縁側に下りる。
庭園が真っ白い雪で覆われていた。遮るもののない庭はどこまでも白く続いていて、その眩しさに視界がぼやけてくる。熱くなる眦に溢れてきそうになる涙を感じ取って、頭を左右に振った。
(――泣いちゃ駄目だ。)
自分に言い聞かせる。
ぐっと堪えて、別のことを考えようと、周囲を見回す。
広いお寺なんだなぁ。
なんとなく、建物も古めかしい。もしかしたら、何百年の歴史、とかそういう由来もある処かもしれない。庭園の灯籠に降り注ぐ雪も、焦げ茶色の屋根に積もる白、風流に見える世界は静寂であることも合わさって、とても居心地がいい。時折、廊下に流れてくる線香の匂いも懐かしくて。
まるで時の流れを感じさせない、ゆったりとした空間は本当に久しぶりだった。どれくらいぶりかもわからないくらいに。
『……ちゃんっ、見て! いちめん雪だよ!』
不意に蘇ってくる記憶。
庭に降り積もった初めて見る雪に、幼かった私は無邪気にはしゃいだ。そんな私に彼は優しい眼差しを注いでくれていた。見守るように、微笑んで。
『うん、きれいだね。まるで世界のすべてが真っ白になってしまったみたいだ。はしゃぎまわるのはいいけど、怪我をするんじゃないよ』
気をつけて、と柔らかな口調の忠告に『だいじょうぶ!』と返して私は庭に飛び出した。――飛び出そうとして、腕を掴まれる。その力の強さに驚いて振り向く。
さっきまで優しかった眼差しが厳しいものに、微笑が無表情に変わっていた。
『怪我をするって言っただろう?』
咎めるような鋭い声もいつもと違っていて、たちまち浮かれていた気持ちは消えてなくなり、腕をつかまれたまま外を見た。窓の外から同じような年齢の子達のはしゃぐ声が聞こえてくる。うらやましくて、悲しくて、窓に映る自分の顔がくしゃりと歪んでいくのを見て、苦しくなった。
――ビシャッ!
唐突に軽い衝撃を顔面に受けた。
「えっ……」
ひやりとした冷たさ。零れ落ちていく白い雪。庭園には赤い上着に先端にくまの刺繍がはいったピンクのマフラーを身につけた、ゆきちゃん。
「てんしさまー。ゆきなげしようよ!」
にっこりと笑って右手を差し出す。小さな手のひらには、ぎゅっと握り締めて作ったらしい白い雪の塊り。それを見て、さっきは顔に投げられたんだと気づいた。返事をするよりも先に、ゆきちゃんは持っていた塊りを投げつけてくる。ぽす、と服にあたった。
「ゆき、たんまたんま! 風邪引くとまずいから彼女もちゃんと防寒してからだ」
不意にそう声がして慌てた様子で廊下を早足で向かってくるまぁくんの姿を見つけた。白いダウンジャケットと青いマフラー、雪の結晶の刺繍が入ったニット帽を差し出される。
「俺のだからちょっと大きいとは思うけど、あったかいから着とけよ」
――いいの?
問いかけるように見ると、問答無用で帽子を被せられた。ぐるぐるとマフラーを巻きつけられる。
「しばらく、ゆきに付き合ってやって」
兄らしい妹想いの言葉に、胸がぎゅっと痛む。こみあげてきそうになるなにかを抑えるために俯くと、ダウンジャケットに包まれた。ぽんぽんっと帽子を叩かれる。驚いて顔を上げると、優しい眼差しにぶつかった。
「俺さ、あんたのこと知ってるんだ」
その言葉に衝撃を受けるよりも、納得する気持ちが強い。
まぁくんくらいの年代で知らないことのほうが珍しいのかもしれない。
「声が好きで――って、今こんなこと言ったら傷つけるのかもしれないけど、実はアルバム持っててさ。ゆきのやつ、あの歌詞カードの表紙を見たこともあって、あんたを天使だって思ってるところもある」
そうだったんだ。
言われてそういえば、アルバムは天使をイメージしたものになっていたから、あの表紙もそれをモチーフに作っていたことを思い出す。最先端の合成技術で本物そのものに見えてしまったかもしれない。
「だから正直、あんたを拾ったとき面倒だと思った」
今まで、社交辞令や平気で嘘を口にするひとたちに囲まれていただけに、まぁくんの率直さは不快に感じるよりも好感を持ってしまう。
「けど、これも縁ってやつなのかもしんねぇな」
面白がるような含みで続けられた言葉に、私は首を傾げる。
(――どういう意味?)
