風に聴くセレナーデ
04. 交通事故
――だいじょうぶ?
担当講師の言葉を思い出して、机に突っ伏す。
ピアノの調子でいえば、変わりなく上々。問題は気分で、ピアノを弾くということは技術的な問題がなくても、精神的なものも大切になる。
これまで曲の解釈は別としても、楽しい気持ちで弾いてきていた小夜には思いもかけず、弾き方に表れてしまったらしい。らしい、というのは、本人は自覚できなかったから。いつもと変わりなく弾いているつもりだった。
技術的には問題がないんだけどね、といつも小夜のピアノを聴いたあとには笑顔になる講師が微妙に眉を顰めた。コンクールが近づいてきて緊張しているのかもと曖昧な笑みを返したけれど、本当の原因はわかってる。
今朝はいつもより早起きして、タロウに顔も見せず、「タロウに餌をやっておいて」そうメモを残してきた。なにもなかったようにタロウを見ることができない。そうするには母の花壇をめちゃくちゃにされた怒りや悲しみが胸の中でうずまいていた。今も、まだ。
(どうして、タロウはあんなことしたんだろう?)
誰かに話したところで、所詮は犬なんだからと言われてしまうのがオチ。そうだとしても、納得できるほどタロウと過ごしてきた時間は短くはない。本能でただ滅茶苦茶にしたと思うことができないほど、タロウは賢さを持っていた。賢さと、優しさ――。
それがわかっていながらも、胸の中がもやもやするのは、やっぱり母の花壇がなくなってしまったことが大きい。育ち始めた芽も、咲き残っていた花も。無惨に散らばっていた花壇が脳裏に焼き付いている。
はぁ。
こぼれ落ちたため息にまた心が重くなる。
「音無、どうした?」
ぽんっと軽く頭をたたかれて、弾けるように顔を上げる。斉藤君が気遣うように眉を顰めて見下ろしてきていた。
彼の顔を見ただけで胸が高鳴り、昨夜のことを思い出して頬が熱くなる。
「なっ、なんでもないよ!」
「それにしては、変な顔してたぜ」
「そうだった?」
「うん、こんな顔」
そう言って、形のいい眉を寄せ、眉間に皺を作る。口元はへの字に結んで。歪んでしまった顔に、思わず噴出してしまう。彼も同じように笑い出した。
――まったくもう!
呆れていいのか、怒るべきなのかわからないまま、「からかわないでよ」と拗ねると、彼の瞳が優しく細まる。
「コンクール前だし。悩みごとがあるなら相談に乗るよ」
「斉藤君だって、コンクール出るよね。他人の相談相手になってる場合じゃないでしょ」
今度こそ呆れてそう返す。
優しいのは彼のいいところだけれど、コンクールはもうすぐで、誰もが自分の調整で手一杯のはず。他人の悩みごとまで聞いてる余裕があるとは思えない。
「――音無は特別だからな」
ふっと、内緒話しでもするように、屈みこんできた斉藤君がそう耳元で囁いてきた。驚いて目を見開くと、彼はすぐに離れて、「だからなんかあったら、話せよ」と真剣な眼差しで続ける。
その気持ちが嬉しくて素直に頷くと、彼は照れたように視線を逸らし、自分の席に戻っていった。
重かった心がほんの少し軽くなって、にやにやと思わず頬が緩んでしまう。途端、ぞっとする寒気と視線を感じた。
――えっ、なに?
慌てて周囲を見回す。
教室には、ほとんどが楽譜と睨めっこしている生徒ばかりで、雑談をしているのは、斉藤君と彼の男女を含めた友達数人だけ――。
気のせい?
