Don't cry―過去編[後編]

 モクジ / モドル

  Don't cry baby 過去編 [後編]  


 フロントで部屋の鍵を渡してもらって、エレベーターに乗った。階数を押して、閉めようとした瞬間、帽子を深く被った男の子がギリギリの隙間を通って入ってきた。
 (……危ないなぁ。)
 その動きに目を見張る。慌てて入らなくても、他にエレベーターはいくつもあるのに、よっぽど急いでるんだろうかと疑問に思った。だけど、階数を押そうとしないことに違和感を覚える。
 (同じ階?)
 そんな偶然があるだろうか。階数ごとの部屋数が多いわけでもなく、しかも今はシーズン中でもない。平日で、いくら観光スポットとはいえ、泊り客は少ないはずなのに。

 「冷夏、顔色悪い?」
 「 ――― え?」
 不意に自分を覗き込むように見てくる帽子を被った男の子に気づいて、顔をあげる。髪は隠れているけれど、青い目に気づいて、息を呑む。
 「つっ、月哉?!」
 なんでここにっ、と叫びそうになって、それより早く月哉の手が額に伸ばされる。ひたりと押し当てられた手の平の冷たさに、困惑する。
 「熱っ、冷夏、この馬鹿っ!」
 唐突に身体がふわりと浮き上がった。厳しい顔つきで見つめてくる月哉に、驚きやら戸惑いやら感情が混ざり合って、言葉を失う。どうしてここに、とか。何で抱き上げるの、とかぶつけたい疑問が頭の中を埋め尽くして、だけど気持ち悪さが勝ってしまい、声を発することができなくなった。ただ呆然と、間近にある月哉のキレイな顔を見つめる。
 「部屋は?」
 エレベータの扉が開くと同時に訊かれて、ぼんやりする意識の中、番号を告げる。なるべく振動が伝わらないように気を遣っているのがわかる。ドアを開けて中に入ると、優しくベッドの上に降ろされた。
 「ちょっと待ってて」
 そう言って、ベッドルームを出て行った月哉はホテル備え付けの部屋着と濡らしたタオル、冷たいペットボトルを持って戻ってきた。
 「これに着替えて」
 動かすたびに痛みを感じながら、なんとか渡された部屋着に着替えて、渡されたペットボトルに口をつける。冷たい水に喉を潤されて、ほっと息をついた。再び横になると、濡れたタオルを額に置かれる。熱に意識が朦朧としてくる。だけど、一番の疑問を解決するまでは、眠りに引き込まれるわけにもいかなかった。唾を飲み込んで、重く感じる唇をゆっくりと開く。
 「……月哉、どうしてここに?」
 「そんなわかりきった質問に答えろって? いいから、熱が下がるまで大人しく寝て。話は起きてからしよう」
 その強引さに、やっぱり月哉なんだと思って頬が緩むのを感じた。此処に来てからずっと感じていた不安と緊張感がゆっくりと解けていって、安堵感が胸いっぱいに広がっていくのを感じる。それと同時に眠りに引き込まれていった。

 目を開けると、部屋の中がすっかり暗闇に染まっていた。聞こえてくる、甘く優しい歌声と、繋がれている手を辿って視線を向けると、最小限に絞られた間接照明に照らされて、膝に置いた何かの紙を見ながら口ずさんでいる月哉がいた。柔らかな光を受ける横顔は、キレイで目を奪われる。ただでさえ、普段も見惚れてしまうのに、余計に目が離せなくなって、溜息が零れてしまった。
 「 ―― ごめん、起こした?」
 気づいた月哉が紙をサイドテーブルに片付けて、即座に椅子から立ち上がりベッド脇の空いてるスペースに移動する。握っている手とは反対の手がするりと、頬に伸ばされて、優しく撫でられる。
 「……私。どれくらい寝てたの?」
 「もう真夜中だから、半日は。貴子さんと医者が途中で来たけど、覚えてない?」
 言われて記憶を探ってみたけれど、全く覚えてない。首を振ると、月哉は長く息をついた。
 「まったく、びっくりさせるなよ……」
 「ごめんね。心配かけて」
 素直に謝ると、月哉の顔に優しい微笑みが浮かぶ。
 上半身を起こして、差し出してくれたペットボトルから水を飲む。月哉がさっき見ていた紙に気づいて、訊いた。
 「あれ。新曲?」
 ああ、と頷いて、月哉はサイドテーブルに置いた紙を再び手に取った。ひらりと返して見せてくれる。楽譜は下書きらしく、何度も書き直しているところはあったけれど、音符とキレイな字で歌詞が書かれてあった。
 「新曲のプロモーションで、此処に来る予定を作ったんだ。冷夏を驚かせたかったから、内緒にしてたけどね」
 悪戯っぽく笑って、青い目を煌かせる。
 「作ったって、わざわざ?」
 「そ。夏の海ってイメージで。三週間も会わずにいられるわけない」
 拗ねたように言って、繋いだ手を強く握り締められる。その口調がなんだか子どもっぽくて笑ってしまった。不機嫌に月哉が眉を顰める。ごめん、と小さく謝って、私は繋いでいる月哉の手をもう一方の手で優しく包み込んだ。
 「私も、会いたかった」
 「冷夏……」
 「会いたかったよ、月哉に」
 そう言って、月哉を見つめる。スッと細まる青い目に、熱が宿って、甘い口づけが落とされる。最初は軽く、重ねるごとに深まって ―― 。伝わってくる熱と、蕩けるような甘さにくらりと眩暈がして、思わず月哉の胸にしがみついた。
 「……冷夏が熱を出したのは、ストレスだって。風邪じゃないし、いい?」
 なにが、と顔をあげて問いかけようとして、再び唇を塞がれる。すぐに理解して、言葉で頷くよりも先に月哉に抱きついた。

