Don't cry baby [後編]
Don't cry baby [後編]
柏木さんにお願いして、ホールの扉を開けてもらった。玄関のドアは開きっ放しで、怪訝に思いながらも部屋の中に足を踏み入れる。リビングに続くドアを開けると、光の差し込むソファのうえに月哉が寝そべっている姿が見えた。真っ黒で触るとさらさらと零れる髪が日差しを受けて煌いていた。肌は女性のように滑らかなのに青白く、血の気を失っている。いつも元気だったのに、随分やつれていた。心臓を鷲掴みにされたみたいに痛みが走る。こみ上げそうになる熱い感情をぐっと飲み込んで、月哉の上部に空いているスペースにそっと、座った。
「 ――― 戻ってきたの?」
少し掠れている声。静かな口調に、うん、と私は頷いた。月哉が伸ばしてきた手をそっと、握る。ひんやりとした冷たさに、泣きたくなる。我慢して、私は光が差し込んでくる窓を見たまま、口を開いた。
「私の話を聞いてくれる?」
月哉は再び黙り込んだ。それを肯定と受け取って、私は話を続ける。
「ずっと黙っていようと思ったの。だけど、叔母さんに間違ってるって言われちゃった。だから、ね」
「冷夏。話して」
何の感情もなかった口調に優しさが滲んで、胸が熱くなる。うん、ともう一度頷いて、私は話すことにした。
「……三年前。私が男の子に囲まれてもみくちゃにされたとき、助けてくれたよね。覚えてる?」
二人で街に出掛けて、ちょっと油断したとき。私のことに気づいた男の子がいて、たちまち二人は囲まれた。髪の毛や服やら触られてもみくちゃにされそうになったとき、月哉が男の子の何人かを殴った。私を守るための正当防衛だった。殴られた相手よりも、私や月哉の状態が酷かったから。だから事務所側も警察も穏便に片付いて、表沙汰にはならなかった。
「ああ、もちろん。どんなことだって冷夏とのことを忘れたことはないよ」
起き上がった月哉に肩を抱き寄せられる。私は身体の力を抜いてそっと、もたれた。繋いだままの手に力を込める。
「あのとき ―― 。写真を撮られてたの」
「っ、まさか! それで脅されたのか?!」
握られている手を引っ張られる。月哉の身体と向き合わされて、切羽詰った目で見つめられた。私は空いている手をその頬に当てる。大丈夫という意味を込めて。
「撮ったのはある雑誌の女性記者で、Gir ―― 月哉のファンだったわ。ある日、彼女から連絡を受けて、私は会ったの。そして言われたわ。写真を載せて欲しくなかったら、月哉と別れてほしいって」
彼女は私に言った。
『二度と彼に会わないとあなたが約束してくれるなら、この写真は公表しないわ』
頬に触れていた手も月哉の手に掴まれた。ぎゅっと握り締められる。まっすぐに向けられている青い目が悲しげに揺れる。
「俺は、そんなのかまわなかった。冷夏が傍にいてくれるなら ―― 」
「私も! 私も最初は構わないって言ったの」
月哉の言葉を遮って、私は先を続ける。
「写真を載せればいいって。正当防衛だし、私達は何も悪いことしてない。月哉と別れるなんて考えられないって」
あのときの私達は、本当にお互いしか見えていなかった。誰に邪魔されても。どんな障害があっても二人なら簡単に乗り越えられる ―― そう思ってた。
私の言葉を聞いた月哉は頷くように、そっと握っていた手に唇を落とした。
「だけど、二度目に呼び出されたとき、記事を見せられたのよ。その記事には、月哉が一方的に男の子たちを殴りつけてる写真があった。私の姿はどこにも写っていなかった。記事にも月哉のことしか書いてなくて」
「そんなのは訂正させられるだろう!」
「一度出てしまったら、訂正したってイメージダウンになるでしょ!」
しかも、海外に行く話が出ていた大切なときだった。
月哉は傷ついたように瞼を伏せた。
「冷夏は俺が信じられなかった?」
「 ――― 違う」
「そういうことだろっ。俺がそんなスキャンダルで。それも間違った中傷なんかで潰れるって思ったんだろう?!」
「そうじゃないっ! 私は怖くなっただけっ!」
怒りを秘めた青い目をまっすぐ見つめ返して、私は声を上げた。
「いつも冷静だった月哉が、あのとき、Girのことも。自分の立場も考えずに私を守ってくれた。すべてを捨てて。それが怖くなったの! 月哉が、怖かった」
「なんだよ、それ。自分の彼女を守るのは当然じゃないわけ?」
