たとえば、君に ――
01. 偶然の出会い
たとえば、君にいつか聞けるだろうか。
出会った未来と出会わなかった過去と、選べるとしたら、君はどちらに手をのばしただろうか、と。
たとえば、君は ――― 。
彼がイチ押しなんだよ、相模(さがみ)さん。
猫撫で声で迫ってくる男は、ずいっと一枚の写真を押し出してきた。髪の毛が薄い脂ぎったてかてかの額を見ているよりマシかと視線を写真に向けると、二十代半ばの青年が爽やかに微笑みかけてくれていた。髪はふわふわと綿菓子のようで、真っ黒い瞳には優しい光があった。人好きのする犬が思い浮かんで、見ていると和んでしまう。これまでにも様々な写真を見せられたけれど、一目でオエッてくるようなナルシストめいた写り方や見ただけで合わないと思ったひとたちに比べると、随分好印象を受ける。
「どうですかね?」
いいでしょうと、自信を込められた声に我に返った。
いけない、いけない。脂ぎったおじさん(名前は忘れた)が今は現実だった。どんなに犬好きでも、私は脚本家。出演する俳優を決める権限があるわけでもない。特に今回はすでに決められてると言ってもいい。内輪のみの公然の秘密だけど、オーディションをすると言っても、出来合いレースに過ぎない。だから押しかけてこられても困る。
どう断ろうか悩んでいると、タイミングよく携帯が震えた。助けてあげるよと言ってるみたいで、笑いそうになるのを堪えて真面目な表情を作り「仕事の電話で」と断ってから少し離れた場所に向かう。
「今日、6時前にホール入り口で待ち合わせ。遅れたら高級ディナーをおごりよ」
電話に出た瞬間、おもむろに告げられた言葉に苦笑してしまう。いくら画面に名前が出るからって相変わらず自分本意の友人だ。まあ今日は助かったから、文句を言うこともせずに真剣な表情のまま、頷いた。
「わかりました。原稿もあがったばかりですので努力します」
「よろしい」
返事があったきり、切れてしまった。唐突なやり取りを始める友人とは高校からの付き合い。もう慣れてしまった。それでも暇があっても引きこもろうとする私には、外へ連れ出してくれる彼女は貴重な存在だった。
ふと携帯の時計を見ると、今から帰って支度してちょうどいい時間。脂ぎったおじさんの猫撫で声に付き合って遅刻するわけにはいかない。席に戻って、申し訳ないという顔で言った。
「ゴメンなさい。話しは監督あたりにでもして下さい。私は仕事がありますから」
「えっ、でも、ちょっと!」
困惑する声に背中を向けて、足早にその場を離れることにした。
こっちよ。
手を振るゆみに振り返しながら、ふたりでホールの入口に向かって歩き出した。正確に言うと、ずらりと並んでいる蟻の大群についていくために案内に従って、後ろに並ぶ。目に届く範囲だけでも、女性しかいなかった。
「こんなに……誰のライブなの?」
「あれ。言わなかったけ?」
パーマのかかった茶色い髪にくるくると指をまきつけながら不思議そうに言われて呆れてしまった。ライブがあるからその日は空けといてと二週間前にメールくれた限り連絡があったのはさっき。私も締め切りに追われていて、折り返すこともしなかったけど。
「橘和紀のライブよ。まだ新人さんだけど、結構話題にはあがってきてるの。歌っているときはかっこよくて。素は天然で可愛いわ」
「だれ?」
「もう。脚本なんて書いてるわりには世間に疎いわね」
「雑学とミーハーは別ものだもん」
本を書くことに雑学は必要だけど、数多くいるタレントの名前は覚えきれない。まして、本と向き合っていると世間の流れにさえ時々置いてけぼりになる。負け惜しみに拗ねると、それにも構わず、ゆみはほら、と壁に貼られてるポスターをさした。
「あっ!」
思わず声をあげてしまった。
ギターを抱えて笑顔を向けてくる姿は、ついさっき犬みたいだと思っていた男。得意げに笑う顔は生意気にも見えるけど、やっぱり人懐っこそう。つられて微笑んでしまう。そうして、お気に入りの本を思いがけない場所でみつけたときの嬉しくてあったかい気持ちを感じる。見知らぬ男性に抱くには不思議な感覚だった。
「なんだ。知ってるんじゃない」
つまらなそうに言うゆみに否定もしないでその違和感の原因を探ろうとしたけど、ふわふわと宙に浮かんだまま ――― 手にすることはできなかった。
チケットを渡して、二階席に向かう。見下ろすと一階では黒い頭が隙間なく埋まっていた。ライブが始まる前のホールはザワザワと待ち望む期待感に包まれている。大人しく座って膝に手を置いていたりトイレに席を立ったり、時折大きな音を出す楽器を見つめたりして、バラバラの動きをしていても、気持ちはひとつ。
始まる、主役がステージに立つ、その時間をわくわくと期待で胸をいっぱいにして待っている。どんなに楽しいひとときを過ごすことができるのか。その熱が針が進むごとにあがっていく。
