Scene2
いったいどーなってんのよ!
思わず叫びだしたい気持ちになって、さすがにご近所迷惑かと代わりに溜息を吐き出す。重い重いそれは、地面の更に底まで沈んでいきそう。
初恋にさよなら、したのはいい。自分で納得してやったことだから。まだ諦めもつく。ついでに、その帰り道に拾いものをしたことも、自然の成り行きだ。放っておけなかった自分の性格がほんの少し恨めしい。そうして、拾った少年が記憶喪失。なんてこったい。おーまいがっ。
必死に看病して、異常な熱がひいて、目が覚めた彼は、名前も家も、過去のなにひとつ覚えちゃいなかった。
覚えちゃいないものを再び放り出すわけにはいかず、幸いにもウチには客室くらいはあるし、唯一の家族であるはずの父親はどっかの国を放浪中。男手があっていいか、と置いてあげることにした。そこまでは人としての、厚意。
けっして、顔が男前だったからじゃない。髪は金髪、なのに目は真っ黒ってことはどう考えても染めているとして、顔形は左右対称きっちり整っている。顎の骨格がほっそいとことか、目が切れ長のとことか全体的にきっつい印象があるけれど、世に言う美形俳優が真っ青になること間違いなしの、美形だ。最も、幼い頃から老若男女問わず見惚れてしまって、モデルにしたいと芸術家たちが殺到し、更には誘拐なんて日常茶飯事で、氷の王子様なんつー別称まで戴く幼馴染が傍にいて、あまつさえ、わたしだけには、にっこり笑ってくれていたから、それに劣らず彼が美形だったとしても、そうほんとうに関係ない。
純粋に厚意だ。それなのに。なのに、――なのにっ。
この男――たぶん、わたしとは同い年かひとつふたつの違いに違いないんだけど――どんだけ我侭なのよっ!
口を開けば、『お茶』『腹減った』『着替え』『寝る』といった単語のみ。急須も、茶っ葉も、湯飲みも知らない。ついでに茶碗も、漬物も、味噌汁も、あげく、せんべえ布団も知らないって、どこからきた宇宙人よ!
油断したら靴のまま部屋にあがってこようとするし、着替えは放り出したままにするし。歩いて5分の距離さえ、車はないのか、と言い出したり、一般常識を教えていない親の顔が見てみたい。数え切れないほど心底、そう思って、だけど幸い、というか、不幸にというか。そういう人種には心当たりがあった。
まったくもって、幼馴染の――まぁ、彼の場合はいつもわたしといたせいで、首をひねりひねりしながら、わたしに合わせてくれたし、それを楽しんでくれていた。
って、せっかく忘れようと心に決めたのに、思い出させないでほしいっ。
切実に願いながら、とりあえず、記憶喪失の男に関しては飴と鞭を使い分けて庶民の常識を調教してやった。――自分でも自分を褒めたいくらいだ。
そのなかで、気づいたのは、彼の素直なところや意地っ張りではあるけど、意外に優しいところ。
初恋を失って、ぽっかりと空いた場所に、その優しさは少しづつ、少しづつ入り込んで、わたしの心を温めてくれていた。
「深愛(みあい)、見ろ。今日のディナーは俺の手作りだ」
得意げに胸を張る男がじゃじゃーん、と差し出してきたのは、ほぼ黒焦げの、さんま。最初が炭と化していたり、丸焦げだったり、逆にナマだったことを考えれば、ほぼ黒焦げなのは成長の証。内心の悲壮は出さずに、なるべく明るく頷いてみせる。
「う、うん。ま、あ。ポチにしては上出来じゃないの……」
「おまえ、いい加減にポチはやめろっ!」
名前が呼べないのは不便だからと、決めた呼称。
最初の我侭かつ傍若無人な態度を振り返れば、ポチでさえ勿体無い。だが、テレビを見ていてポチが犬によくつけられる名前だと知った彼は、早速抗議してきた。もちろん、却下したけど。
「いいじゃん、あんたポチくらいつけなきゃ、かわいくないもん」
「てめぇ」
「ほら、いいから食べよ。お腹すいたんだ。デザートにあとで桃を剥いてあげるから」
「――ほんとうかっ?!」
怒りに染まっていた顔が急にきらきらと喜びに変わる。
まさに、ご馳走を前にした犬のような態度に、思わず噴き出しそうになる。ここで笑ってしまえば、また不機嫌になることがわかってるから、わたしは「ほんとうだよ」と頷いて、ほぼ焦げのさんまに箸をつける。ちょっとかためのご飯も、たまに味噌の塊りがそのままある味噌汁も、ひとりで食べるよりは美味しくて、単純な彼と一緒に食べるご飯にいつも胸がいっぱいになっている。