Don't cry baby [中編]
Don't cry baby [中編]
ご飯を食べ終わった後で、月哉は後片付けをするとキッチンに向かい、私は食後の紅茶をソファで飲んでいた。手伝うと言ったらゆっくりしててと紅茶が入ったカップを渡され、追い返されてしまった。
不意に音楽が流れ出す。叔母さん専用の携帯着信音。ソファの絨毯に置いていたバックから取り出して、ボタンを押した。
『冷夏、今どこにいるの?』
心配そうな叔母さんの声に気づいて、戸惑いながら、月哉のところにいると告げると、溜息が聞こえてきた。
『やっぱり……』
「よりが戻ったとかそんなんじゃないから!」
勘違いされないように先回りをして言う。ハッとその声の大きさに気づいて慌ててキッチンがある方向を見たけれど、まだ月哉が来る様子はなかった。
『叔母さん的にはそれはどっちでもいいんだけど、あのね。落ち着いて聞いて。月哉クン、引退宣言出そうとしているらしいの』
「えっ?!」
あまりに意外な言葉に驚愕していると、急に後ろから携帯電話をするりと取られてしまった。あっ、と振り返ると月哉が受話器に耳を当ててる。
「おはようございます、貴子さん」
爽やかな挨拶とは裏腹にその顔には表情が浮かんでいない。
( ―― 憎んだよ。貴子さんも。)
昨日の月哉の言葉を思い出す。不安に思いながら見つめてると、視線が合った。まるで金縛りにあったように逸らせなくなる。月哉は相槌をいくつかした後で、口を開いた。
「俺の欲しいものはひとつだけです。そのために他のすべてを手放すことは怖くない。勿論、響も納得済みです。だからあいつはソロでの活動を徐々に増やしている。それにこれは俺たちの問題で、貴子さんが口出すことじゃない」
「月哉っ!」
心配して電話をくれた叔母さんに対してあまりに酷い言い草だと咎めるように呼ぶと、月哉は視線を外しておもむろに電源を切った。そのまま自分のズボンのポケットに入れてしまう。
「返して」
「話が終わるまで邪魔されたくない」
肩を竦めて拒否して、片手に珈琲カップを持ったままソファにいる私の隣にどさりと疲れたように座った。重みで少しだけ、月哉へと傾く。自分勝手な言葉にむかつきながら、彼に向かって手を差し出した。
「電源は入れないから、とりあえず返して」
きっぱりとそう言うと、仕方ないという顔つきになってポケットから出してくれた。受け取った電話を再び鞄の中に入れる。そうして、きちんと話をするために、月哉と向き合った。
「 ――― 引退するって、どういうこと? 歌うの止めるの? Girはどうするの?」
「アメリカでトップに立てたらGirを解散してあいつはソロで、俺は引退。そう約束した」
「そんな……なんで引退なんて」
ずっと傍で見てきていたからわかる。月哉がどれくらい歌うことが好きだったか。響さんとのユニットを大事にしてたか。なにより、ファンを大切にしていることも。
「なんで? 冷夏がそれを訊くんだ?」
ひんやりとした感触にハッと気づく。いつの間にか、手を掴まれていた。問い詰めてくる月哉の射抜くような視線にごくりと唾を飲む。
「……っ、私のせいなの?」
思い切って開いた唇から零れる声は掠れてしまっていた。
「俺は冷夏が傍にいれてくれればいい。他にはなんにもいらない」
――― 付き合っていたときも聞いた、言葉。あのときは、そう囁いてくれることが嬉しくて、私も同じ気持ちだった。月哉さえ傍にいてくれれば怖いものなんてなにもない。ずっと、一緒にいたい。まっすぐな気持ちでそう思えてた。
それなのに、今はどうしようもなく、怖い。聞きたくなかった。聞きたくなんかなかった。
昨日あれだけ泣いたのに、涙が溢れてくるのを感じた。止まらなかった。悲しいからじゃない。これは、月哉に ―― そして、自分自身に対しての怒りから。身体が小さく震える。
「冷夏?」
バッと掴まれている腕を振り払う。そうしてきつく睨みつける。
「月哉の馬鹿っ! 分からず屋! 大ッ嫌いっ!!」
思いつくだけの暴言を投げつけて、鞄を取ると足早に玄関に向かう。
言葉か、それとも全身から沸きあがってくる怒りをぶつけられたことに驚いたのか、月哉が追いかけてくる様子はなかった。
