たとえば、君に ――

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  02. 偶然の出会い  

 夜のドライブは寂しいと感じてしまう。どんなに明るい音楽が流れていても。楽しい場所が目的地だったとしても。流れていく景色も薄ぼんやりとしか見えずに、人通りもない。あったとしても、夜を歩く人の姿はとても疲れているか、逆に無理してはしゃいでいるかのように思う。一度でもそう見てしまうと、楽しい場所なんてどこにもないような気がしてくる。

 窓の外に顔を向けて、流れていく景色をぼんやりと見ていると、暗くなっていきそうな思考を食い止めるかのように、それを見透かしているみたいに、繋がれていた手に力が込められた。運転席でハンドルを握っている彼にゆっくりと顔を向ける。いつのまにか信号に止まっていたことに気づいた。赤い灯りが私を見ているえっちゃんの横顔を意地悪く照らしている。奇妙なペイントがされているみたい。キレイな顔なのにもったいない。その顔が素早い動きで近づいてきて、私は咄嗟に目を閉じた。唇に軽くぬくもりが触れて、すぐ。寂しく思う間もなく、ほんとうにすぐに離れる。思わず目を瞬かせると、えっちゃんの顔は青緑に変色していた。

 アクセルを踏んだえっちゃんは、楽しそうに言う。

 「いつものとこ?」
 車を発進させて、ただひたすら長い道路を慣れたように走らせながら、あたりまえのように訊く。顔は私を向いていたけれど、その注意のすべては前方に向けられている。えっちゃんはとても器用なひとだから、それくらい朝飯前だ。

 「えっちゃん、エロいよ。そのいいかた」
 「エロおやじだよ、どうせ」

 交わしている言葉はともかく、柔らかい目に見つめられると、胸の中から糖分がわきでてくるみたいになる。じわりじわりと。摂りすぎて病気になるまえにどうにかしなくちゃいけない。そう自分に言い聞かせる。なんども。最初に初めて会ったとき、その目に見つめられた瞬間からなんども。

 えっちゃん ―― 高幡悦(たかはた えつ)には奥さんがいるんだから。

 二人のデートはいつも決まって海辺の別荘。この場所は私のお祖父さんが海を眺めていることが好きなお祖母さんのために買ってあげた別荘で、たった一人の孫だった私に遺してくれた。ロマンチックないわくつきのこの別荘が私は小さい頃から大好きだった。夏も冬も。春も。学校が休みのときは必ず、ここにきた。お祖父さんとお祖母さんと三人で。ふたりが用事があって訪れることができないときは、ひとりで。だけど大抵は三人だった。
 私がたった三歳で両親を事故で亡くしてしまったから。でも私は家族のいない寂しさを感じたことはなかった。お祖父さんもお祖母さんも、ほとんど思い出のない両親よりも、たくさんの思い出をくれたし、いつだって傍にいてくれたから。ふたりを親だと言いたいくらいに大好きだったし、口にしなかったのは、本当の両親のこともきっと、大切にしたかったからだと思う。生きていたら、きっとあなたを愛していたわ。だれよりも厳しかっただろうし、何からも守ってくれていたわ。そうして、あなたが大人になって、寿命が尽きて、それからもずっと、あなたの愛する人より、愛していったはずよ。それが私たちの息子であり、義理の娘だったし、あなたの両親なの、と誇らしく語ってくれた。いつも両親の話をするとき、ふたりは、懐かしげに目を細めたりはしない。過去に浸ったりもしない。ただ決まって、誇らしげに、胸を張って、堂々と語る。まだ、生きているみたいに。だからこそ、私は家族のいない寂しさを感じたりはしなかった。今も、私は祖父母と両親と四人分の愛に包まれている。

 海辺の別荘に招いたのは、愛を知っているこの場所で、えっちゃんとの愛を確かなものにしたかったからかもしれない。私が初めて愛することができたこの男性を祖父母や、両親に知ってほしかったからかもしれない。一年と半年前の出来事でしかないのに、私にはすごく遠い ―― それこそ、生まれる前のような曖昧な記憶になっている。

