Don't cry―過去編[前編]
Don't cry baby 過去編 [前編]
三年前 ―― 。
「はーい、冷夏。こっち向いてー」
その合図に思わず振り向くと、ぱしゃりとシャッターを切る音がした。お弁当を食べていたところで、箸を口につけたまま。それに気づいて、眉を顰める。
「叔母さん、食事中なんですけど」
「だって、冷夏は食べてる姿も可愛いんだもの」
うっとり、と見惚れるように見ながら言うのは、カメラマンであり、叔母の貴子さんだった。再びカメラを向けられて、読んでいた雑誌で顔を隠す。三十代も終わりになっても、お茶目で明るくて、いつだって母親のように傍にいてくれる叔母さんのことは大好きだけど、このどこでもカメラで撮ろうとするのは正直言って止めてほしかった。小さい頃から慣れ親しんでしまったために、カメラを向けられるとつい笑顔になってしまう。泣いていても、怒っていても。
「スタジオ、もうすぐ準備できるんでしょ? できたらちゃんとモデルになるから、今はしずかーに食事させてください」
お腹が空いていて、ただでさえ不機嫌だというのに、カメラを向けられて無意識でも笑顔になる自分に溜息をつきたくなってしまう。叔母さんは苦笑して、肩を竦めると向かい合わせの椅子に座った。そのまま、私が読んでいた雑誌を取り上げて広げていた箇所に視線を走らせる。
「あらあら。月哉クンたち、新曲ランキング1位? またギネス記録更新ね。ほとんどの歌が10位内にランクイン中って、相変わらず独走してるわ」
すっかり呆れたような口調で言う叔母さんに、今度は私が苦笑した。そのとき、お弁当箱の横に置いていた携帯電話が震える。設定している着信音に、カメラを向けられるときとは違う、嬉しさから広がる笑顔が浮かぶのを感じながら電源を入れた。
「冷夏、新人のスタッフがいるから気をつけてね」
電話の相手に気づいた叔母さんはそう警告して、私が頷くのを見てから準備中のスタジオの様子を見に行ってしまった。
『 ―― 冷夏、仕事終わった?』
優しくて少し高めのキレイな声が受話器越しに聞こえてくる。目を瞑ると、話している相手 ―― 月哉の姿が浮かんだ。真っ黒いサラサラの髪。いつだって、優しく見つめてくれる澄んだ、青い瞳。胸にじわりと甘い感覚が落ちる。
「実は準備が遅れてて、まだ終わりそうにない。そっちは終わったの?」
『レコーディングはね。あと歌番組の録画がひとつ。今は移動中でさ』
「大丈夫なの? 誰かに聞かれたりしたら ―― 」
思わず心配になってそう言うと、ムッとした声が聞こえてきた。
『そういう心配はするなって言ったと思うけど』
――― でも、と反論しようとして、電話越しに違う声が割り込んでくる。
『ヘイキだよ。こいつ、冷夏ちゃんに電話したくてマネージャー追い出してオレに運転させてんの』
月哉のパートナー、響さんの言葉に、ほっと胸を撫で下ろしながら、同時に呆れてしまう。借りを作ることが嫌いな月哉がそこまでして電話をしてくれたことは嬉しいけれど。
「ごめんなさい、響さん」
『いやぁ。今度のキミの写真集で手を打とう。もちろん、サイン ―― わっ、月哉っ! 冗談だ! 待て。運転中に暴力は反対だっ!』
じゃれあういつもの二人の姿が浮かんで、笑みが零れる。
『まったく、黙って運転してろよ。 ―― 冷夏。明後日から三週間も沖縄に行くんだって?』
ぎくりと、顔が強張るのを感じた。
そういえば、まだ言ってなかったんだった、と思い出す。つい言いそびれてしまっていた。下手に誤魔化してしまうよりは、素直に謝ろうと頷く。
「ごめんね。叔母さんの思いつきで急に決まったの」
『あのこと ―― 貴子さんに言うなら黙ってたこと許してやってもいいよ』
「あのこと?」
唐突に比喩された言葉を思いつかずに繰り返す。電話越しに苛立ったような声が聞こえてきた。
『とぼけてる? ほら、一緒に』
「わっ、あ、うん。もちろん、思い出した!」
『思い出したって……。で、どうする?』
促される答えに、戸惑ってしまう。勿論、嬉しいけど、そうなると叔母さんを一人にしてしまうことになる。月哉と一緒に暮らす ―― 同棲。いくらお互いに仕事を持っていて稼いでいるからといって、まだ未成年。許してもらえるとは思えない。わかっているから、言い出せなかった。
「おばさんをひとりにするなんて、まだ……」
『冷夏は俺と一緒にいたくないの?』
苛立った口調で問いかけられて、慌てて返す。ぎゅっと携帯を握る手に力がこもる。
「そんなことないっ。気持ちは同じ、一緒にいたいよ」
『だったら、沖縄に行く前にちゃんと話すんだ』
「はっ……えっ?」
