風に聴くセレナーデ

モクジ/モドル/

 05. 君の絶望 僕の悲しみ 


 最後に聞こえた、タロウの鳴き声。
 もう、会えなくなるんだったら――。仲直りしておくんだった。
 ごめんね、タロウ。どうしてあんなことをしたの、って訊いたら、賢いタロウはきっと教えてくれたはずなのに。
 怒鳴ったりしてごめんね。もうタロウなんて知らないなんて言ったりして、ごめんね。
 ――お父さんも。
 ひとりにしてしまう。タロウ、お父さんが泣かないように、絶望してしまったりしないように、傍にいてあげて。
 そう望んだ瞬間、眩しい光が差し込んできたような気がした。
 意識が少しずつ浮上していく。
(わたし……?)
 頭の中が霞がかったようにぼんやりとし、何が起こったのか思い出そうとして、ズキリとした痛みが走る。
「……っ!」
「小夜!?」
 思わず零した呻きに、名前を呼ばれた。ぎゅっと握られている手に気づく。大きくてごつごつとした手。
心配そうに呼ぶ声は、父のもの。
「……お父さん?」
 私が呼ぶと、握られている手に力がこもった。力強いその感触に、ほっと息をつく。手が父の両手に包み込まれるのがわかる。
「よかった……。目を覚ましてくれて、――生きていてくれて、よかった」
 いつも穏やかな父の切実な声に胸を貫かれて、ようやく自分が事故に遭ったことを思い出した。眩しいライトと、強い衝撃。急に全身がズキズキとした痛みを訴えてきた。頭も、手足にも。
「おまえまで失っていたら、俺は――っ!」
 母が病気を患っていたときも、一度として聞いたことがなかった父の弱音。
 それほど自分が危険な状態だったことがわかる。今も、全身に痛みがあって、耐えられるのはきっとまだ麻酔がきいているからに違いない。
「ごめんね、お父さん。わたし――」
「もういい。もう、いいんだ」
 二度と道路に飛び出したりするな、そう注意されて頷きながらも、父の悲しみが含まれた声に違和感を覚える。無事で安心したという気持ちは伝わってくるけれど、それとは違う、なにかを案じている声。
(なに――?)
 疑問を感じて、同時に気づく。
 そういえば。
 私は父の手をぎゅっと握って、疑問をぶつけた。
「お父さん、私の目に包帯巻いてるの?」
「いいや、どうしたんだ?」
 不思議そうに聞いてくる父に、ハッと私は手を持ち上げて目を触る。確かに包帯の感触はない。
 だったらどうして――?!

「真っ暗だよ? なんで? なんで何も見えないの?!」

 繋がっている手から父が身体を強張らせたことが伝わってきて、嫌な予感が背筋を走り抜ける。
「落ち着け、小夜。事故のショックで精神的に見えなくなっているだけかもしれないだろう」
 困惑に満ちた口調で、父が言う。落ち着け、という言葉はまるで自分自身にも言い聞かせているみたいに聞こえる。私も頷いて、目を瞑る。
(だっ、大丈夫だよ。もう一度目を開けたらきっと見えるはず!)
 恐怖に支配されないように、父の手をぎゅっと強く握る。それに応じるように父も握り返してくれた。
(―――大丈夫!)
 きっと、心配して真剣な眼差しで様子をうかがっている父の姿が見えるはず。想像した姿に励まされるように、ゆっくりと目を開けていく。
「……小夜?」
 全身から血の気が引いていくのがわかる。
 信じたくなくて、顔を両手で覆い、首を振った。
「見えないっ、見えないよ!?」
 当たり前のように映し出されていた世界が、真っ暗な闇に支配されてしまっていた。

