コンビニの中では1年と少し前くらいから流行になっている歌が流れていた。
世界中に注目され、あらゆる賞を戴いた歌は作曲者が不明ということでも有名だった。作詞をつけた歌手も、単に一般から募集した中で最も心に響く曲だったから使わせてもらったとコメントするだけでそれ以上の情報は流れることがなかった。それでも、曲と歌詞が合わさり、更に歌手の声で歌われることで、多くの人々の心に残るものになった。
「今までよりは、いちばんだよな。やっぱ」
気づくかどうかはほんと、賭だったんだけど。
この歌が流れるたび、驚いた彼女の顔が浮かんで、頬が緩んでしまう。
ほんとうに短い時間だったけれど、曲につけられた歌詞を見るたびに、彼女があの時間をとても大切に想ってくれていることがわかって、嬉しくて、どこかくすぐったくて、胸が一杯になる。
歌手としての彼女を知ったのは、たまたま手に取ったCDジャケットに惹かれたから。
天使をモチーフに製作されていたそれが、妹であるゆきがよく口にする『“てんしさま”に会いたい』という言葉に重なったからで、歌詞カードを見て、男としてはちょっと退いてしまうような愛というより、偏愛のような内容にうんざりした。それでも購入した以上はと思って、聴いてみれば、曲に合わない声が心に響いた。作詞作曲は有名な男で、いろんな歌手に提供していて、多数のヒットも出しているにも関わらず、なんで、と疑問を感じた。
なんて、合わないんだ、と。
曲調も歌詞も、彼女の声にはとても合っているようには思えなかった。のびやかに、澄んだ声で歌う彼女には。
もちろん、だからといって、自分にはどうしようもないから、それっきりCDは聴くことなく、棚に並べたまま取り出すこともなくなっていた。
――まさか、その彼女に会うなんて思いもしないで。
2年前、最初は面倒だと思った。
そのうち、彼女の悲しみや苦しみが伝わってきて、胸に痛みを感じる自分に気づいた。大切なはずの声を失ってしまうほど、彼女が抱えているものは重くて、耐えきれずに、雪の中に埋まってしまっていたその心はもう、ボロボロだったのかもしれない。
安易に救えたら、とか助けたいとか思ったわけじゃない。ただ、ゆっくり休めることが出来たらいいと願っていただけだ。
その願いは叶って、彼女は世界の歌手になり、ゆきもまた、以前には時折見せていた暗い顔をすることもなくなった。
「雅也、今回はいい縁を取り持ったなぁ。ゆきにとっても、彼女にとっても。そういうのを見逃さずにいられるのは難しい。こんな世の中だ。騙されないように人を救うことは容易くはないが、目の前で起きることをただ眺めて過ぎることを待っているだけじゃあ、成長はせんよ」
母親の遺影の前で手を合わせるゆきの姿を眺めながら、親父がぽつりと零した。
雪に埋もれた彼女を前にどうするべきか考え込んでいた自分への皮肉のようにも聞こえたけれど、そんな口調で説教するのは親父らしい。いつものように怒った返事をするわけでもなく、「そうだな」とうなずくだけで止められたのは、実感したこともあり、――それこそ、成長の証だと思う。
親父の言葉が的を得てるなんて、悔しいけれど。
「まぁくん、まぁくん。これがいい!」
スッと差し出されたのは、イチゴ味のかき氷が入った袋。それを持ってきらきらと目を輝かせる妹に呆れてしまう。
「ゆき、おまえなぁ。外は雪が降ってるんだぞ、余計に寒くなるだろ」
「いいのー。いま、ゆきはこれが食べたい気分なんだもん」
自分の欲求に対しては頑として譲らないのは、困ったところだ。
まぁ、いいか。なんでも好きなものを買ってやるって言ったのは俺だし。
ちょっと待ってろ、とかき氷の袋と自分用の珈琲と家族分のちょっとしたデザートを持って会計に向かう。
買い物を終わらせて、ちょうど曲が終わった頃に外に出た。
ちらちらと降る雪に、空を見上げる。
「まだ止まないねー」
ゆきの言葉に適当な返事をしながら、「転ぶなよ」と手をつないでやり、家に向かって歩き出す。
「"てんしさま”はなにしてるんだろうねー?」
唐突にでてきた名前にドキリと胸が鳴る。
さぁな、と肩をすくめながら、本当になにをしてるんだろうな、と声に出さずに思う。
すぐにアメリカに飛んでしまったこと。そこで一般から募集した曲で歌を作り、メジャーになったこと、それからつい最近、同棲していた作曲家が病で亡くなったことがニュースや雑誌を賑わせ、彼女の行方はわからなくなった。
わからなくなったといっても、一般に情報が流れていないだけで、どこかで暮らしてはいるんだろう。
(元気にしてるよな?)