疑問を乗せた眼差しに、彼は苦笑を浮かべた。
「あんたがこの寺の前で倒れてたのは、もちろん偶然っていったらそれまでだけどさ。ゆきが天使を必要としていて、あんたがきっと、ゆきを必要としてるからだって、親父の受け売りだけどな」
(私がゆきちゃんを……?)
やっぱり意味がわからなくて、首を振る。少し困ったような表情になって、彼はまぁ、と続けた。
「そのうちわかるんじゃねぇの? 実は俺も親父の言うことはたまにわかんねぇから」
あっけらかんとした口調に思わず噴き出す。目が合うと、まぁ君も笑い出そうとしていて――。
――ぼすっ!!
見事に彼の顔面に雪の塊りが直撃する。
投げつけられた方向を見ると両頬を真っ赤に膨らませたゆきちゃんが腰に両手を当てて立っていた。
「まぁくんっ! てんしさまをひとりじめしないでっ! いまからいっしょにゆきなげするんだからっ!」
「……ゆき。てめぇっ!」
だんっと廊下から飛び降りたまぁくんは問答無用で雪を手に取ると、ゆきちゃんに投げつけた。もちろん、手加減していることがわかるほどの勢いで。ゆきちゃんもきゃぁきゃぁ、と笑いながらその塊りから逃げ出す。
「油断大敵っ!」
ふと振り返ったまぁくんの手から雪が投げつけられる。彼の言うとおり油断していた私の顔面にそれは直撃した。
――ムカつく。
怒りと同時に沸き起こってくるどこか浮かれた気分。その感情に任せるまま、私も庭園に降りて雪を手に取り、ゆきちゃんやまぁくんに投げつけた。
庭中を駆け回る。
あの頃にはできなかった、雪遊び。窓の外から聞こえていたはしゃぐ声が、今のゆきちゃんたちの声に重なる。
嬉しくて楽しくて。このままずっと続いてほしいと、願う気持ちがわきあがりそうになっていることに気づいて、あの頃とは違う苦しさを感じた。
タイム、と休憩を提案したまぁくんとゆきちゃん、私が廊下に座り込んで駆け回って疲れた身体を休めていると、風邪をひくから、と騒ぎ声を聞きつけてやってきた和尚様が私とまぁくんには甘酒を、ゆきちゃんには生姜湯を差し入れてくれた。
不意に流れてきたジャズに気づいて、顔を上げる。
「あぁ、卓也が聴いているんだろう」
「アニキ、寺の跡継ぎのクセしてオーディオが趣味でさ。たまにでっかい音で鳴らすんだ。寺にジャズやクラシックなんて似合わねぇよなぁ」
和尚様の言葉に、まぁくんが呆れたように言う。それを聞いた和尚様はぽかりっと彼の頭を叩いた。
「おまえは若いのに狭量だな。寺とか似合うとか関係ない。好きかそうじゃないか、だ。好きなら自分がどんな立場にあっても求める。寺だから、和尚だからとか言い訳にはならん。それは単なる諦めるための屁理屈っていうんだ。卓也の寺でも和尚でも、好きなものは好きだからする、その精神が大事なんだ」
「だいじなんだー」
うんうん、と和尚様に続いてゆきちゃんが厳かに頷く。
――好きか、そうじゃないか。好きなものは好きだからする。
言われた言葉が胸に響く。
趣味じゃなくて、仕事になってしまったけれど、歌うことは好き。歌っているときの自分は自由だと感じられるから。だけど、彼の作る曲を歌うようになって、それがすべて私へのメッセージになっていることに気づいた瞬間、歌うたびにストレスを感じるようになっていた。息が詰まる。がんじがらめに束縛されていく、感覚。
新曲だと披露された歌に、押し込めていたいろんな感情が爆発して、逃げ出してしまった。
――――きみを、あいしているよ。
きみを、きみだけを。
失ったら、生きてはいけないほどに。
きみを、あいしているよ。
あれは違う。
私が唄いたい歌じゃない。あんな歌は唄えない。そう思うのに、私があの手を振り払ったら、同じ想いはもてないと告げてしまったら、ほんとうに。あの歌詞の言葉そのまま、彼は――。
手を放すことも、正直に気持ちを話すこともできずに、想いを込めて唄えない歌は空っぽで、何度繰り返してもやっぱりダメで、どうすればいいのかわからない。
「まぁくんっ、まぁくん。おどろうよ!」
生姜湯を飲んでいたゆきちゃんはコップを置くと、再び庭に降り立った。
「はぁ?」
「まぁくん、あれだ。雪のなかで、母さんがゆきと踊っていただろう」
可笑しそうに和尚様が言う。
「わかってるっての。けど親父がまぁくんって呼ぶんじゃねぇっ!」
「そんなことばっかりいわないの! ねっ、まぁくん! おどっておどって!」
無邪気にゆきちゃんがお願いすると、不機嫌もあらわに和尚様に食って掛かっていた彼は「しょうがねぇな」と立ち上がった。廊下を降りて、ゆきちゃんのもとに向かう。
(……なにをするんだろう?)
