たとえば、君に ――

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  いつか、君に ―side 悦(3)―  

 監督に呼び出されたのは、地下にある薄暗いジャズバーだった。カウンター席で先に座っていた監督は遅れてきた俺に軽く手を挙げて挨拶をする。座り慣れた場所に落ち着くと、顔見知りのバーテンにいつもの、と頼んだ。すでに監督の前にはウォッカが置かれている。結婚する前は煙草が一緒に並んでいることが常だったが、奥さんにアルコールか煙草のどちらかを止めるように言われて、仕方なしに禁煙をしたらしい。惚れた女には負けるな、と苦い笑みを零されて、そのときの俺にはまだわからなかったが、今では身を持って経験しているところだった。

 「あー。おまえ相手に遠回しに言っても仕方ないから単刀直入に言うぞ」
 珍しく言い難そうにグラスを回して、間を計っている監督にどうぞ、とばかりに肩を竦める。丁度、いつものブランデーが入ったグラスを目の前に置かれた。
 「今回は降りろ」
 本当に率直だなと呆れてしまう。
 最も、こういう竹を割ったような性格だからこそ、長い付き合いができるわけだが今回ばかりは譲歩するつもりはないし、監督相手に駆け引きはしない。だからこそ、ブランデーで唇を湿らせて、テーブルに置き直してから監督の顔を見た。真剣な目に、俺も今まで以上のまっすぐな視線で返す。互いに緊張感が張り詰めていくのがわかった。
 「俺の人生がかかってますから」
 「人生って、舞台の一つで何言ってるんだ。それに今回は脇役だろう。固執する役柄でもねぇよ」
 「その主人公役と、ちひろを二人っきりにしたくないからですよ」
 げほっ、とウォッカを飲んでいた監督が急に咽る。慌てて、バーテンがテッシュを差し出してきて監督は悪い悪い、と謝りながら、お代わりを求めるように空になったグラスを渡した。
 「おもいっきり、私情入ってるなー……」
 苦い笑みを零されて、俺も「必死なんです」と肩を竦める。それに、と探るように言葉を放つ。
 「あなたたちは何かを知っているのに、俺に隠してる。それもきっと、俺とちひろにとってとても大切なことを、というよりも、ちひろが俺に対して頑なになった理由を」
 自分で口にしていて、不機嫌が増していく。舌打ちをする代わりに、勢いをつけてグラスに口をつけ傾けると、慣れているはずのアルコール度数も増したような気がした。
 悦、と低い声で名前を呼んだ監督は顔つきを厳しいものに変えた。カラン、と手の中のグラスに入った氷が冷たく音を鳴らす。俺は、わかってます、と納得していないながらも返事をして、代わりに釘を刺した。
 「ちひろとのことは自分で何とかします。だから、邪魔はしないで下さい」
 「 ―― っ、邪魔って」
 言葉に詰まって瞠目する監督に威圧を込めて射抜く視線を向けてから、最後にブランデーが入ったコップを呷ってから明日も仕事が早いので、と席を立った。

 その後で、監督と馴染みのバーテンが「さっき店内がマイナス温度に変わりましたよ」「……俺も殺されるかと思った」と言葉を交わしていたのは、後々聞いた話だけど。

 正直言って、まいっていた。いや、とてつもない恐怖を感じていたというのがその時の心情を表すには、より正確かもしれない。今まで満たされていたその場所がぽっかりと失われて、二度と手に入らないと突きつけられたとき、失わないためにはどんな手段も厭わないと思う自分がいた。だけど、唯一できたことが、捨てないでと懇願するだけだったと、マスコミやファンのひとたちが知ったらたちまち、俳優としての価値は地に落ちるだろうな、とそんなどうでもいいことさえ頭の片隅に浮かんだ。イメージダウン。きっと事務所だって知ったら、真っ青になってやめろと監禁してでも止めるだろう。最初から何も持っていなかった俺が唯一、監督に出会って俳優という打ち込めるものを手に入れて、情熱を持って誇りだといえる仕事になっていたのに、それさえも捨てることなど ―― 自分自身さえ投げ捨てることも躊躇いなくできるほど、千尋を失いたくなかった。
 相手が正面から彼女にぶつかっているのはわかったが、それまで真剣に誰かを求めたことがなかった俺はどうすればいいのか、はっきりいって迷っていて、それでも千尋を失うという恐怖心が、今思えばあんなにも情けない心情を彼女に曝け出すことしかできなかった。千尋が受け止めてくれた今は、それでもかまわなかったと納得している。

 「私はえっちゃん ―― 高幡悦を愛しています」
 千尋の言葉に胸が打ち震えるほどの感動を生まれて初めて感じていた。生まれて初めて? いや、ちがう。あれは ―― 。

 結婚して、だけど変わることのない分刻みの忙しいスケジュールの仕事が久しぶりに一段落して、先輩兼恩人、そして親友でもある監督の家を休息がてら訪れることにした。奥さんはお出掛け中だとお手伝いさんに言われながら、勝手知ったるなんとやらで監督がいるという広間に向かっていた。近づくにつれて、聞き慣れた怒声が聞こえて、先客がいるのか、と首を傾げた。仕事中なら、今は控えようかと思ったが、挨拶くらいはしておくかと、顔を出したとき、監督は気づかずに怒鳴り声を目の前に座っている ― 髪が長いから恐らく女性 ― に躊躇いもなくぶつけていた。
 (いくら、監督とはいえ、女性にそんな乱暴に言わなくたって……。)
 気遣いは女性に、というよりもそれで監督が問題になることが嫌だった。誤解されるのは慣れている、というが、好意を抱く周囲からすればもっと上手く立ち回ればいいのにと溜息をつきたくなることが多々ある。
 泣いてるんじゃないか、と思った。背中を向いているから、いまいち顔はわからないけれど、とりあえず一段楽するまでは、と見守っていると、監督の言葉が落ち着いてから、不意に女性の凛と澄んだ声が部屋の中に響いた。
 「確かに監督のアドバイスも一理あるとは思います。ですが、この部分は削れません。主人公の想いはこの箇所に詰まってるんです。削ってしまったら、次の場面でなぜ主人公が涙を見せるのか、それほどまでの想いなのか見てる側には通じないと思うんです」

