――――きみを、あいしているよ。
きみを、きみだけを。
失ったら、生きてはいけないほどに。
きみを、あいしているよ。
歌が流れてくる。
忘れたいのに。聞きたくもないのに。
耳を塞いだら、姿になって。目を閉じたら、メロディーになって。両方を覆い尽くせば、頭の中に。
もう、いやだと思った。
頬に冷たいものがふわりとあたって、見上げる。
ゆっくりと、――次第に視界を埋め尽くすように降り始めた雪に気づいて、このまま。
――このまま、どうか。
埋め尽くしてしまって、と願った。
どうか、すべてを。
私の身体も、心も。すべて、まっしろい、その冷たさで、どうかうめつくして。
◇――◇
さて、どうしたものか。
家に入ろうとして、見つけてしまった物体を前に、思案することしばし ―― 。
めんどくさ、という思いがないわけじゃない。だけど、我が家の前で放置して翌日死体ができあがってたときには、体裁が悪くなることは間違えようがない。いくら次男とはいえ、それは問題だ。
ふむ、と考え込んでいると、唐突にげしっと、背中に衝撃があった。
「っ、なにすんだよ、クソ親父!」
前フリもなく唐突にこんなことをしでかす男はひとりしか知らない。傍若無人を形作った男、我が家の主、遺伝子上の繋がりがあるとは認めたくないやつだ。
振り向くと、案の定、その男が相変わらず嘲笑を浮かべて立っていた。でかい体格と不釣合いのつるり、と禿げた頭が光る。
「てめぇ。まさか我が家の前で行き倒れてる女の子がいるというのに、無視していくつもりだったんじゃねぇだろうな?」
脅すような低い声音は、反論あるなら言ってみろ、ただし納得できなかったらただじゃおかねぇって意思がびしばし伝わってくる。普通の奴なら申し訳ありませんっと土下座するところを、小さい頃からイヤイヤながら訓練されてる俺はほんの少し、怯むだけですんだ。
「……っ、な、わけないだろ。いま、ちゃんと連れていこうと思ってたところだよ!」
「ほうほう。よかったよかった。俺の自慢の次男君が、我が家がお寺であることを忘れないでいてくれて。流石に、寺の前で放置して死体になってたりしたら、世間体が悪いよなぁ。そうだよなぁ。ちゃんと考えてるよなぁ」
ざくりざくりと親父の言葉が胸に突き刺さる。
てめっ。最初から俺がどうするか見てやがったな、という反論はかろうじて飲み込んで、苦々しく溜息をついた。
「ちゃんと運んでこいよ、若人!」
ふふん、と鼻で笑って、何百という階段を足取りも軽くあがっていく。
どんなに急いだところで、この階段の頂点への最高到達時間は十四分四十八秒だった。
もう一度、雪に埋もれている女の子を見ながら、なんともいえない溜息を零した。
(せめて、階段上がったところで倒れててくれよ。)
面倒だとどんなに思ったところで、親父に見つかった以上は逃げられないと、彼女を埋め尽くしている雪を払い除ける。
次第に、現われてくる彼女の顔に ―― 。
「うわっ、嘘だろ……」
思わず零した言葉は喜びよりも、更なる面倒になりそうな予感だった。
◇――◇
じんわりと、凍りついた身体が溶けていく感覚に、意識が押し上げられて、瞼をひらいた。最後に見た色は、真っ白だったのに、やわらかな茶色の板張りが目に付いて、それがなにを意味するのかわからないまま、じっと見つめていた。
(わたし、は…………)
どうしたんだろう、と思う間もなく、不意に顔を覗き込まれる。
「っ!」
視界に現われた顔は、ちいさくて。あどけなく。ぱっちりとした目が、何度も不思議そうに瞬いたかと思うと、ぱぁっと嬉しそうに笑った。途端にできたえくぼが愛らしい。
「まぁくん!まぁくん!てんしさまが、おめめをあけたよぉ!」
幼い子ども特有の舌ったらずな口調で発せられた甲高い声。
その言葉を疑問に思う間もなく、どたどたと騒がしい音が聞こえて、襖が開かれる。同時に怒りを帯びた声が飛んできた。
「――ゆきっ!まぁくんって呼ぶなって言ってるだろーが!」
視線を向けると、私と同じくらいの年の男の子が、眉尻をつりあげ、黒い瞳に怒りを灯して立っていた。短く逆立っている黒髪も、鋭い顔つきも、纏う怒りを更に強くしているように思える。それなのに、彼よりも何歳も幼い女の子は怯える様子もなく、堂々と言い放った。
「だって、パパもたくくんも、まぁくんって呼ぶもんっ」
( ――まぁくん。)
男の子の本当のところはわからないけれど、外見上の印象からすると、随分かわいらしい呼び方だなぁ、と呑気に思う。
「それより、まぁくん。てんしさまが、おきたの。みて、みてー」
更になにかを言い募ろうとした彼を遮って、女の子が嬉しそうに言いながら私を振り返る。
(てんしさま……って、わたし?)
