たとえば、君に ――

ススム | モクジ

  いつか、君に ―side 悦(2)―  

 確かに書いた脚本を演じられるのなら、登場人物に合った役者さんに演じては欲しいけど、私には人を選ぶなんてできないもの。
 オーデションの審査員の依頼があるとき、いつもそう言っていた。だからほとんどを監督やスタッフに任せることにしていると。それでも、この業界にいる以上はどうしたって断れない繋がりというものが出来てしまう。今回は断れなかったという彼女が心配なこともあって、スケジュールを調整した。
 「珍しいね。悦さんがオーデションに参加するなんて。それに今回のはアレだよ。出来レース。流監督も来なくていいって言ってたのに」
 車を運転しながら、そう言って高見が肩を竦める。
 出来レース ―― つまりは、すでに決まっているのにオーデションという形をして、その中から選ばれたという後押しを狙っている。よくある話だ。
 「新人オーデションはそれなりに新鮮な気持ちをくれるものだよ。一生懸命なところを見てるとね。時間ができるなら、久しぶりにそういうのを見たくなったんだ。やる気になるだろう」
 すらりと出てくる嘘だったが、芸能人のマネージャーという役職でありながらまっすぐな部分も併せ持つ高見は、すぐに感激したように言った。
 「さすが悦さん。ベテラン俳優と言われても、そういうところ、変わらないね」
 その言葉には苦笑が浮かぶ。これでも、高見は仕事の面ではやり手だ。スケジュールの管理能力は疑うべくもなく完璧だし、人受けもいいからすんなりといろんなことに対応できる。ああ、それはこういう素直な面があるからかもしれない。そう思うと、今更ながら納得することができた。
 「高見、着くまで眠ってていい?」
 時計を確認すると、オーデション会場がある場所までまだ二時間はかかる。今日は朝早くから外れにある自然溢れる公園で撮影があったから、少し遠い。運転している彼には悪いけれど、勿論、という返事があるのをわかっていて聞きながら、目を閉じた。

 ――― 結婚して欲しいの。
 唐突な言葉にただじっ、と彼女の顔を見つめた。
 ホテルの一室で男女がいるというシチュエーションは恋人同士を思わせるが、二人の関係はあくまで友人の域を出ておらず、今ここにいるのは大切な話があるからと呼び出されたからに過ぎない。
 モデルである時任杏子(ときとうきょうこ)は、イギリス人の父親と、日本人の母親をもつハーフだった。独特の雰囲気を持っていて、とてもキレイな大人びた女性で、柔らかい茶色の長い髪、染み一つない張りのある白い肌。細く弧を描いた眉。切れ長の瞳は明るいブラウン、すっきりとした鼻梁に、ふっくらとした頬。全体を引き締めるようにスッと塗られている赤い口紅。華やかな容姿とは裏腹に性格はどちらかというとあっさりしていて男っぽい彼女とは趣味も合って、話題も豊富で話していて楽しい。楽しいけれど、男女の行為や、恋愛をするという雰囲気にはならずに、本当に友達だった。他人とあまり踏み込んだ関係をもたない俺にはそれでも貴重な存在で、それなりに大切だった。だからこそ、その言葉に裏切られたような気持ちになってしまう。途端に表情を失くしていくことが自分でもわかった。
 「俺たちはそういう関係だった?」
 冷たい声で突き放すように言うと、彼女は瞠目する。俺の顔を見て、怯えた目で「違うの」と言った。違う、と繰り返し呟いて視線を落としてしまう。ぽたり、と絨毯に染みができていくのを見て、泣いているんだと気づいた。そうとわかっていても、慰めようという気持ちにもなれない。ただ、それが非常に珍しくて、思わず訊いてしまった。
 「だったら、なんだい?」
 「…………私、愛している人がいるの」
 二度目の告白はさすがに驚いてしまった。いや、彼女も女性なのだから当然なのかもしれないが、知り合って半年になるが話にも出てこなかった。恋愛面では疎いのよ、と朗らかに笑っていた顔が思い浮かぶ。話が込み入りそうだと感じ、大きく息を吐き出して、仕方なく立っていた窓際から移動する。彼女の前にあるテーブルに用意されていたグラスに氷を入れて、側にあったウィスキーの瓶を手に取った。琥珀色の液体を注ぎ入れると、カランと小さく音が鳴る。それを手にして、向かい合わせのソファに座った。それで、と視線で促すとどこかほっとした顔になって彼女は話を続けた。
 「その人が結婚するの」
 「つまり、君のプライドのために俺に結婚してほしいと言ってるの?」
 馬鹿馬鹿しい、そう切り捨てながらウィスキーに口をつけると喉に熱い感覚が迸った。
 「そうじゃなくて。その人に言われたわ。今すぐに結婚を取りやめるから、一緒に逃げようって」
 そう言いながら、ブラウンの瞳には嬉々とした光が確かに浮かぶ。それでも悲しげな顔をするのは、それができないからなのだろう。事情はわからないけれど。だけど、難題を突きつけているのは彼女だ。詳細を話してもらわなければ、納得するつもりはなかった。それを叶えるかは別にしても。そう思って、煽るように言う。
 「逃げればいいだろう。そう言うってことは、少なくとも相手も君を愛してるってことだ。そんな想いを抱えたまま他の女性と結婚するのはその女性が可哀想だよ。いっそう、彼と手に手を取って逃げればいい。そうすれば、君もその男も、結婚するはずだった女性さえも幸せだね」
 多少の罪悪感が残ったとしても。まあ、それは仕方ないと受け入れるしかないことだろう、と言い切ると、はっ、とするようなまっすぐな瞳で見つめられた。そんなこと何度も考えたわ、ときっぱりと告げる。まっすぐな瞳は、貫くようにじっと見つめてくる。
 「だけど、それで失うもののほうが多いことに気づいたの」
 「仕事? それくらい、愛を取るなら仕方ないんじゃないのか?」
 確かに積んできたキャリアは勿体無いだろうけれど、そこまで考えた相手と一緒になれるのなら、失くして困るものじゃないはずだ。それに彼女の性格を考えると、仕事に固執しているようには思えなかった。そう言葉にすると、違うわ、と揺れる光を浮かべて、彼女が言う。
 「家族もよ。私がその人の手を取ったら、私は仕事も、家族も。その人の未来もすべて、失うことになるし。失わせることになるの」
 絶望を吐き出すように、彼女は頬に涙を流した。
 ここまで彼女を苦しめるほどの相手が誰なのか興味を持ってしまう。危険だと思うのに足を踏み入れるのは昔からの癖だった。そのスリルを交わすことが楽しくて堪らない時期があって、若気の至りというには抜け出せていない。今はその情熱のほとんどを俳優という職業に傾けているから、そう危ない橋は渡らないけれど。それに、自分にはもっていない想いを抱く彼女に友人関係とは違う、別の興味を改めて感じた。
 聞いてしまったら後に引けない雰囲気を感じながら、好奇心を満たすために口を開いた。あくまでも、気遣う声音を混ぜて。
 「 ――― そこまですべてを失うという相手ってだれなんだ?」
 はっ、と彼女は息を詰めた。それでも、無理難題を突きつけてきている自覚もあったのか、すぐに諦めたように瞼を閉じて、目を開けると口を開いて、今にも消え入りそうな声で呟いた。