原因を探り出す前に、がらりっとドアの音が鳴って、担任が姿を見せる。仕方なく、視線を前に戻すものの、さっき感じた鋭い視線がまるで胸に突き刺さったように、残っていた。
◆
盛大な拍手がホールに鳴り響く。
「音無さん。最優秀賞おめでとうございます」
審査員でもある学校の理事長が金色に輝くメダルをかけてくれた。
「有難うございます!」
感激で胸が一杯になる。
大好きなピアノを弾いて、その努力が認められ、褒められるのはやっぱり嬉しい。それに学内のコンクールで最優秀賞に選ばれたということは、海外への留学もできることになる。
その権利が入った封筒を受け取ったとき、ふと父のことが脳裏に過ぎった。
(私が留学したらお父さんはひとりになってしまう――。)
タロウのことも浮かんだけれど、まだ仲直りはしていない。餌もあげているし、散歩もしているけれど、今までのように楽しい気持ちにはなれずにいた。散歩は近道ばかりして、餌をあげるときもおざなりになっているから、離れても寂しいとは思わないはず。でも、父は。
そう思ったところで、観客席にいた父の姿を見つけた。嬉しそうに目を細め、手を叩いて喜んでくれている。目が合って、不意に父の唇が動く。
『――よくやったな』
その言葉を理解した途端、私はにっこりと笑顔を返して、ありがとうと心を込め、父に向かって小さく呟いた。
コンクールが終わり、友達の賞賛を受けながらホールを抜け出す。会場の前で、父が待っていた。
「小夜、おめでとう!」
「ありがとう、お父さん」
両腕を広げて迎えてくれた父の腕の中に飛び込んでいく。軽く抱擁を交わした後で、父が両手に抱えるように持っていた花束を受け持ってくれる。
「今日はもう帰れるんだろう?」
「うん。車で来たんでしょ? 駐車場?」
そう尋ねながら、私の視線はきょろきょろと彷徨う。コンクールが終わったばっかりのホールの出入り口は学生や先生、保護者で混雑していて、目的の人を見つけることができない。
コンクールが終わったら、会いに来てくれるって言ったのに……。
賞を貰って、壇上で見つけたときには、拍手をくれていたし、父と同じ、口パクで『おめでとう!』とも言ってくれた。
それでもやっぱり、気まずくなったのかな。
何度も大会に出場しているから、仲良くしていても自分より上位に入賞したりすると、急に顔を合わせなくなるひとたちを見てきた。斉藤君は違うと思ってたけど――。
胸がちくりと痛んで、悲しみが溢れてきそうになる。
「小夜?」
「なんでもないよ。帰ろう」
違和感に気づいて問いかけてくる父に、無理やり笑顔を作ってその腕に手を絡め、駐車場に向かう。
「お母さんがいたら、豪華料理というところなんだがな」
そう言い出した父の横顔は、懐かしそうで。声には出さずに、組んだ腕に力を込めることで『そうだね』ってうなずく。
いつも、優勝したときには、母は食べきれないくらいのご馳走をテーブルに並べてくれた。それは本当に嬉しかったけれど、私と父は気づいていた。私が失敗したときや、父が動物を助けられずに落ち込んでいるときがいちばん、母の料理の腕に磨きがかかっていたこと。私や父の好物を一品一品、心を込めて作ってくれていた。立ちのぼる湯気や、香ばしい匂いにどれだけ元気付けられたかわからない。
ひととき、母との思い出に浸っていた父はすぐに明るい顔になって、私を見下ろしてくる。
「よし。じゃあ、豪華ディナーってことで今日は外食していくか」
「さんせーい!」
にっこり笑って言うと、急に「あっ!」と父が声をあげた。
「しまった。タロウも連れてきてるんだった……」
「タロウ、車にいるの?!」
信じられない言葉に驚いてそう聞き返すと、父は困惑した顔つきで頭をかく。
「悪い、つい連れてきちゃったんだよ。タロウを置いてから、食べにいけばいいだろう?」
軽い口調で言うものの、その意図は明らかで。
ようするに、タロウと仲直りしてほしいということだ。
思わず歩みを止めるとそれにつられて、父の足も止まる。少しだけ前にいる父の足に視線を落とすと、溜息が落ちてくる。
「……小夜」
「タロウはっ、だって、タロウは花壇を!」
お父さんは許せるの?! お母さんとの大切な場所で、二度と同じようには戻らないのに――っ!
収まっていた怒りが膨らんで、爆発しそうになる。
「小夜」
ぽんっと大きな手のひらが頭に乗る。爆発しそうになる怒りを宥めつけるように。
落ち着いた父の声で名前を呼ばれて、顔を上げる。父の瞳は穏やかで、優しい眼差しを向けてきていた。
「タロウは賢い犬だ。子犬の頃だって母さんの花壇には一度として足を踏み入れたことはなかった。それはおまえだって、知っていることだろう」
そうだ。庭に放して、どんなに走り回っても、庭中穴だらけにしても、けしてあの花壇にだけは入らなかった。
じゃあ、なんで――……。
その理由を父は知っているんだろうか?
