ただいま、と玄関の扉を開けてなかに足を踏み入れた瞬間、バタバタと走ってくる音が聞こえてきた。ドアが開く音、そうして姿を見せたのは――。
最初に感じたのは、空気の違い。
お寺にいたときは雪が降り積もっていて外はとても冷たかったけれど、あの場所にいた家族みんなの気持ちがとても温かくて。
それなのに、今居る場所は。
外には雪も降っていないし、すっかり晴れ渡っているのに、寒さに晒されているかのように全身が震えそうになる。部屋の中を満たしているはずのエアコンの空気さえ感じられないほどに。
ふわふわの薄茶色の髪が窓から差し込んでくる光で金色に透けて見える。色白い肌。今は閉じられている瞳は、母親が外国人のためにきれいな碧色に染まっているけれど、たいてい彼は様々なカラーコンタクトを入れてそれがわからないようにしている。
――“てんしさま”
ほんとうに天使さまがいるのなら、その敬称はわたしより彼こそが相応しい。そう思わずにはいられないほど、彼の容姿は甘くやわらかく、なおかつ精巧に作られている作品のようなものだから。
そんな彼が自分の兄になると紹介された時には信じられず、何度も何度も確かめた。
(ほんとうに、ほんとうに?)
両親も彼も、苦笑しながら何度だって厭きずに付き合って頷いてくれたっけ。
幼い頃の優しかった思い出のひとつ。
いつのまにか、彼の内実は思い描いていたてんしさまと、違ってしまったけれど。
「……君の言い分はわかったよ」
ぽつり、と沈黙を破って零された言葉に、ハッと我に返り彼を見ると、自分の膝に両肘を乗せ、組んだ手の甲に顎を乗せたままの姿勢でわたしをじっと見つめていた。視線はわたしに向いているのに、きれいな碧の瞳にはなにひとつ、映し出されていない。それに気づいて、背筋に寒気が走る。
「――っ!」
「その結論にたどり着くために、君は連絡を断ってたってわけだ。ずいぶんだね、僕が心配するってわかってたはずだよ。それとも、そんなに鬱陶しかったのかな、僕のこと」
「ちっ、違うよ! それはっ、だって声がっ」
「ああ、声がでなかった。そう。じゃあ、仕方ないね。たとえば誰かに頼むとか、そんな手段も思いつかないほど君は愚かな子なんだから」
否定も拒絶もすべてが冷たい言葉の羅列に遮られていく。
(どうして――?!)
彼がしゃべり続けるほど頭の中が混乱していく。何を言いたいんだろう。どうして、彼はひどい言葉を突きつけてくるんだろう。
胸が鋭いナイフで抉り取られていくみたいに痛みが走って、震えそうになる手をぎゅっと握る。
「そんな愚かな子の言うことを聞いて、僕に君から離れろって言うの? それが君の出した結論? 自由に歌いたいって?」
更に口調の端々に蔑みが混ざり、バカバカしい、と吐き捨てられてしまう。
ここまで冷たい態度を向けられたのは初めてだった。
落ち着いて話し合おうと思っていた気持ちが次第に萎えていく。
話そうとしていたことを片っ端から拒絶されて、喉に詰まった言葉に息ができなくなる。
ここで負けるわけにはいかない。このまま黙ってたら、同じことの繰り返しになる。前に進むと決めた。自分の足で歩きたいと願った。
脳裏に浮かぶのは、ゆきちゃんと交わした約束。
「れいちゃん、わたしは――」
「アメリカに行くよ」
遮るように告げられて、思わず彼を見つめる。
――え?