昨夜は部屋に戻って早いうちに眠ってしまったから、今朝はいつもより早起きができた。部屋にいると思い出したくないことが浮かんでくるから、いつもより一時間早く学校に向かうことにした。
準備室前の掲示板を見ていたら、担当教授が緊急のため休講するという紙が貼られていることに気づいた。三時間目。月曜日は一時間目から三時間目までしかない。その三時間目が休みということは、午後からまるまる空白の時間ができる。
鞄から携帯電話を取り出して、叔母さんの番号を押した。
『オハヨウ! モーニングコール?』
早朝にも関わらず明るい声に苦笑する。
「元気ね。もしかして、徹夜?」
『ぴんぽーん。今から寝ようかなって思ってたところよ』
「あっ、そうなんだ。今日午後から空いたから昼食を一緒にどうかなって思って電話したんだけど」
『もちろん。昼にはスタジオに向かう予定だったから、大丈夫よ。じゃあ、そっちに来てくれる?』
了解しました、と私が笑って言うと叔母さんは『Good-night!』と明るい口調で応えて電話を切った。私も電話を片付けて、1時間目が始まる前に珈琲を飲んでいこうと、自動販売機がある場所まで向かった。
授業が始まるまで講義室でゆっくりしていたら、由香が申し訳なさそうな顔で現れた。
「土曜日はごめんね。放ったらかしにして」
私は首を振って片手を差し出した。
「それより、私の情報をいくらで売ったの?」
うっと言葉に詰まる由香の様子に確信する。まったく困ったものだと思いながら軽く睨むふりをすると、席に座りながらしぶしぶ答えた。
「Girの月哉サマの直筆サイン、握手、一緒に写真……。ついでに我が兄に数曲提供とあのライブハウスでゲスト生ライブ! 本当ごめんっ!」
「 ――― いいよ、もう」
ため息混じりに許す言葉を口にすると、由香は私へ少し身を乗り出して、周囲に気遣いながらも好奇心いっぱいに訊いてきた。幸い選択授業であまり人気のないこの講義に参加する人は少ない。更に朝も早いため、前後左右に他の人はいなかった。
「月哉さまの知り合いなの?」
「まあ、ちょっと昔の……」
「正直に白状して。他には漏らさないって誓うから」
約束します、と真剣な表情で見つめてくる由香に、どうしようかと逡巡する。容易に話せる内容じゃない。だけど、前から上辺だけの言葉や態度を見てきたから由香が嘘をついていないことはわかる。躊躇って、でも同年代の友達は初めてだったから、相談したいという気持ちにもなった。
「三年前、付き合ってたの」
由香の目が驚きに見開かれる。
瞠目したまま身動ぎ一つしない姿に溜息をついて、目の前で手を数回振った。ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、大声を出そうとした由香の気配に慌てて名前を呼んで止める。
「由香!」
「うっわわわっ、ごめん。ちょっと、驚きー。月哉さまには昔の事務所仲間って聞いてただけだったから、まさか。そうくるなんて」
由香の言葉に、彼女が情報を売った理由を納得した。恐らく、昔の恋人なんて言葉を使えば、由香だって私に断ってからとか警戒心を見せたはず。事務所仲間ならそれが緩むと思ったのかもしれない。その通りになったことが悔しいけれど。
「だから、ただ昔は芸能人とかアイドルだったーってオチかと思ってたのに!」
オチって……。
まあ、月哉の事務所仲間と聞いたら、そう思うのも当然か。呆れながら、違うと首を振った。
「事務所仲間じゃなくて。私ね、三年前はモデルしてたの」
ふと何か思い当たることがあったのか、あっと声を上げる。
「もしかして、貴子カメラマン専属モデル『Rei-ka』だったりする?!」
興味津々に聞いてくる由香に戸惑いながら頷くと、やっぱりという顔をした。
「どっかで見た顔だとは思ってたのよねー。でもほら。モデル『Rei-ka』って言えば、プロフィール一切明かされないので有名だったでしょ。しかも化粧してたから素顔もあんま、わかんないし。けど、間近で見たら、気のせいかと思うくらいなんだけどどっかで見たようなーってね。私、あの写真集キレイだったから大好きで何度も繰り返し見てたのよ。保存用と観賞用があるくらい!」