 ――― 驚いた。

 今まで監督の言葉にすぐに切り返せる、しかも奥さん以外の女性を、仕事関係で初めて見た。急に泣き出すか、落ち着くまで待ってから、感情的な言葉を言い返すか、自分の意見を通すことを諦めて言われた通りにするかのどれかしかないと思っていたのに。
 芯の通った意見、口調。
 好奇心が疼いた。顔を見たくなって、それとなく中に足を踏み込んで、脚本らしきものに目線を落としている監督に咳払いをすると、気づいたように顔をあげた。そうして、同時に振り返った女性が泣いていないことに二度目の衝撃を受けた。泣いているどころか、その瞳は澄んでいて、キレイだった。どくんっ、と胸が大きく高鳴る。
 「仕事中だとは思わなくて、すみません。邪魔しましたか?」
 「ああ、いや。まあ、丁度いい。悦、紹介しよう。まだまだ新米脚本家の相模千尋さんだ。彼は知っているとは思うが ―― いや、脚本の勉強をするために引き篭っていたおまえだ。知らないかもしれんが、」
 「監督、失礼ですよ。高幡悦です。よろしく」
 監督が自宅に招き入れるほどの女性だから、きっとこれから顔を合わせる機会も増えるだろう、と思って、礼儀正しく挨拶をすると、彼女はまっすぐ見つめてきて「相模千尋です」と名乗った。
 はっ、と息を呑むほど、まっすぐに見つめられて、まるで心の全てを見透かされてしまうかのような、その黒い瞳に自分が映っていることに安堵するような、そんな不思議な感覚に襲われてた。そうして、彼女へ惹かれているんだと自覚した瞬間、やっぱり胸が打ち震えるほどの感動を覚えてしまっていた。

 「えっちゃん、どうして笑ってるの? その脚本、一応は感動モノのはずなんだけど……」
 初めて千尋が二時間ドラマの脚本を書くことになったらしく、オーケーをもらったものをベッドサイドにもたれかかって読ませてもらっていた。脚本をサイドテーブルに置いて、傍にきた千尋の手を取って身体の上に引き寄せる。とさり、と乗ってきた柔らかな彼女の肢体の重みが心地いい。髪が頬に触れて、爽やかな香りが鼻腔を擽る。
 「脚本を笑ってたんじゃないよ。思い出してたんだ」
 「 ―― 思い出し笑いするひとってスケベだって言うわよね」
 くすり、と可愛げのない口調で言う千尋に耳元で囁く。
 「俺はちひろ限定でスケベだから」
 抱き締めていた腕を緩めて、顔を覗き込むと真っ赤になった頬で、「もうっ」と呆れられた。その頬にキスを落として、甘く唇を重ねる。
 「それで、スケベな俳優さんは何を思い出してたの?」
 「ちひろに初めて逢ったときのこと。監督相手に勇ましかったところを」
 「あーっ、それ言わないでっ。今思うと、ちょっと生意気だったって反省してるのよ」
 俺が抱き締めていなかったら、彼女は恐らく頭を左右に振って拒絶していただろう。それが出来ないから、顔を胸に押し付けてくる。可愛らしく思いながら、髪を優しく撫でて問いかけた。
 「それでも、後悔はしてないだろう?」
 小さく頭が縦に動くのがわかって、思わず噴きだしてしまう。
 (気の強さは変わらない、か……。)
  とん、と噴きだしたことへの抗議なのか、千尋に胸を叩かれる。ごめん、と謝りながら、千尋のほっそりとした顎に手をかけて軽く持ち上げた。誘っているかのように潤んでいる瞳に抵抗する気にさえなれなくて、さっきよりも深く口づける。
 熱く、長い口づけに息をついて、額を合わせながら告白する。
 「俺はあの時、初恋をしたんだ」
 「だれに?」
 っ、と、まさかそんな返答が返ってくるとは思わなくて、息を詰める。
 「それ、本気で言ってる?」
 聞き返すと、罰が悪そうに俯いた。すぐにぎゅっ、とパジャマの上着をつかまれて、拗ねるように彼女が言う。
 「だって、えっちゃんが初恋とか信じられない。結婚だってしてたのに」
 ヤキモチを妬いているらしいと気づいて、驚いた。前に結婚していた最中には、決してそれで妬いた言葉は口にしたことがなかったのに。前は必死に隠そうとしていた感情を、最近はこうして素直に曝け出してくれることに、じわじわと嬉しさがこみあげてくる。嬉しさと、幸せと ―― 。
 「ちひろ。愛してる」
 溢れてくる幸せな感情を甘く、今度は誘うように耳朶を食みながら、囁く。真っ赤な顔で誤魔化さないで、と言いながら、縋りついてくる手をぎゅっと握り締めて波の音に包まれた夜に溶け込んでいくことにした。

 いつか、君に伝えよう。
 俺が本気で愛を知ったのは、君が愛をくれたからで、それまでは感情ひとつない、寂しい男だったこと。君を愛して初めて誰かを想う、苦しみも嫉妬も身を持って知ったこと。君に出会えたから、今の俺があって、そう。俺がどれだけ深く強く、君を愛しているか ―― いつか、君に。
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