 「ちひろ」

 ちひろ、とえっちゃんは独特の呼び方をする。もともと甘い声が、更に熱で溶けてとろりとなる琥珀色の、蜂蜜のように深みが増す。
 ――― あつく、あまく。
 それはきっと、身体が熱で溶け合ってしまうから。
 私は、その声をえっちゃんの胸に耳をあてて聴くことが好きだった。全身がその甘い声に包まれて、安心する。

 「ちひろ、眠ってるのか?」
 そっと訊く声に、目を閉じてゆっくりと返事をした。
 「……起きてるわ」
 「今度、舞台やるだろう」
 微かに頭を縦に動かすと、大好きな大きな手が髪を撫でてくれる。

 「俺の甥役をオーデションするんだって? めずらしく、おまえも参加するって聞いたぞ。大丈夫なのか?」
 大丈夫なのか、と気遣うような口調に驚いて、顔をあげる。見下ろしてくる優しい目に、胸の中でぞろり、と何かがうごめく。ぞろりと、心の奥に押し込めて、鍵をして、見えないフリをしていた暗くじめじめしたものが、隙間を這い出てくる感じ。だからといって、鍵を開けるわけにもいかず、ごくりと息を呑んで更に奥へ閉じ込めた。微かに笑みをつくる。

 「うん。ただの、宣伝にね。脚本家自らがイメージそのままに選んだ配役として」
 「透、羽村透がおまえの、俺のイメージだって?」
 可笑しさを含んだ声に、えっちゃんの見事な腹筋が揺れる。私はもう一度そこに、ぴったりと耳をつけて、やっぱり可笑しそうに笑った。
 「えっちゃんはあんなに一途じゃないでしょう」
 スッ、と髪を梳かしていた指が一瞬、ぴくりと止まって、再び何もなかったように動き出す。私はその一瞬に気づかない。気づかなかったら、何もなかったことと同じになるから。だからえっちゃんは、まあいいけどね、とどうでもよさそうに呟いた。まあ、いいけどね。
 耳に残りそうな言葉が、瞼を下ろすと聴こえてくる、波の音にかき消される。

 「ちひろ」
 あつく、あまい声に呼ばれる。返事をする間もなく、もう一回しようと囁いて動き出した身体に私は誘われて、とけていく。

 海側の大きな窓から明るい日差しが入り込み二階にあるダイニングをあたたかく、満たしていく。窓は開けっ放しにして、味噌汁とご飯、魚に大根おろし、ひじきを食べ終える。朝御飯をちゃんと食べることは、お祖母さんとの約束。栄養はきちんと取らないと、「考えること」なんてできないし、たいした行動もできやしないわ、と朝御飯を食べない、或いは飲み物だけ、パン一枚だけの同級生もいると言ったときに呆れたように言われた。だから私はどんなに忙しくても、眠って起きて、朝御飯を食べる。

 「ごめん、急に仕事が入った。」

 テーブルの上に置かれていたその紙はもうゴミ箱の中に放り投げた。朝、一緒にご飯を食べるときも。それができないときも。二人の間に理由はなかったのに、と溜息をつく。
 コポコポと珈琲メーカーが音を立てていることに気づいて、食器を片付けついでに、棚からマグカップを取り出して注いだ。ほわほわと温かい湯気を立てるカップを持って、開け放した窓から外に出る。運ばれてくる海の匂いに、大きく息を吸って、吐いた。私は潮が含まれているこの匂いに、たまらなく懐かしいものを感じてしまう。
 別荘を取り囲む木々の緑が風を受けて揺れ動き、その向こうに白い砂と濡れた地、そうして光で水面を反射させている海が広がっていた。今日の波は穏やかに引き寄せを繰り返している。
 広いベランダの隅っこには、白いデッキチェアとお揃いの丸テーブルが置いてある。お気に入りのデッキチェアに膝を立てて座って、珈琲を啜った。
 置き手紙なんてしたことなかったのに。急に会いに来るコトだって今までなかった。それまでは、二週間前に約束する。約束して、どちらかの仕事の都合で潰れたらその日は会わない。それが日常だったし、寂しいと感じたことはなかった。会いたかったら、テレビをつければいい。それでも会いたくてたまらなくなったら、脚本家として、えっちゃんが出演している、舞台でも。ドラマでも。映画でも。その場所に出向けばいい。私たちはそういう関係だった。そうでなければいけない、関係だった。
 それなのに、最近のえっちゃんは、怖い。日常が。いつか壊れると覚悟していたなにかが、違う方向へ向かい始めている気がして、とても怖く感じる。少し、悲しいとも。