「えっ、あ。うん。 ――― ありがとう」
素直に告げられる言葉と、嬉しそうな笑顔に思わず私も感謝を口にする。芸能人とかにはあまり興味がないように思えていたけど、Girのこととか、私のこととか詳しいことが意外だった。兄がバンドをしているというから、実は意外じゃなかったのかもしれない。ただ、私が必要以上に ―― 距離を置くために知ろうとしなかっただけで。そういえば、普段の話題は課題レポートや授業のことだけで、プライベートなことは話したことがなかったような気がした。遠回しに避けていたことに気づいて、由香が遠慮していたのかもしれない。それでも、今回を切っ掛けに近づこうとしてくれているようにも思えた。
「あ、でも私が『Rei-ka』に興味があったのは、月哉さまと付き合ってるって噂があったからよ」
不意に思い出したように由香が言う。
三年前。確かに引けないところまで、そんな噂が出回っていた。あの頃の私たちは、世間にばれてもいいと思っていた。月哉はさっさと交際宣言しようとまで言ってくれてたし、私もそれを嬉しいと感じていた。
「で、月哉さまと付き合ってる女ってどんなんよって思って写真集を買ったの。けど、それを見て圧倒されちゃった。なんていうの? 一目見た瞬間、女である私が恋に落ちたの。圧倒的な存在感。華やかな姿。その中にある柔らかい笑顔とか、もう一ページ捲るごとに違う雰囲気に引き込まれて、気づいたら、納得してたわ。ああ。彼女なら仕方ないなって」
「 ――― 貴子さん、最高のカメラマンだからね」
世界でも指折りのカメラマン。彼女に撮って欲しいと願う芸能人は後を絶たない。芸能人だけじゃない。売りたい商品を持っているひとたちもだ。
由香の正直な感想に恥ずかしくなったけど、感動もして、それを知られたくなくて零した口調はちょっと震えてしまっていた。
「最初は無名だった貴子カメラマンをそこまで有名にしたのは、『Rei-ka』だったと思うけどなー」
小さい頃から叔母さんに撮られるのは大好きだった。両親を三歳で亡くしてから引き取って育ててくれた。いろんな仕事をして忙しくても寂しくないように病気になったときは片時も離れずに傍にいてくれたし学校の行事にはすべて、参加してくれた。だから、中学くらいになって叔母さんが趣味で撮り始めたカメラの被写体になってほしいと頼まれたとき、笑顔で頷いた。そう。最初は趣味だったのに。叔母さんが気に入った写真を投稿するまでは ―― 。
それがカメラマンの中では有名な賞の最優秀賞を取ってしまって、プロとして撮られる事になるなんて思いもしなかった。それでも、大好きな叔母さんの為になるならなんだってした。
「そっか。本当だったんだ。ふたりが付き合ってたの」
納得したような由香の声で現実に引き戻される。
「じゃあ、どうして月哉さまは冷夏の連絡先を知らなかったの? 私も住所は知らなかったから電話と大学だけ教えたけど、付き合ってるなら ―― 」
「別れたの。三年前に」
由香の疑問を遮って、私が少し強い口調でそう告げると、再び驚いた顔つきになった。私は構わず、説明する。
「モデルも辞めて、一緒に暮らしてた叔母さんの家も出て、大学に入ってアパート暮らしをすることにしたの。幸い、モデルしてたときはたっぷり化粧してたし、今はね。ほら。違うでしょ?」
そう言って、三年前はキレイだった今は赤毛でぼさぼさの髪をかかげて見せる。そして、化粧っ気のない顔の頬をつまんだ。そばかすまで少しある。三年前とは違う ――― 自分。
肩を竦めて、由香は苦笑を零した。
「どんなに姿を変えたって、目は澄んでるよ。昔のまま、変わらないんじゃない?」
その言葉にぎくりとする。同じことを柏木さんに言われた。
変わらないものがあるなんて、今は思いたくない。
私は誤魔化すように視線を前に向ける。そろそろ、人が集まってきていることに気づいた。教授も壇上で授業の準備を始めているのが見える。
「なんで別れたの?」
訊かれた言葉を頭の中で繰り返す。
(なんで? なんで私は月哉と別れたの ―― ?)