 ――― ストレスの原因は俺にもあるよな。
 ダブルベッドに並んで寝そべりながら、月哉がぽつりと零した。えっと、顔をあげると、優しく私の髪に触れて、悲しげな顔をする。
 「俺が同棲の件を貴子さんに話すよう急かしたから。大事な仕事を前にする話じゃなかった」
 「それは……」
 どう答えようか迷って、言葉に詰まる。月哉と一緒に暮らしたい気持ちは私だってある。だけど、叔母さんと離れたくないって想いも強くあって、両親の代わりにできた大切な二人の狭間で、身動きが取れなくなった。
 「冷夏が貴子さんを大切に想ってるのはちゃんとわかってる。だけど、それでも俺は、もっと冷夏と一緒にいたい。お互い、仕事で忙しい分だけ傍にいたいんだ」
 「月哉……」
 「俺のことだけ。俺とのことだけを考えてほしい。我侭だとわかってるけど、俺は、もう冷夏のことしか考えられない」
 髪に触れていた手がゆっくりと存在を確かめるように肌に滑り落ちてくる。
 ――― 瞼、頬、唇。覗き込んでくる青い瞳が、切なく揺れる。いつも冷静な月哉は時折こんなふうに、我侭を言う。押し隠している本音を正直に口に出せるのは、私だけだと言われると、それを咎めることもできない。嬉しいと感じる気持ちが大きければ、余計に。

 「ひとつだけ、訊いていい?」

 ふと、思い出してそう問いかける。不思議そうに瞬きを繰り返して、月哉は苦笑した。どんな場合でも、話を聞いてくれるのは月哉のいいところだと思う。

 「月哉の夢って何?」
 「俺の夢?」
 考え込むように、月哉は自分の頭の後ろに腕を置いて、少し体勢を変え天井を見上げる。その横顔を見ながら、私は答えを待った。
 「プライベートなら、冷夏と結婚して、一軒家に広い庭。犬と冷夏に似た子供たちに囲まれて暮らすことかな」
 あっさりと告げられる言葉に、かっと頬が熱をもった。まさかそんなことまで考えているとは思わなかった。
 「っ、月哉?!」
 「仕事としては、そうだな。やっぱり、世界ナンバーワンの歌手だって認められるようになりたい。あーでも、これは夢じゃなくて必ず叶える現実か」
 仕事の話になると、急に自信が溢れてくる月哉に呆れてしまう。だけど、あまりにらしいといえば、そうだけど。確かに月哉と響さんの実力を持ってすれば、それは必ず叶う。今だってもう、それは手の届く位置まできているのを知っている。あとは、海外で ―― 。
 「冷夏の夢は?」
 どくりと心臓が高鳴る。
 (私の夢は ――― ?)
 「私の夢はずっと、叔母さんのモデルになっていい写真を撮り続けること。叔母さんがプロのカメラマンになってずっとそう思ってたんだけど ―― 」

 『これは私の夢なのよ、冷夏』

 きっぱりと言われた言葉を思い出して、胸がずきりと痛む。ずっと思っていたことが、違うと言われたなら、どうすればいいんだろう。
 不意に唇に温かいものを感じて、月哉にキスをされたと気づいた。
 「てっきり、俺のお嫁さんって言ってくれると思った」
 顔を離して、拗ねたように言う月哉の言葉に一瞬驚いて、笑みが零れる。
 「月哉って時々、少女思考よね」
 「せめて、ロマンチストって言ってくれる?」
 ますます不貞腐れる顔と口調は可愛らしくて、落ち込んでいきそうになる思考を引き止める。
 「まぁ、とりあえず。同棲を貴子さんに一緒に言おう」
 結局はそこに戻るんだ、と譲らない月哉に呆れる。だけど、それもいいかなと思ってしまった。月哉のお嫁さんが夢になるのも、きっと幸せなことだから。その前にまずは同棲から始めるのもいいかもしれない。
 「……うん」
 私が頷くと、ぱっと月哉の顔に笑顔が浮かぶ。
 「反対されても、俺は諦めないから。冷夏も負けるなよ」
 「…………うん」
 叔母さんの怒った顔が浮かんで思わず返事が遅れてしまう。じろりと月哉に睨まれて、慌てて言った。
 「大丈夫だよ、月哉。私も、覚悟を決めたから」
 今回の写真集を撮り終えたら、月哉と一緒に暮らそう。
 夢だと思っていたものを見失って、今はそれに縋りつくことでしか、叔母さんのカメラに向かって、笑えそうにないと感じた。

 『 ――― あなたは、もっと我侭になるべきね』
 叔母さんの言葉が、頭の片隅に強く残っていた。

モクジ / モドル
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