ハッと呆れたように嘲笑されて、私は首を横に振った。
「それは嬉しかったよ。でも、私はっ。私のためにファンもGirも捨てようとする月哉が怖かったの! 私はそんなに ―― そこまでしてもらえるような人間じゃないのに。そんなにしてもらったって、私が月哉に返せるものなんてなにもなかったのにっ!」
胸が焼け付くようにたまらなく熱くなる。涙が溢れてきて、月哉の姿がぼやけていった。
「私が出来ることは、月哉から離れることだって思った……。月哉を応援してるファンのためにも。私が月哉を奪うようなことしちゃダメだって……」
「ばかだよ、冷夏は……」
月哉が頬に伝う涙を親指で拭ってくれる。そのまま、腕の中へ抱き寄せられた。慰めるようにゆっくりと背中を撫でられて、何度も優しい声で「バカだ」と繰り返される。
「月哉と別れて思い知らされたの。私にとって、月哉は本当にすべてだったって。ひとりになったら何にもなくなって、それじゃダメだと思った。だから、頑張って大学に入ったのよ。一人暮らしも始めて、ちゃんと自分の足で立ちたかった……」
叔母さんの夢じゃなくて自分の夢を見つけたかった。月哉に守られてばっかりいた自分から抜け出したかった。
私の言葉に、背中を撫でていた月哉の手が止まった。代わりに更に強く抱き締められる。そうして、耳元で囁かれた。
「それが叶った今、冷夏には俺は必要ない?」
絶望が入り混じった口調に、胸が痛む。月哉の背中に両腕を回して、抱きついた。伝わってくる温もりは三年前と変わらず、温かくて。優しい。それを感じながら、心を込めて言う。
「 ――― 今も、ずっと、私は月哉を愛してる」
びくりと月哉の身体が小さく震えるのを感じた。身体を離される。至近距離で覗き込んでくる目は驚きに染まっていた。
「もう一度言って」
その顔を可愛らしく感じてしまって、口元が緩む。
「私は、月哉を愛してる」
「冷夏っ!」
再びぎゅっと抱き締められた。
愛してる、と耳元で甘く、囁かれる。キレイな声は、優しく胸の中を温もりで満たしていく。私も月哉を抱き締める。ずっと、焦がれていたひと。別れてもなお、愛しさが募っていった大切なひと。この三年間で思い知らされたのは、ただ月哉を愛してるってことだった。
少し身動ぎして、月哉から離れる。顔をあげると、青く澄んだ目に優しく ―― 甘い光が浮かんでいるのを見つけた。愛おしさと、以前と同じその姿に懐かしさがこみあげてくる。
誘われるようにそっと、唇を重ねる。ついばむように軽く。たちまち、月哉は嬉しそうに微笑んで、今度は逆に深く口づけられた。三年の時間。二人の隙間。その間をすべて埋めるように私は月哉を抱き締めて、月哉は私を求めた。
優しく髪を撫でられる感触に、ゆったりと瞼を開ける。暗がりの中で、窓の外の三日月が見える。淡い光が薄っすらと部屋の中まで届いていた。
「……髪は随分痛んでるでしょ?」
自嘲して言う。手入れをサボっている自分の髪の状態を思い出して、急に恥ずかしくなった。
「キレイだよ。冷夏は変わらない」
一欠けらの嘘も混じっていない、真剣な口調で言われたことに苦笑する。月哉の私に関する言葉はいつだって大げさで信じられない。呆れてしまうけど、そう言ってくれるならいいかと納得してしまうから困る。
ソファに寝そべっていた身体を起こして、昼間とは逆に座っている月哉を見ると、彼は撫でていた手とは反対の手にカップを持っていた。
「冷夏のミルクティーはそこ」
視線でテーブルの上を示される。それを追うと、湯気がたつ淹れたてとわかるミルクティーが入ったカップが置かれてあった。ありがとう、と言って手を伸ばす。口をつけると、じんわりと温かさが染み渡ってくる。ほっと息をついて、ソーサーに戻した。
そっと、私は月哉の肩にもたれて月を眺める。時折、月哉が珈琲を飲む動きが触れている箇所から伝わってくる。居心地がいい空間がとても幸せで、熱い感情がこみあげてきた。
( ――― ずっとこの時間が続けばいい。)
そう思った瞬間、それが三年前も願ったことだと思い出して苦笑する。そういうわけにはいかない。私だってあのときから少しは成長したつもりでいるから。それは言わなければいけないことへの覚悟を決めさせた。ごくりと飲み込んだ音が思うよりも大きく聞こえる。
「つき ―― 」
「約束してほしい」
呼びかける声を遮って月哉が言う。驚いて顔を向けようとして、肩に回されていた手でぐっと胸に押し付けられた。