 ――― 兄、よ。

 口に運びかけていたグラスを動かしていた手がぴくりと止まるのが自分でもわかった。
 (兄だって?)
 聞き間違いかと思ったが、重々しい雰囲気にそれはないと思い直す。全く最近の人間のモラルってそこまで落ちるものか、と呆れた気持ちになった。だけど、彼女はそれを保とうとして苦しんでいる。それを思うと、可哀想にもなった。必死に諦めようとしている。恐らくは、家族のために。人としてのモラルのために。恐らく、なによりもその兄のために ―― 。
 諦めさせるためには、自分が結婚するしかないと思いつめるほどには、苦しんでいることがわかった。
 「なるほどね」
 再び手を動かしてグラスに残っていた液体を一気に流し込んだ。
 俺自身、結婚に夢を持っているわけでも。誰か特別な女性を持つ気もさらさらない。特に今は演技をすることに熱中していたかった。それに共演する女性たちにイロイロと言い寄られることも、事務所や俺自身に損にならないように交わすことに飽きている。だったら、いいかと投げ遣りな気持ちもあって、そう思った。そこには多少、羨ましい想いもある。誰かを、自分を犠牲に出来るくらい誰かを愛せることに。
 「いいよ」
 氷だけになったグラスをテーブルに戻して、ソファから立ち上がる。
 「え?」
 怪訝な顔を向けてくる彼女の前に、跪いた。ここからは、高幡悦の演技としての見せ所だな、と内心で思いながら艶やかに微笑みを浮かべる。彼女こそ最愛の女性だという演技を。
 「君と。俺は君と結婚するよ」
 涙を流して傷ついた顔をしていた彼女の頬が急に熱を持ったように真っ赤になった。ただし、と釘を刺しておくことを忘れない。
 「離婚届けも一緒に書いてもらう。俺が別れたいと言ったら、後腐れなく別れると、誓約書もね」
 ちらりと彼女の顔に傷ついた影が走ったのはわかったけれど、それだけは守ってもらうことが前提の話だった。


 悦さん、着いたよ。
 その声に起こされて、意識を取り戻した。倒していた助手席を引き上げて身体を起こすと、白熱灯に照らされている地下駐車場にいた。
 (随分と昔のことを ―― 。)
 思い出したくもなかった過去の話。選んだのは自分だからあの時の後悔はしていないけれど、今の自分からすると馬鹿なヤツだった、と苦い思いがこみあげてくる。今はあれほど誰かを愛するという気持ちが少なからず理解できる。縋るしかなかった彼女の想いも。
 助手席から降り立ちながら、伝言メモに気づいた千尋がどんな表情をするか想像して少し愉快な気持ちになる。愛するという厄介な感情を目覚めさせておきながら、今更手を引こうとすることは許せない。
 「悦さん、急いで。ちょっと時間に遅れてるんだから」
 焦ったように言う高見の後に続きながら、「わかってるよ」と頷いて、歩調を速めることにした。
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