 強い衝撃を受けて、網膜に影響がでています――。控えめでありながら、凛とした声が説明を口にする。それに対して、いつも落ち着いた声で話すはずの父の口調は微かに震えているように聞こえる。
「……それで、治るんですか?」
「今のところ、様子を見るしか……。傷そのものはわずかなものです。自然に治癒する場合もありますし、もしくは――」
「治らないの?!」
 先生の声を遮って、問いかける。そう続くしかない口調。症状の説明を聞いているうちは先生と父のやり取りをどこか他人事のような気分で聞いていたのに、とつぜん現実味が帯びてくる。
(一生、目が見えない――?)
 もう、なんにも見えない?
 そんなっ! そんなことっ!
「嘘でしょ?!」
「小夜っ!」
「嘘だよ! だって、そんな――っ、こんな見えないなんて……ずっとこのままなんてっ! 嘘でしょ?!」
 視界だけじゃなく、頭の中まで真っ暗になる。なにも思いつかなくて、ただ信じたくない想いだけが口をついて出てくる。
(いやだっ、嘘っ、嘘だよ!)
 感情が溢れ出して、伝う雫が頬を熱くしていく。苦しくて苦しくて、息が止まりそうになる。
「小夜っ、落ち着くんだ!」
 父の言葉が聞こえるけれど、まるで水のなかに入り込んでいるかのように、その声はくぐもっていて。
全身が痛い。胸が痛い。苦しい――っ!
「……たすけてっ……さんっ!」
 ―――お母さんっ!
 手の中にあったすべてが、心の中に確かにあった温かい気持ちすべてが、削ぎ落とされていく。そうして今、視界を埋め尽くす真っ暗な闇に突き落とされ、二度と這い上がれなくなるような絶望を感じた。



 ――泣き声が、聞こえる。
 嫌なことがあったとき。だれかに怒られたとき。小夜は泣いていて、その悲しげな声に、苦しくなって、泣かないでと、一所懸命、顔を舐めた。泣かないで、小夜。小夜には笑っていてほしいから。泣かないで、小夜。そのうち、小夜はくすぐったいと笑いはじめてくれて、僕は嬉しくなる。そのあと、小夜はかならず僕をぎゅっと抱き締めてくれて、大好きだよ、と嬉しい言葉をくれるから、やっぱり僕は小夜には、笑っていてほしいと願う。
 笑っていてほしいのに――。
 小夜がいる部屋から、泣き声が聞こえてくる。胸が潰れそうになる。聞いているだけで苦しくて、痛くて、こんな小夜の泣き声なんて聞きたくない。
 そのうち、部屋からおとうさんが姿を見せる。しばらく廊下を進んで、どんっ、と強く壁を叩いた。ずるずると身体が沈んでいく。
「……守ってやれなくて……すまないっ!」
 ――くそっ!
 いつも穏やかで優しかったおとうさんが吐き出す罵りの言葉。広くて頼もしく感じていた背中が今は頼りなく、小さく見えた。
 小夜も、おとうさんも。
 ふたりを飲み込もうとする絶望を感じて、だけどどうすることもできない自分に胸が苦しくなる。
 顔を舐めて励ますこともできない。傍でだいじょうぶだよと伝えても、今はふたりには届かないような気がする。
 ふと、おかあさんのことが浮かんだ。
 優しくて、強かった小夜のおかあさん。小夜と僕のおかあさん。
『約束よ、タロウ。ふたりを、小夜を守ってあげてね』
 僕とおかあさんの約束。
 ――ごめんなさい、おかあさん。
 いま、小夜が泣いているのは、きっと僕がちゃんと守ってあげられなかったからだ。
 くぅん、と鼻から声が零れる。同じ言葉を話せたらよかったのに。泣かないで、小夜となぐさめてあげたいのに。
 今の僕では、傍に行くこともできない。涙を舐めてあげることもできない。大好きな小夜のためにしてあげられることが、今の僕にはなんにもない。
 おとうさんも、小夜も。大好きなひとが悲しんでいるのに、僕はどうすることもできない。
 ふたりから伝わってくる悲しみで、胸がいっぱいになる。

 ――タロウ! 大好きよっ!
 大好きな小夜の、大好きな笑顔。

 かみさま、どうかお願いだから。僕はあの笑顔をもう一度、取り戻したいんだ。どうか、お願いだから。

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