思わず自分を指さすと、女の子は大きく首を縦に振る。慌てて、私は首を横に振った。
『違うよっ、私は――!』
そう否定しようとして、言葉が出てこないことに気づく。
――えっ?! ウソッ?!
何度も声を出そうとして口を開くものの、音ひとつ出てこなくて。
冷や汗が背筋を伝っていく。
まさか。
ぐっと喉を押さえる。
「っ、あんた、まさか……」
驚いたような声を耳にして、ハッと顔を上げる。
まぁくんと呼ばれた男の子が困惑したような顔で佇んでいた。
「まさか、声が……でないのか?」
問われた言葉が、まるで断罪でもあるかのように聞こえて、こみ上げてくる吐き気を感じた。
問題はないようだけどねぇ。
身体は少しの凍傷があるくらいだ、とこの家の主人が呼んでくれたらしい医師が困惑した顔つきで小首を傾げる。眼鏡の黒縁を押し上げながら、手に持つカルテと私の顔と交互に視線を向けた。有難うございます、とお礼の意味を兼ねて、頭を下げる。
同時に、どたどたと荒い音が聞こえてきた。まぁくんが訪れてきたときより重々しい感じがする。
足音とは裏腹に、障子はスッと軽い調子で開いた。
――和尚様?
最初に目に入ったのは、つるりと光る頭。藍色よりも青が強い、雲水衣。眉が太く、厳しい顔つきにでかい身体。重い存在感に、緊張が走る。
――あのっ。
お世話になったお礼を言おうとして、声が出ないことを思い出す。愕然とした気分になったのに、和尚様は部屋に足を踏み入れると、どかっと目の前に座り込んだ。胡坐をかいて、ひらひらと手を振る。
「遠慮はいらんよ。……それより、どんな具合だったんだ?」
後半は隣に座る医師に話しかけていた。
「身体に悪いところはないね。声に関しては――恐らく心の問題だろう」
「体調に問題がないならいいさ。悪かったな、忙しいところ」
くだけた会話でやり取りをするふたりを呆気にとられながら見ていると、気づいた医師が眼鏡の奥の細い目を更に細めて苦笑を零した。
「この寺の和尚とは幼稚園からの付き合いなんだよ。昔から困ったひとには手を差し伸べるのが趣味だったから、気にする必要はまったくないとも」
「……違うといえんが、なぁんか引っかかる言い方だなぁ」
同じように苦笑いをしながら和尚様は言って、まぁだからと続けるように再び私に向かって口を開く。
「なぁんもないところだが、身体が休まるまでいてくれてかまわんよ」
私が頷いたことを確かめると、それじゃあ、と立ち上がった医師に「送るよ」と声をかけて後に続いて出て行ってしまった。
再び、部屋に静けさが戻る。
最初に会った、ゆきちゃんはお医者さんが来ると同時にまぁくんに連れていかれた。そのゆきちゃんに、「てんしさま」と言われたことを思い出して、苦い笑みが浮かぶ。
――わたし、なにやってるんだろう。
あの部屋を飛び出して、ひとりで歩き続けて。どこまできたのかもわからないまま、気がついたら雪が降ってきていた。どんなに離れても、流行の歌はどこにでも流れていて。聞こえてくる声に、あの歌がよみがえってくる。
振り払いたくても、忘れたくても、どうにもならなくて。
もう消してしまうには、わたし丸ごと、消えてしまうしかないと思った。
せめて、真っ白い雪の中で。
それなのに、ただ他人に迷惑かけるだけになってしまうなんて。唯一、消えてしまったのは『声』。あまりにもバカバカしくて、やりきれない。
ふと、片隅にある電話が目に入った。隣に置いてある時計を見れば、10時を示していて、電気がついているということは、夜の10時。門限はすっかり過ぎている。
(……心配してるだろうな。)
今日は仕事があると言っていたから、門限きっちりに家の電話に連絡があったはず。時間通りに出なかった私を、きっと心配して仕事を放り出して探しに帰っているかもしれない。
そう思って、ずっしりとした重さが胸に圧し掛かってきた。
いやだ、と泣きそうになる。どうせ『声』が出ないから、電話したって話せるわけじゃない。だから、連絡できないのは仕方ないことで。
自分に言い聞かせるものの、そんなふうに思うと、不意にすべて投げ出したい気持ちに駆られる。
雪の中に消えてなくなりたいと願ったときのように。
「……てんしさま?」
恐る恐る話しかけてくる声に気づいて顔を向けると、さっき和尚様と医師が出て行って開きっ放しになっていた障子の影から、ゆきちゃんが覗いているのを見つけた。
その可愛らしさに自然と頬が緩んでいく。おいで、という意味を込めて手招きすると、ゆきちゃんの顔にぱぁっと笑顔が浮かぶ。
「てんしさま!わたし、てんしさまにあいたかったの!」
ずっと、ずーっとあいたかったんだよ、と言って私の傍まで来ると、姿勢正しく正座をしてきらきらと輝く目で見上げてくる。
私はちょっと考えて、それから彼女の小さな手のひらをとり、指を動かす。
「くすぐったいよ、てんしさま」
クスクス笑っていたゆきちゃんは、すぐにハッと思いついた顔で、手のひらに集中し始める。指を動かし終えると、うーんと一瞬考えて。
「“どうして?”」
正解、と私は頷く。嬉しそうな笑顔が返る。
「わたしね、てんしさまにききたいことがあるの!」
“なぁに?”