なにを言われたのかわからず混乱しているうちに、ソファから立ち上がった彼が近づいてくる。
「アメリカに行くことが決まった。向こうの事務所と契約を交わしたんだ。2年の短期間だけどね。出発は明日だよ。準備は僕がしておくから今日はゆっくり休んで」
「れいちゃん!」
「――唱歌(しょうか)」
感情のすべてをそぎ落とした声で呼ばれた名前に全身の血が凍りついてしまう。身動き一つできなくなって、冷たさだけを宿す瞳を見ているしかなくなる。
「僕は君を失ったら、なにをするかわからないよ」
ぎくりと身体が強張る。
聞こえなくなったと思っていたあの歌が頭の中によみがえってくる。
――きみを、きみだけを。
失ったら、生きていけないほどに。
「……ズルイよ」
血が繋がっていないとはいえ、たったひとりの身内で、大切なひとで、失えないのは同じなのに。
自分の存在と引き替えにするのはズルイ。
「ずるいよ、れいちゃん……」
視界が歪む。
頬を伝う熱い滴を、彼の手がそっと拭う。
見下ろしてくる瞳からは冷たさが消えて、代わりに悲しみが宿っていくことに気づく。
深い悲しみと、なにかを抑えこむような、苦しみと――。まるで親に置いてけぼりにされる子どもが縋り付くときのように。
ひどいことを言われているのはわたしなのに、胸が痛んで切なさを感じる。
「そうだね」
彼が同意する言葉を口にした瞬間には、その瞳からは感情は拭われていて、再び冷たさを纏う。
代わりに、と事務的な口調で続ける。
「僕が作ったあの歌はやめていい。そうだな……、曲は一般から募集しよう。その中で君が気に入った曲に、君が歌詞をつけて歌う。どう?」
2年、アメリカに大人しくついていくことが条件。
自由に歌いたいという願いは叶う。彼と離れていたいという気持ちさえ抑えてしまえば。
頬に触れていた手がふっと唇を撫でていることに気づいて息を呑む。
「れいちゃんっ?!」
「うなずくなら、僕はもう気持ちを抑えることもしない。向こうでは一緒の寝室になる。その意味わかるよね」
一気に血の気が引くのを感じる。
あまりの衝撃に呆然と見返していると、彼は唇から手を離して、肩に置いた。手のひらから伝わってくる熱に、目眩が起きそうになる。
「断っても、アメリカには連れていく。そのときはもちろん、僕の作った歌を唄ってもらう。その代わり、君には手を出さない。今まで通り、気持ちを抑えて、兄として接するよ」
「そんなのっ!」
身勝手だ。身勝手すぎる。
突きつけられた条件は、あまりにもワガママ過ぎて。そうわかっていても、拒否することはできない。
一度逃げ出した代償にはあまりにも大き過ぎる。
あんたの歌を聞かせてくれよ。
温かかった気持ちがまるで、降りしきる雪に包まれていくみたいに、失われていく。胸に灯った火が消えてしまう。
せめて、確かに生まれたはずの想いを失いたくなくて、なかったことにしたくなくて。逃げたくなくて。
まっすぐ彼を見つめ返して、うなずいた。
――うなずくしかなかった。
小さな窓から眺めていたら、雪がまるで羽根のようにふわりふわりと舞っていることに気づいた。
「雪、降ってきたね」
思わず呟くと、隣から身を乗り出してきて、覗き込むように彼が外を見る。
「心配ないよ。これくらいなら飛べるから」
そう言ってすぐに自分の椅子の背もたれに寄りかかる。席に座ってすぐにもらったひざ掛けを顔半分くらいまで引き上げて目を瞑る様子に「眠るの?」と尋ねると、小さな頷きが返った。
「少し具合がよくないんだ。軽い睡眠薬を貰ってさっき、飲んでおいたから、眠るよ。着く頃には起きると思う」
くぐもった声はほんとうに苦しそうで。
「――わかった、おやすみ」
大丈夫かどうか尋ねないのは、意地でもあった。
この飛行機に乗ってアメリカに行くのはけして本意じゃない。
そうは言っても、彼に怒りや憎しみをもてるわけでもない。だから彼を心配しないのは、せめてもの抵抗のつもりで。
それさえも見透かしたように、彼はふっと小さく笑って、肘掛においていたわたしの手を握って言った。
「離陸するまでは起きてるから、逃げられないよ」
ぐっと喉元が締め付けられたみたいに苦しくなる。
握られている手から意識を逸らすために、再び視線を窓の外に向けた。
「逃げないよ」
どんなに逃げたくても、自分からは逃げ出せない。
だったら、変えるしかない。
逃げられない場所で、少しづつでも――。
窓から降る雪を眺めていると面影が浮かぶ。
器の大きかった和尚様。可愛らしく、なにもかもに一生懸命だったゆきちゃん。そうして、まぁくん。
――俺と、踊ってくれますか?
雪の冷たさも、時間も忘れて、身体を寄り添い踊ったダンス。
長い長い階段を手を繋いで降りたときに手のひらから伝わってきた温もり。
『逃げないよ』
向き合うことの大切さを教えてもらったから。
たとえ、この先でなにがあったとしても、もう逃げ出さない。
いつかまた必ず会えると信じて、今はそっと目を閉じた。