そうして、今も。あの月哉を頑なに拒んで、傷つけてしまうんだろう。本当はそんなことしたくないのに。だけど、これしか方法が見つからなかった。
「私はGirが好きだったから。歌ってる月哉を守りたいと思ったの」
Girとして、歌っている月哉 ―― 私が一番大好きだと思えるあの姿を。そうして、ファンが何よりも求めている月哉という存在を壊したくなかった。守りたかった。だから ――― なのに引退するなんて。それもやっぱり私のせいで。もう、どうすることが最善の道なのかわからなくなっていた。
「まだ、好きなんだね」
由香の言葉にはっと視線を動かす。柔らかい笑みを浮かべている彼女を見つめて、それからゆっくり頷いた。
「今も、ずっと愛してる」
それだけが嘘偽りのない月哉への気持ち。三年経っても変わらず ―― 離れればそれだけ想いが深く募っていく。再会してから、それを思い知らされた。どんなに月哉を愛していたか。愛しているか。
「大学で知り合ってから初めてじゃない? 冷夏がそーんな輝いたキレイな顔するの」
からかうように言われて、首を傾げる。そんなに普段は死にそうな顔をしているのか疑問に思った。それに気づいたのか由香は大きく頷く。
「目立たないように、息を潜ませて、隠れて生きてるみたいだったわ。誰も話しかけないでって空気を纏ってたの。自覚なかった?」
「 ――― 少しは、意識していたけど」
改めて言われてしまうと、そこまで酷かったのかと急に恥ずかしくなってしまった。確かに授業内でグループ分けがあっても、必要最低限の会話しかしていなかった。なるべく目立たないように ―― そこまで思って確かに由香の言う通りだと自覚した。
「大丈夫よ。私達ってもう二十歳は過ぎてるの。同期生が芸能人だったからってミーハー感情は出さないわよ。そこまで精神年齢子どもじゃないって。皆、未来の夢を掴むためにここにいるんだから」
おどけて言う由香の笑顔につられて笑ってしまう。そうね、と頷こうとして思い出したように彼女が付け加えた。
「あ、でも。絶対っていう保障はしないけどねー」
なに、それと不満を言おうとしたところで、教授がマイクを通して授業を始めると宣言してきたために軽く睨むことしかできなかった。最も、肩を竦めて流されてしまったけれど。
由香に月哉とのことを話せたことが心を少し軽くしてくれたような気がした。
「へー。じゃあ、いい友達に会えたのね」
スタジオの一階にあるレストランの個室を予約していた叔母さんは私を招き入れるなり、大学での話を聞いてきた。授業のこと。友達のこと。サークルは入ってないのと訊かれて首を横に振ったらがっかりされた。それでも私にとって大切だと思えることを聞いてくれて、こうして喜んでくれるのは凄く嬉しい。
運ばれてきた料理に舌鼓を打ちながら、会話を続ける。内容はつきることがなかった。料理も片付けて、食後に叔母さんは珈琲を。私はミルクティーを注文した。お互いにそれを一口含んでソーサーに戻す。そうして、叔母さんは真剣な顔つきになった。
「月哉クンの様子はどうだった?」
単刀直入に訊かれて、私は戸惑いながら小さく首を横に振る。それを見た叔母さんはそう、と溜息を零した。しばらく考え込むように黙っていたけれど、テーブルに落としていた目線を私へと向けて意を決したように口を開く。
「冷夏。貴女はまだ月哉クンが好きでしょう」
見透かすような断定された言葉に、嘘をついたり、誤魔化す気にはなれなくて私も叔母さんをまっすぐ見返す。
「月哉のことはずっと……。ずっと好き」
由香にも答えた言葉。月哉以外になら、こうして素直に言えるのに。
苦いものがこみ上げてきて、ミルクティーを流し込む。少し冷めてしまって、濃くなった甘さが口の中に広がっていく。
「三年前は、月哉クンと別れたって貴女はぼろぼろに傷ついて泣いて、苦しんだ。だから私は理由を聞かなかったの。それが貴女の選んだ道ならって。それに、推測はしたのよ。月哉クンが海外に行くために別れたのかもしれないって。けど」
カップを持ち上げて、珈琲を含んで舌を湿らせてから、叔母さんは後悔が入り混じった口調で告げた。
「 ――― 間違ってたわ」
どきり、と胸が跳ね上がる。
カメラ越しでも相手の真実の姿を見抜こうとする叔母さんの目はいつもまっすぐで、時々すべてが暴かれそうになって怖くなる。普段は気安い口調と穏やかな雰囲気に忘れてしまうけど。今、確実にその鋭い視線が私に向けられていた。
「正直に言いなさい。どうして、月哉クンと別れたの?」
できればずっと、胸の奥に閉まっておこうと決めたこと。誰にも話さないと誓った。
「……叔母さん、私は」
拒否しようと思った。だけど昼間、由香 ―― そしてさっき叔母さんと話していたときに気づいた。今も変わらずに私は月哉を好き。愛してる。一度気づいたら、せき止めていた想いが溢れだした。胸が苦しくなる。テーブルの上でいつのまにか握り締めていた手の甲に涙が落ちた。
「私、月哉が歌うところが大好きだったの。だから、守りたかった……。Girを ―― 月哉を、守りた、かった……」
「冷夏」
そっと、手の平が温もりに包まれる。叔母さんの手が包み込んでくれていた。
「奪っちゃダメだと思った。皆の月哉だからっ、私のために月哉がっ」
溢れ出した涙が止まらずに泣きじゃくる。
叔母さんが傍に来てから優しく抱き締めてくれた。よしよしと頭を撫でられる。
「もう、いいの。いいのよ、冷夏」
慰めてくれる叔母さんの言葉に我慢していたすべてが流れ出していくような気がした。
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