こして、今いるところがソファだと思い出した。そういえば、夜に起きた後、月哉の腕の中で泣いているうちに再び、泣き疲れて眠ってしまったんだった。部屋の中を見ても、誰もいない。耳を澄ませても、物音一つなかった。不安に思いながらも、身体に巻きつけたシーツを見下ろして、慌てて自分の服を探す。テーブルの上にきちんと畳まれた女性用の服が目に入った。昨日着ていたものじゃなくて、新しい服。服の上には見慣れた字での書き置きがあった。
「昨日の洋服は捨てたから、これを着て ―― って、捨てた?」
それを見て、はっと昨日のことが脳裏に浮かぶ。そういえば、服を脱がされたとき、抵抗したこともあって、破けたような音がしたような ―― 溜息をついて、月哉が準備したらしいその服を手にし、バスルームに向かった。
着替えを終えて、リビングに戻ったときには、月哉がソファに座っていた。雑誌を読んでいるらしく、後ろから覗き込む。
「何の雑誌?」
「元モデル『Rei-ka』の写真集」
その言葉に驚いて、急いで取り上げようとしたけれど、見透かしていたように、月哉はさっとソファから立ち上がって避けた。
「月哉!」
「朝御飯買ってきたんだ。味噌汁作るから、一緒に食べよう」
睨みつける先で、笑顔を浮かべた月哉が言う。久しぶりに見た、優しいその笑顔に不覚にも胸が高鳴る。頬が熱くなるのを感じながら、素直に頷いた。ぽんっと軽く写真集で頭を叩いてそれを渡すと、月哉はキッチンに向かった。その後ろ姿を見送りながら、手元の写真集をぱらぱらとめくる。そこには、三年前の私が柔らかく微笑んで、写っていた。
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