親父やゆき、それに俺との出会いが彼女を強くしているといい。
雪に埋もれてしまった彼女の心のままだったら、もしかしてと最悪のことを想像していたかもしれないけれど。
階段までたどり着いたところで、彼女が埋まっていた場所に視線をやる。
『わたし、もう負けない』
そう言った彼女の笑顔が浮かぶ。
いるわけないだろ、俺。
自分の想像に苦笑して、ゆきと階段を上っていく。
今朝早く雪かきをしたにも関わらず、もううっすらと積もり始めている。このぶんだと、昼過ぎにはまた階段がうもれてしまうかもしれない。
「まぁくん、まぁくん……」
突然、ゆきがぶんぶんっと繋いでいる手を振る。
なんだよ、と見下ろせば、ゆきは信じられないものを見るかのような目を向けていた。その視線を辿っていく。
「っ、」
階段を上がりきった寺の門の前。
しゃがみこんで、雪まみれになっている物体が、俺たちに気づいたのか顔を上げる。
「“てんしさま”?!」
見覚えのある容貌。
随分と痩せたような気がする。顔も白く、けして元気だとはいえないだろう顔で、彼女は笑った。
「こんにちは」
「てんしさまーっ!」
ぱぁっと笑顔になったゆきが彼女に抱きつく。
「こら、ゆき!」
一瞬ぐらりと彼女はよろけたけれど、すぐに体勢を整えてゆきを受け止め、抱き締めた。
「会いたかったよ、てんしさま!」
「わたしもだよ、ゆきちゃん」
ゆっくりと噛み締めるように言う。
ゆきを抱き締めている身体がわずかに震えていることに気づいて、二人に近づき、ゆきの頭に手をのせる。
「……ゆき、感動の再会は後でな。親父に言ってあったかい飲み物を用意してもらってろ」
俺の言葉に「あっ!」と声を上げて、ゆきは彼女から身体を離した。
「うっ、うん! “てんしさま”! はやくきてね!」
そう言ってまさに脱兎のごとき勢いで、寺の中に入っていった。
その背中を見送って、俺は大きく息をついた。彼女を見ると、少し怯えた瞳で見つめ返される。
(怖がらせるつもりないんだけど……。)
苦笑して、ゆきにするように彼女の頭に手を伸ばし、降り積もっている雪を振り落とす。
「いつからいたんだよ?」
「このまえ、今度はせめて階段上がってから倒れろって言ってたから、がんばってここまできたんだけど、力尽きちゃって一歩も動けなくなっちゃった」
明るい口調を装って笑顔で言われても、無理をしていることはわかる。その証拠に、彼女の笑顔はすぐにくしゃりと歪んでしまった。
思わず、腕の中に抱き寄せる。
すっかり冷たくなっている身体は、頼りなく細く、やわらかい。
彼女は何も言わず、背中にしがみついて嗚咽をあげ始め、その声を隠すかのように、雪が降りしきる。
しばらくして、彼女がぽつりと零した。
「……あの曲、うれしかった」
思いがけない言葉に、少し離して彼女の顔を見下ろす。
悪戯っぽく笑う顔は涙でぐしゃぐしゃなのに、可愛いと思ってしまった。
「気づいてもらえて、俺も嬉しかった」
「作曲してたなんて知らなかった」
「趣味を言い合う時間なんてなかっただろ」
ほんとうに短い時間だった。
お互いのことを知ることもなく、ただ心を想いやって、胸の奥にかすかな火を灯しただけ。
それはこの雪の中、消えてしまうかもしれないほど小さなもので。
まだはっきりとした形あるものじゃない。
それはきっと、これからのことで――。とりあえず、こうして寄り添って、言い合いをしていることは心地いい。そう思えることが大事だった。
ふと思い出して笑うと、触れ合っている身体からそれに気づいた彼女が怪訝な顔をする。
「そーいや。俺たち、正式には名乗ってもいなかったと思ってさ」
ゆきは『まぁくん』、親父は『雅也』と呼んではいたし、アルバムやニュース、雑誌などで彼女の名前を見なかった日はなかったけれど。
言われて初めて気づいたように、彼女は笑った。
「そうだったね。わたしは森村。森村唱歌」
「今さらだけど、俺は三乃宮雅也。とりあえず、まぁくんは禁止だからな」
そう釘をさすと、彼女は何も言わないままただ、悪戯っぽく目を輝かせた。まるでゆきが悪戯を企んでいる時の顔つきそのもので。
しょうがないな、と苦笑いが零れる。
きっと彼女が呼ぶ響きは、ゆきとは違うものになるだろう。
「そろそろ、家の中に帰ろうぜ。ほんと、風邪引くから」
身体を離そうとして、ギュッと上着を掴まれる。
「待って。あの、約束――」
「えっ?」
上目遣いで見つめられ、ドキリと胸が高鳴る。
一瞬、真っ白になった頭の中に、彼女と別れるときに交わした言葉が浮かぶ。
「あぁ――」
思い出したものの、今は雪が降るなかで、しかも彼女の身体はとても冷たく――とはいえ、縋るような眼差しを向けられて、あとで、と言うこともできそうになかった。
上着を握り締めている彼女の手を取る。
「俺と、踊ってくれませんか?」
できる限りの優しさを込めて言うと、繋がった手をギュッと握り締めて、彼女は嬉しそうに笑った。
今にも泣き出しそうな、ぐしゃぐしゃの顔で。
――よろこんで。
そうして俺たちは雪の日の出会いを描いた歌を口ずさみながら、ステップを踏みだした。