最も高まる時を狙って、開演の合図が鳴った。
◆
正直に言うとがっかりした。はっきり言ってヘタ。顔だけのアイドルグループと一緒だった。言い過ぎ? それよりは音程は取れていたような気がする。ほとんど、バックの音にかき消されて聞こえなかった。カラオケで音程は取れているけど、ひとりの世界に入ってる男の子。周りは乗り切れていないのに。その証拠に、騒いでいたのはほとんど一階席の立ち見の子達ばかりで、二階席の子は座っていた。
だけど、ステージを走り回る姿は、本当に犬のようで、元気で可愛らしく、それを見た観客は歌よりもその動きや笑顔に興奮していた。元気にしたい、明るく笑って欲しい、そんな気持ちは伝わってきた。
ライブが終わると、帰ろう、とその余韻に浸る間もなくゆみが淡々と準備をして立ち上がった。彼女は感想を言わないし、聞きもしない。自分が楽しめればいい。私はそういうスタンスを羨ましいと感じ、我が儘にも思う。だけど今回に限ってはそのスタンスに感謝したかった。ファンに向かって顔だけはよかったとは言えないし、お世辞も思い付かなかった。
ホールから出ると、すっかり暗くなっていた。夏の乾いた風が、するりと通り抜けていって、その心地よさにほっと息をついた。乾いた風は涼しいわけでもないのに、心地よさを覚えるほどには、ライブの熱が纏わりついていたらしい。熱と、人の気配。
同じ駅に向かう女の子たちのいまだ熱冷めやらぬという雰囲気を少しだけ羨ましく思った。あんなふうに熱中できる何かを、今の私は見つけられていない。そんな寂しさを感じながら、今何時だろう、というゆみの声に現実に戻った。時間を確かめるために携帯電話をつけた。途端に携帯が振動する。短い振動はメールの報せでボタンを操作し、チェックする。画面を見て驚いた。ぎゅっと握り締めて、前を歩くゆみに声をかける。
「ゆみ。仕事の用事できたからここで」
携帯をバックに片付けながら言うと、仕方ないわね、そう肩を竦めてゆみは、名残りを惜しむ間もなくスタスタと歩いて行ってしまう。その背中を呆れた気持ちで、だけどいつものことと、申し訳なく思うこともなく、見送って、反対の道を歩いた。
ホール専用駐車場。本来なら、今日そこはスタッフしか使用出来ない場所だ。作業用のバンやら、トラック、小型バス。いくつかの高級車は関係者用かな、と見回して、その中に存在感がある青いBMWが止まっているのを見つけた。深みのある青は派手さはなくて、一見他の赤やらシルバーやらの色が目立つのになぜか目を引く色。持ち主の雰囲気をそのまま纏っている。
急いで駆け寄って、助手席側のドアを開ける。中を覗くと、ハンドルに腕をのせてその上に顔を伏せていた男がいた。
「……えっちゃん?」
そう呼びかけると、彼は顔をあげて私を見た。どきんっと心臓が早鐘のように鳴り出す。ダークブラウンの目が優しい光を浮かべている。
「終わった?」
甘い声に顔が熱くなっていく。うなずくとじゃあ乗って、と促されたので助手席に身体を滑り込ませた。私が慣れた動きでシートベルトをしたのを確認してから、彼はエンジンをかけて滑らかな動きで車を発進させた。
「よくわかったわね」
「横浜のライブに行くってメールはくれたろう。後は、マネージャーに調べさせたよ」
笑って言うえっちゃんに困惑した。会いに来てくれるのは嬉しい。でもそれだけじゃきっとダメ。緩みそうになる頬をむりやり引き締める。ぷにっと摘まれた。
「怒るな」
「時間あるなら奥さんとこに帰らなきゃ」
「なんだ。拗ねてるのか」
もうっと呆れて、頬をつまんでる手を振り払った。途端に手を握られる。
大きくてあったかい手は大好きで、えっちゃんといるときはよく、繋いでもらっていた。だから、えっちゃんのこれはすでに癖。癖にしてしまうほど一緒にいる時間の長さを感じて、寂しい気持ちになってしまう。
最初は会えるだけで嬉しかったし、幸せだった。私のこれまでの不幸が一気に幸せとして降り注いでいるみたいに。
柔らかいサラサラの髪に触れる幸運に感謝した。甘く見つめてくるダークブラウンの目。薄い唇。すっきりとした顔立ち。ほっそりとした体型は実は筋肉質でどんなに忙しいスケジュールでも専用ジムで一時間は鍛えてる。日本中の女性が憧れる男性のすべてが詰め込まれている。結婚したい男ナンバーワンを彼は結婚して三年たったいまもキープしていた。
彼が結婚して三年。
彼と付き合い出して二年。
最初に感じていた浮かれた幸せは泡のように消えてしまって、今はただ静かに、ゆっくりと溺れていくだけのような気がしている。
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