だから、怒ってないの?
疑問を込めて、父の顔を見返すと、うーん、と首を傾げる。
「大体の推測はつくんだよ」
「……獣医だから?」
私がそう言うと、父は面白そうに笑い出した。
「しいていうならば、獣医である前に、彼女の夫だからだ」
その言葉に私はますます首を傾げる。
「教えてほしいなら、タロウと仲直りすればいい」
何かを含んだ言い方に、ものすごく理不尽なものを感じる。だけど、怒っているのも疲れるだけで。第一、タロウと喧嘩したまま、海外に留学して離れてしまうのも、きっと寂しい。
そう感じて、うなずいた。途端、ぽんぽんっと優しく頭を叩かれる。それでいいんだ、と褒めるように。
頬が緩むのを感じながら、再び駐車場に向かって父と並んで歩き出す。
駐車場の入り口に差し掛かったとき、不意に忘れ物を思い出した。
「あっ。やば! 生物の課題忘れてた!」
「どこに?」
「教室の机の中! 来週月曜日に提出だから、今日は絶対に持って帰らなきゃ!」
明日は日曜日。学校は閉まっているから、取りに戻れない。しかも重ねて最悪なことに、生物は月曜日の一時間目で、課題は朝のHRで提出する。
「じゃあ、取っておいで。車は出して、校門前の道路脇で待ってるよ」
確かに再び駐車場に戻ってくるよりは、そっちが早い。「わかった!」そう返事をするより先に踵を返して、私は教室目指してダッシュした。
そのとき、タロウが後部座席の窓から見ていたなんて気づきもしないで――。
教室の扉まであと少し、というところで室内から争うような声が聞こえてきて、思わず足を止める。
「なんでよっ、なんであの子なの?!」
「……おい、落ち着けよ」
ヒステリックな声と対になって聞こえた冷静な口調の声は聞き覚えがあった。
(斉藤くん……?)
もうひとつの女の子の声が誰かまではわからないけれど、クラスで聞いたような気はする。斉藤君が女の子と一緒にいるということに胸がざわめく。
立ち聞きはだめ、そう思っても、足が動かない。
「あたしは、ずっと好きだったんだよ!」
まっすぐな告白がまるで鋭いナイフになったように、鋭く胸を貫く。ずきりとした痛みに、一瞬息が詰まる。
「俺はっ……!」
言いかけた斉藤君の声が不自然に途切れた。寸前までの言い合いから急に静かになった教室に嫌な予感を覚えて、視線をあげる。
教室の扉がわずかに開いていて、その隙間から見えた光景――。
明らかにキスをしてる。
それだけはわかるものの、頭の中が真っ白になって呆然と見つめていると、彼女の肩越しに目が合う。
ハッと我に返って、慌てて踵を返す。
「音無っ!」
――――なんでっ?!
わかんない。好きだって、言ってくれたのに。どうして他の女の子とキスしてるの――?
もしかして、斉藤君は彼女と付き合ってて、二股かけようとしてたの?!
混乱する思考がいろんな思い付きを浮かび上がらせ、怒りがこみあげてくる。衝動に突き動かされるように足が動く。
「音無! 待てよっ!!」
不意に追いかけてきた声。
追いつかれることが怖くて、全力で走り出す。校舎を出て、正門に向かう。
(今は顔を見たくない――っ!)
感情のまま言葉をぶつけそうで。それはきっと、斉藤君も私も傷つける。
だから――。
追いかけてこようとする気配を振り切るために、必死に走っていて、気づかなかった。
「音無っ??!」
引き止めようとする声とは違った、彼の声。
「小夜――っ!!」
父の悲鳴――。
その声に振り向いた瞬間、見えたのは眩しいほどの光。
どんっ。
鈍い音と、強い衝撃。
最後に微かに聞こえた、アレは――。
――わんッ!!
滅多に吠えない、タロウの……。
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