ふたりが踊る、という光景が想像できずに、好奇心いっぱいに見つめていると、まぁくんはゆきちゃんの目の前に立ち、片膝をついた。視線を合わせて、恭しく言う。
「ゆきお嬢サマ、わたくしと踊って頂けますか?」
さっきまでの口調とは違って、丁寧な――まるで紳士のような言葉遣いにゆきちゃんの目が嬉しさに煌く。ゆきちゃんもズボンの両端を軽く指で掴んで一礼すると、よろこんで、と応じて彼の差し出す手を取った。
驚きで目が離せない私の前で、ふたりは踊り始めた。流れてくる、ジャズに合わせて。楽しそうに。幸せそうに、ゆきちゃんが笑う。まぁくんの顔もいつになく、優しい表情が浮かんでいた。
「妻が踊りが好きでね。雅也が小さい頃から一緒に躍らせていたんだ。ゆきがまだ、物心つかないうちにも。ああして雪の中で踊るのはゆきの唯一の妻との思い出なんだよ」
穏やかな声で、和尚様が教えてくれる。
母親との思い出が少ないゆきちゃんの幸せであたたかい、思い出。幼い頃に母親を亡くしたゆきちゃんのために、まぁくんは彼女が願えばいつも、この願いだけは必ず叶えるようにしているらしい。母親を思い出す、唯一のことだからと。それを聞いて、私の胸にもあたたかい想いが溢れてくる。
目の前には、私には作り上げることができなかった家族の形があって、見ていると眦が熱くなる。私が気づいたときには失っていた。最初からあったのかもわからないけれど。
「フム、わたしも踊りたくなったな。こんな寒い日は身体を動かしたくなる。どうかね、お嬢さん。わたしのような坊主で悪いがお付き合い下さるかな?」
少しおどけて差し出された手に、私も笑って頷いた。
和尚様は泣きそうになった私に気づいて、そう言ってくれたに違いない。
廊下から手を引いて、和尚様はそっと庭に下ろしてくれる。踊るゆきちゃんたちに合わせて私が足を踏み出そうとすると、ゆきちゃんがハッと気づいたように声を上げる。
「あっ、パパ! ゆき、パパとおどりたいっ。まぁくん、まぁくんはてんしさまと!」
「なっ、ゆき!」
「しょうがねぇな、ゆきは。ほら代われよ、まぁくん」
わざとらしい言い方にまぁくんが怒るより先に、私の背中を押し出される。一瞬躓きそうになって、慌てて手をつかまれた。
「っ、親父! あぶねぇだろ!」
「――俺はお前の運動神経を信じてるぞ」
「しんじてるぞぉー!」
にやりと口端をあげて笑う和尚様のあとにゆきちゃんが続いて、ふたりはまぁくんにかまわず、楽しげに踊りだした。
「……よくいうぜ、ったく」
呆れたように言って、まぁくんは気を取り直すように溜息をついた。私が興味深い目で見ていることに気づいたのか、しょうがねぇな、と自分の短い頭をがしがしとかいて、手を取る。
「俺と、踊ってくれますか?」
ゆきちゃんに告げたときより、彼の頬が赤くなっているように見えて、くすぐったい気持ちになる。喜んで、と返事ができないから少しでも伝わるように、繋いでいる手をぎゅっと力を込めて握りしめた。
白い雪が優しく降りそそぐ雪のなか、音楽に合わせて踊る初めてのことに、熱くなる想いを知った。