そう問いかけると、不意にゆきちゃんの顔がくしゃりと歪む。聞きたいけど、聞いてしまうことへの不安がありそうな、戸惑いがちな表情に、胸が痛む。
同時に、『てんしさま』じゃない私が安易に聞いていい話じゃないような気がした。そうはいっても、無邪気に信じているゆきちゃんに本当のことを言うのは躊躇ってしまう。
「ゆき。彼女は“てんしさま“じゃねーっつったろうが!」
唐突に割り込んできた鋭い声と言葉に、ハッと視線を向ける。
なぜか苛立ちを露わにした、まぁくんが立っていた。
最初に見た光景と同じように、ゆきちゃんと対峙している形で。再び、ゆきちゃんもムッとした顔つきでまぁくんを睨みつける。
「ちがうもんっ!てんしさまだもん!」
「彼女はおまえと同じ。人間の女なの。見りゃわかるだろうが」
「てんしさまは、あおいおめめに、きんいろのかみをしてるんだもん!だから、てんしさまだもん!」
ゆきちゃんの言葉に、そういえば、と思い出した。
――そうだった、わたしってば。カラコン入れたまま。しかも、髪も染めたばっかりだ。
(……さいあく。)
絶望にうめく。
『だから、君を放っておけないんだ』
そんな言葉が脳裏に過ぎる。
いつも彼の口から放たれるあの言葉は、鎖のように絡みついてきて。底のない暗闇の中に引きずられ、落とされていくような気持ちになった。怖くて怖くてもがいても、救いはなくて。
「……おい、大丈夫かよ?」
思考を遮るように、話しかけられて慌てて顔を上げる。
対峙していた二人の視線が向けられていた。心配するように見ている二人に、笑みを浮かべて曖昧に誤魔化す。
「真っ青だぜ」
そんな私にまぁくんが少し呆れたように言って、傍に座り込む。和尚様と同じようにあぐらをかいて。それに気づいたゆきちゃんは、タタッと近寄り、当たり前のようにまぁくんの足の上に座った。慣れているように彼はゆきちゃんの頭をくしゃりと撫でる。
喧嘩しながらも、当たり前に仲良くしている姿に、懐かしさがこみあげてきた。いつから、この懐かしさが胸を痛めるようになったんだろう。
「てんしさまー。げんきない?」
心配してくれているのか、見上げてくるゆきちゃんの潤んだ瞳はまっすぐで、純粋な光に煌めいている。
“大丈夫だよ”、安心させるためにそう伝えようとして、まぁくんの声に遮られた。
目が覚めて、彼に会って初めて聞く、優しい声。
「――ゆき。彼女はいま、飛ぶ方法を忘れちまって、空に帰れず落ち込んでるんだ。だから、いまはお前の話を押し付けたりせずに、彼女の話を聞いて、もう一度飛び立つ方法を考えてやろうぜ」
ハッと思わず息を呑んだ。
まぁくんの瞳はゆきちゃんに向いているのに、その言葉は間違いなく私に向けてのもの。
ゆきちゃんが何度てんしさまだと言っても、違うと言っていた彼がどうして認めるようなことを口にしたのかわからなくて、困惑する。
――でも。
彼女の話を聞いて、と言われたことがすべてを投げ出したい気持ちになってきた心をやわらかく包み込んでくれる。冷たく凍り付いていた胸に、温かいものが沁みこんでいくみたいだった。
まるで、雪の中に埋もれていたはずが、起きたときにはこの、暖かい場所にいたときのように、じわじわと。
「ま、まぁくん、てんしさまがないてるよ?!」
慌てたように言うゆきちゃん。
その言葉に、頬に手のひらを当てる。しっとりと濡れていることに気づいて、また次から次から涙が溢れていく。
「っ、な、なんだ。なんつーか。ま、まぁ、とりあえず落ち着くまでここに泊まっていけばいーんじゃねぇの」
急に泣き出した私に、どう接すればいいのかわからないまま、混乱したような口調で彼が言う。
そんな彼に向かって、ゆきちゃんが呆れたように溜息をついた。
「……まぁって、やっぱりまぁくんだね」
小さな呟きは、しっかりと耳に届いて。
思わず噴出した私に、ゆきちゃんもえへへと笑みを浮かべた。もちろん、軽い拳骨をまぁくんにもらっていたけれど。