    平日で、まだ陽が昇ったばかりの時間だと海は静かで、浜辺にはだれの姿もない。

 ここの浜辺は歩くと、しゃりしゃりと音がする。小さい頃、初めてその音を聞いたとき、自分の足音とは思えなくて驚いた。この浜辺は貝殻でできているの、とお祖母さんが言った。
 「貝殻で?」
 「そう。何百年も。何千年も前はここも海で、少しづつ海水が引いていったの。そのときたくさんの貝殻が残されて、次第にそれは化石になって崩れ落ち、砂と混ざり合っていったのよ。だから、踏むとそんな音がするの」
 へーと深く感心して、だけどきっとあんまりわかっていないまま、私はただその音が楽しくて、この浜辺を駆け回った。しゃりっ、しゃりっ、と音を鳴らして。

 波打ち際をゆっくりと歩く。ただ、海の音だけを聞いて、広がる青だけを見て、白い砂浜を踏みしめる。永遠に続けばいいと思ってしまう。あの頃のように。

 ほんとうに急だった。急に、現実に引き戻された。
 ――― わんっ!
 「うわーっ。コロコロコローっ、やめろーっ!」
 そんなふたつの騒々しい声が後ろから聞こえてきた。なんだろう、と振り向いた途端、べちゃと濡れた前足で私が着ていた薄い水色のワンピースにじゃれてくる犬を見つけた。へっへっへ、と赤い舌をだして、きらきらと黒い目を輝かせて、遊んでという表情をしている。きれいな金色の毛並み。ゴールデンレトリバー。犬は呆然としている私を不思議そうに見て、いちど足を地面に下ろし、ふたたび、立ち上がって前足をワンピースに覆われている太腿に乗せてきた。びちゃ、とまた音がする。びちゃびちゃっ。早く、早くと懇願するように、足を交互に動かす。
 「さいあく……。コロ、おまえ、なんてことを……」
 恐らくご主人様と思わしきひとの声に苦笑いを零して、犬の足を取った。嬉しそうに、わんっと吠える。足を降ろして、ぐりぐりと頭を撫で回してあげると、更にわんわんっとご機嫌よろしく吠えて、私の周りを走った。

 「すみませんっ! コロが服を汚してしまってっ、弁償しますから!」
 ぱんっ、と手を叩いた音がして、ようやく犬からご主人様へと視線を向けた。若い男の人だった。頭をきっちり下げているから真っ黒な髪だけが見えて顔はわからない。手を合掌しているその姿は、なんだか微笑ましく思えた。

 「いいんです。私は犬好きだし。服の汚れなんて洗濯すれば落ちますよ」
 そう声をかけると、男の人は更に言い募ってきた。
 「でもそれだと ―― 」
 「せっかくだから、私もあの、コロですよね。コロと一緒に遊ばせてもらってもいいですか?」
 わんわんっ、と吠えて遊ぼうと誘ってくる犬の動きを目で追いながら、わくわくしてくる気持ちを抑え切れなくなっていた。犬好きで、飼ってこそはいないけれど、一緒に遊んでみたいと思っていた。
 「それはもちろんっ!」
 それまでのすまなそうな声が明るい響きに変化する。ようやく顔を上げた男の人を見て、はっ、と息が止まりそうになった。

 ( ――― 橘和紀。)

 その偶然に、私の心は震えてしまっていた。
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