たとえば、君に ――
いつか、君に ―side 悦(1)―
はっきり様子がおかしいと気付いたのは最近だった。会いたいというメールには仕事があるからと返事をされて、電話も留守が多く伝言を残しても折り返しはない。お互いに忙しいからそれが普通だったとしても、そんなときは舞台やドラマの撮影所に姿を見せてくれて、二、三週間も会わないことはなかった。
えっちゃん、と呼ぶ彼女の澄んでいる優しい声が目をつぶると胸の中に切なく甘く響いた。
「……悦さん、悦さんっ!」
焦った声に瞼を持ち上げると、心配そうに眉を顰めて覗き込んでくる高見の顔があった。わかってるよと苦笑して、出番を待っているセットの中に向かった。
相模千尋は脚本家で学生時代に流監督に気に入られて、今は舞台を中心に執筆している。長く艶やかな真っ黒い髪は触れるとさらさらと零れ落ちていく砂のようにキレイで、まっすぐ見つめてくる黒い瞳は少し丸まっていて可愛らしい。感情が素直に表情にでるから、考えていることがわかりやすかった。笑って泣いて怒って、拗ねて、ころころ変化する表情は見ていて本当に飽きない。周囲への気配りが上手でそのわりに、自分の行動はなにかと失敗ばかりする不器用な面もあった。だけど、傍にいてとても心落ち着ける女性で、いつのまにか後に引けないところまで惹かれていた。
付き合おうと言い出したのは俺から。そのときにはモデルをしている今の妻と結婚していたけど、それには理由があったから、自身はそんなに抵抗なくその言葉を告げていた。当たり前だけど、それを知らない彼女は躊躇いを見せた。それでも、差し伸べた手を取ってくれたときは、今まで感じたことない温かな感情がわきあがってきた。嬉しいというか。幸せというか。それ以降、彼女と付き合う中で幾度となく感じる感情だった。
カット、という監督の言葉に演技していた気持ちを切り離して、スタジオに用意されている椅子がある場所に戻った。待機していた高見がタオルを渡してくれる。それを受け取りながら、椅子の背にかけていた上着から携帯電話を取り出して確認した。メールが入っていることに気づいて、急いで確認する。プライベート用携帯電話のアドレスを知っているのは、千尋と妻だけ。他の用事はすべて、高見が持っているものにくる。妻はいま海外に行っているし、もともと彼女はあまりメールも電話もしてこなかった。ただ、どうしても我慢できないときだけ。そのときだけ、泣きながら電話がかかってくる。だから、今このときは確率として千尋の可能性が高かった。
「横浜でライブ?」
案の定、差出人は千尋からで、今日はライブに行くから遅くなると返ってきていた。会えないという言葉を遠まわしに言ってきてると感じて、いい加減苛立った。もう三週間も会っていない。
「悦さん。今日はこれで終わりだよ。お疲れさん」
スケジュールを確認しながら明日の待ち合わせを口にする高見を遮って、訊いた。
「今日、横浜で十九時開演のライブって、どこであるか詳しくわかる?」
調べてと含んだ言い方に、高見は一瞬驚いた顔をしたが一度言い出した言葉を引っ込めないのは長い付き合いの経験上わかっているのか、小さくため息をついてちょっと待ってて下さい、と言い置いてからスタジオの出口に向かっていった。
幸運なことに横浜で今夜あるライブはひとつだけだった。高見に関係者用として駐車場許可を入れるように交渉してもらって、駐車場で千尋を待つことにした。恐らく電源は切っているだろうから、とりあえずはメールだけ入れて終わる時間まで待つ。職業柄、待つという行為は慣れているけれど、気分的に煙草を吸いたい欲求が膨らんでくる。千尋はヘイキ、と言うけれど、煙を苦手そうにしていたから吸うのを止めた。結婚した相手が吸わないでよ、と言ったときには止められないと一蹴したくせに、と自分でも呆れたけれど。本当に、こんなに溺れるとは思いもしなかった。まるで初恋をした少年のようだ。千尋しか見えない。
ため息をついて、ハンドルに顔を伏せたとき、助手席側のドアが開く音がした。
「……えっちゃん?」
澄んだ声が耳に入り込んで、胸の中に甘く落ちる。演技でしか作れなかった微笑みが自然と浮かぶ、その甘い感覚に酔いしれていた。
いつも二人でデートする場所はこの海が見える彼女の別荘だった。有名人だから。しかも、関係が不倫とあっては容易く外を出歩けないから仕方ないのかもしれないが。千尋が大好きだというこの別荘を俺も一目で気に入って、温かい内装も好みだった。仕事がなければ、いつまでだってこの場所で二人で過ごしていたいくらいに。
「街まで三時間っていうのが引っ掛かるところか」
苦笑して、携帯電話を切った。ベットを振り返ると、まだ千尋はぐっすりと眠り込んでいる。随分と疲れさせてしまったという甘い後悔はあるけれど、三週間も会わなかった彼女が悪いと責任を擦り付ける。掛け布団から出ている長い髪を梳くと指の隙間からするりと零れていった。
一途じゃないと言われたときはムカついていた。感情を表にだすことは極力避けるようになったから妻にさえも素直にぶつけることはない。大抵は穏やかに流しさえしていれば、人付き合いは上手くいくし、表立って波風立てることはない。愚痴もまして、吐き出せばその瞬間はすっきりするが、後が悪くなる。どんなに信用していても相手の感情次第でばれる場合だってある。遠回しに苛立ちをぶつけたほうがまだスッキリした。
だが、千尋だけはその常識をあてはめることはできなかった。人の感情を読むことを自然にしてしまう。怒っていたら宥めてくれるし、悲しいときは傍に寄り添っていてくれる。感情がわかりにくいと言われた俺の気持ちをあっさりと看破できたのは千尋が初めてだった。だからわかったはずなんだ。一途じゃないと言われたときに怒っていたことは。なのに、千尋は気づかないフリをした。素人の、それも感情が顔に素直に出てしまう彼女の演技を見透かせないはずがない。
苛立ちは募る一方だった。
かけてあった上着をハンガーからはずし、寝室からダイニングに向かう。ひっそりとした暗闇の中に波の音が聞こえて、それがまるで今の彼女のように思えた。手を伸ばせばつかの間、寄せてくるのに、すぐに引いていく。だけど、このまま遠ざかり、離れていかれることだけは許したくなかった。今更、失えない。だとするなら、そろそろ決着をつけるときなのかもしれない。棚に置いてあったメモ用紙に走り書きをしながら、そう思った。
いつもなら残さない伝言。その意図に、千尋はきっと気付くだろう。
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