戸惑っている間に、じゃあまた、と声がして電話は切れた。音だけが繰り返し流れて、眉を顰める。
(沖縄に行く前にって、明日明後日 ―― 二日もないじゃない。)
月哉のことは大好きだけど、時々その強引さに困惑させられる。
呆れて、溜息が零れた。
「 ――― どうしよう?」
呟いたところで、答えが見つかるはずもなく、スタッフが呼んでいる声にとりあえず返事をして撮影に向かうことにした。
―― 結局、言い出せなかった。
光が反射して煌く水面を眺めながら、その明るい光景とはうらはらに気持ちが沈んでいくのを感じた。あの電話を受けてから沖縄に来るまでずっと、言おう言おうと叔母さんの様子を窺っていたけれど、なかなか口に出せないでいた。
月哉と一緒に暮らす ―― そのことで失うものがある。それは彼を好きだという気持ちだけで補えるものじゃないような気もする。ようするに、まだ自分は子どもで、守ってくれる親から離れたくないんだと自覚していた。だからこそ、引き伸ばしにしてしまうんだろうと。
「期間は余裕を持って取ってあるから、いい写真をじっくり撮りましょうね」
同じように隣に立って、海を眺めている叔母さんの言葉に頷いて、視線を向ける。おばさんは眩しげに目を細めて、気持ちよさそうに背伸びをした。
「叔母さん、沖縄は初めて?」
「ええ。反対の北海道は若いときに行った事があるけどね。今度の撮影は北海道にしましょう! あっちならいろいろ案内できるわよ!」
いいこと思いついた、とばかりに目を輝かせて言う姿に、私も嬉しくなる。小さい頃から忙しくて、旅行とか遠出に連れて行けなかったことを叔母さんなりに後悔して、今この機会に一緒に回ろうとしてくれていた。その気持ちが感じ取れて、胸が温かくなる。両親がいないことを引け目に感じることがないほどの愛情を捧げてくれる叔母さんを悲しませるようなことは、どうしても言えない。
「楽しみにしてるね」
微笑みながら、叔母さんから視線を逸らして海に投げかけた。
海を見ているのは好きだったはずなのに、こんなに綺麗な光景を前にしても気分が滅入ってしまう。それが叔母さんに言えないからか、これから一ヶ月近くも月哉に会えないせいかはわからなかったけれど。
「冷夏。そろそろ行くわよー」
叔母さんが呼んでいる声に返事をして、踵を返した。
――― やばい。
叔母さんの眉間に皺が寄っている。それを見て、背筋に嫌な汗が伝うのがわかった。日差しは照りつけ、砂浜は煌き熱を煽っているというのに、全身が寒さを訴えていた。こみあげてくる気持ち悪さを唾を飲み込んで誤魔化した。だけど、カメラ越しの叔母さん相手にその誤魔化しは通じそうもなかった。
「休憩しましょう。冷夏、ちょっと来なさい」
滅多に命令口調にならない叔母さんの無機質な声に、覚悟を決めて近づいていく。その間にスタッフは準備することもあるのか一旦、散らばっていった。
「やっぱり、熱があるじゃないの!」
スッと額に手の平が触れる。すぐに叔母さんは顔を顰めて声を上げた。ばれた。一瞬そう思ったものの、咄嗟に笑みを浮かべる。
「これくらいはヘイキ。まだ、もう少し頑張れるよ」
「何言ってるのよ。そんな体調で良い写真なんて撮れるわけないでしょ!」
「……叔母さん。お願いだから」
恐らく解散を告げるためにスタッフを集めようとした叔母さんの腕を掴んで、真剣に告げる。自分の体調管理が悪いのが原因で他人に迷惑をかけたくはない。そう思って縋るように見たにも関わらず、叔母さんは腕を掴んだ手をはがして、握ったまま強い光を瞳に宿して言う。
「だめよ。冷夏、これは仕事じゃないのよ。言わば、私の我侭にあなたをつき合わせてるの」
その言葉にはっと、息を呑む。そんなふうに、叔母さんが思っているなんて予想もしていなくて、目を見開く。
「なんで、だって、これは……私の」
「これは私の夢なのよ、冷夏」
意志の強い視線に貫かれる。叔母さんに握られている手から力が抜けるのを感じた。優しく頭を撫でられる。寂しさを感じるとき、悲しい思いをしているときに必ずしてくれる仕草。何も心配することはないと、伝わってくる温かい抱擁。
「……叔母さんの夢は私の夢なのに」
思わず零れ落ちた言葉に、厳しい顔つきをしていた叔母さんは呆れたような視線を向けてくる。
「あなたは、もっと我侭になるべきね」
小さく肩を竦めて、そう言われた。意味がわからずに首を傾げる。だけど、問いかける前に、素早く叔母さんはスタッフに声をかけて今日は解散だと告げた。私も早く休むよう言われて、即座にホテルに送り届けられることになった。
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