「そのままで聞いて」
真剣な口調に思わず頷いた。少しだけ不安を覚えてぎゅっと月哉の服の裾を握る。月哉が苦笑して、手に持っていたカップをテーブルに置くのがわかった。空いた大きな手が裾を握っている私の手を包み込む。
「三日に一回は冷夏から電話をすること」
「っ!」
「会えなくても我慢する。ちゃんと仕事を頑張る。だから ―― 」
胸がうるさいほどに高鳴ってる。私の顔を胸に押し付けていた手がはずれたことに気づいて、身体を離す。月哉を見ると、怖いくらい真剣な目が見つめてきていた。緊張しているのが伝わってくる。視線を逸らせずに見つめ返していると、握っていた手をもちあげて月哉がそっと、キスをした。
「だから、冷夏が卒業したら結婚しよう」
小さく息を呑む。あまりに月哉らしい言葉に頬が緩んでしまう。
「本当に? あと二年。電話だけで我慢できる?」
「もう逃げないって約束してくれるなら頑張れるよ」
「私、約束ばっかりね。もう月哉から逃げないってこと。三日に一回は電話すること。そして、卒業したら月哉と結婚するってこと」
だけどそれはとても幸せな約束で、嬉しくて胸がいっぱいになる。堪えきれずに涙が溢れてきた。
「あとひとつ」
指先で涙を拭ってくれながら、思いついたように優しく微笑んで月哉が言った。
「少なくとも離れてる間はもう泣かないこと。冷夏が泣いたら、俺は放って置けなくなる」
優しくて ―― その声も。言葉も。だけど、月哉の今にも崩れそうな微笑みに涙が止まらなくなる。視界が歪んでいく。月哉に飛びついて、強く抱き締める。
「っ、約束する。ぜんぶ。ちゃんとっ、ちゃんと自分の夢をかなえたら、その足で月哉を迎えに行くから! 二年。あと二年だから!」
「 ―― 消息不明の三年より、短いことを祈るよ」
笑いを含んだ声が聞こえる。それでもその言葉は切実に胸に響く。溢れてくる愛おしさと、ほんの少しの寂しさをこめて、その日帰る時間になるまでずっと、愛してると月哉に伝え続けた。
大学の図書館前のベンチ ―― いつもの場所に座ってお弁当を食べていると、用事があって教授のもとに行っていた由香が手を振って走ってきた。
「お待たせー」
「先に食べてるよ」
そう答えると由香は頷いて、向かい側に座った。お弁当を取り出して早速とばかりに食べ始める。学科の課題レポートについて話していたら、側にある違うテーブルに座っている女の子たちの話し声が聞こえてきた。
「今度、Girのワールドツアーがあるらしいよ」
「チケット取れないだろうなー」
「月哉様。前にましてかっこよくなったよね!」
目の前では由香がいちいち頷いている。その姿が可笑しくて、吹き出してしまった。なによ、と不満そうな目と合うとお互い我慢できずに笑みを零してしまう。
「そうそう! 男っぽくなって、もう見る度に惚れ直しちゃうー」
「あー。ライブ行きたいよね!」
女の子たちの会話は続いてる。
その笑顔を嬉しく思う。幸せな気持ちになりながら、私は残りのおかずに箸をつける。
「 ―― 二年は長い?」
顔を上げると、由香が真剣な目で見つめてきていた。
その言葉を私は少し、考える。二年。普通だったら、きっと長い。会いたくてたまらなくなるだろうし。寂しくて、我慢できなくなるときがあるかもしれない。だけど、離れていた三年間。私は確かに強くなったと思う。大丈夫、と笑って言う。
「もっと器用にできたらいいのにとは思うけど、彼とちゃんと向き合っていくのなら、夢を叶えてからじゃないと。相手が素敵過ぎると、負けちゃうもの」
夢を叶えて、自信を持って、隣に立ちたい。それには必要な時間。自分の夢を叶える事が出来たら、正々堂々と胸を張って月哉のところに行ける。だから頑張る。何があっても、負けない。
「そっか。じゃあ、あと二年。頑張って卒業しようね!」
由香の言葉に私は頷いた。
ふと、携帯電話の着信音が流れ出す。三年前は登録していなかった、新しい番号。流れているのは音だけど、歌もちゃんと入ってる。
『冷夏のための歌を作ったから』
月哉がそう言って、さっさと自分で設定していた。
タイトルは、Don't cry baby ――― 。
頬が緩むのを感じながら、私は携帯電話のボタンを押した。
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