ForestLond

森を夢見る恋人たち (7)

 なぜ、この人はこんなにも悲しい表情をしているの?

 目を開けた瞬間、見えたそのヒトの顔に。
 胸が痛んだ。


「覚えてること?」
 何か覚えてないか、と質問してきた男は、アルベルト、と名乗った。

 突然、目の前に現れてきたときには。
 恐怖の対象でしかなかった。
 手を差し伸べてくる、その姿が。怖くて。でも、今。目の前で、気遣うように見つめてくるアルベルトを見ていると、可哀想な想いが浮かんできた。まるで、捨てられた猫のようだ、と。

 アルセリアは一旦、目を閉じた。心を落ち着ければ、何か手がかりを見つけることができるかもしれないと思ったから。
 だけど、その思惑もはずれて。アルセリアは目を開けると、一言だけ告げた。

「…………ごめんなさい」

 落胆するか、と思った。
 きっと肩を落として、がっかりするだろうと。
 けれど、アルセリアの思惑を外して、アルベルトはただ、「そうか」と頷くと、視線をベットの向こうにある窓へと向けた。

 想像した姿を見せなかったアルベルトの姿に、戸惑う。
 落胆するわけでもなく、更に追及するわけでもなく。
 部屋から出て行こうともせずに、ただ傍の椅子から動こうとしないアルベルトにどう接すればいいのかわからなかった。
 アルセリアにできたのはただ、俯くことだけ。

 重い沈黙が二人の間に落ちる。

 だけど、とアルセリアは思い直した。
 記憶がなくて。自分の名前さえ覚えていないのに、不思議と不安はなかった。
 最初にアルベルトを見たときと違って、二度目に目を開けたとき、アルベルトの姿を見て、確かに自分は安心したような気がする。今も、二人っきりでいても嫌じゃないどころか、なぜか安心していた。
 そうなると、アルセリアの本来もっている好奇心が疼きだす。

「 ――― あのっ、」
 先に沈黙を破ったアルセリアに驚いたのか、ハッと我に返ったようにアルベルトは視線を向けた。

「どうした?」
「アルベルトと私って、その……恋人同士だったの?」

 自分で訊いていながら、頬が熱くなるのを感じた。

 「そういう知識は残ってるんだな、」と苦笑しながら、アルベルトはふと、また視線を遠くへ投げた。

「俺は、」
 どこか躊躇うような口調でアルベルトは口を開いた。

「愛していたよ。もちろん、今も気持ちは変わらない」

 そう告げた瞬間は、まっすぐと見つめてくるアルベルトの瞳があった。
 まるで、胸を貫くような言葉で。そこに嘘の一欠けらも見つけられないほど、その声には真剣な響きがあった。

「そ、そうなんだ……」

 思わず恥ずかしくなって、アルセリアはまた俯いて、高鳴る胸の動悸を抑えようと、そっと胸に手を当てた。
 その耳にアルベルトの切なげな声が続いて届いた。

「でも、君が ―― アルセリアが俺を愛していたかどうかはわからないんだ」

 驚いて顔をあげる。
 視線が合うと、アルベルトは弱々しい笑みを浮かべた。

「今、君にこんなことを言うのはフェアじゃないな。すまない」

 唐突な謝罪に慌てて首を横に振る。
 アルベルトは全然、悪くない。謝るべきはきっと、自分だ。
 忘れてしまったことが悔しかった。悲しくて、寂しくて。涙が浮かぶ。それでも、頭を左右に激しく振り続けていると、アルベルトが焦ったように言う。

「アルセリア! もういい、わかった。わかったから、落ち着け」
「ちがうのっ!」

 アルセリアは思わず、否定の言葉を口にしていた。
 自分でも驚くほど大きな声で。
 アルベルトの小さく息を呑む音が聞こえた。

「あなたの言葉を ―― 私があなたを愛していたかどうか、って言葉に返したい想いが、言いたい言葉がこの、胸の中にあるのっ」

 ぎゅっ、と。我知らず、アルセリアは胸の前で手の平を握り締める。
 苦しくて、苦しくて。胸が ―― 心が、押し潰されそうだった。

「でも、思い出せないから。忘れてしまったから。ただ……、胸がもやもやしてるだけで、見つけられなくて…………」

 できるなら、この胸の中にある全てを曝け出したい。
 このヒト ―― アルベルトにこんな辛そうな顔をさせたくない。その想いはあるのに、どんなふうに伝えれば、それが叶うのか。今のアルセリアには何もわからなかった。

 ただ、もどかしくて。

「 ――――― ?!」

 不意にふわり、とアルセリアはぬくもりを感じた。
 気づいたときには、アルベルトの腕の中にいた。

「いいんだ。焦るな。俺は、……今は、ただ君に怯えられなければいい。恐れられなければ、それだけでいいんだ」

 耳元で、囁くように落ちてくる言葉が優しく響く。
 それだけで、安心できるような気がした。
 大人しくその腕の中におさまって、小さく頷く。ほっ、と安堵するような息がアルベルトの唇から零れ落ちるのがわかった。
 その感触が、くすぐったくて身を捩る。

「あ……、すまない」
 慌てたように、アルベルトが身を離した。

 顔をあげると、戸惑っている表情が浮かんでいるのを見つけて、アルセリアはくすりと笑みが零れるのを堪えることができなかった。

「私 ―― 、」
 平気よ。

 そう伝えようとした矢先、不意にずきん、と頭が痛んだ。
 警告の鐘のように、ただ痛みだけがアルセリアを襲う。

「アルセリア? どうした?!」
「……いたっ、」

 急に頭を抱えて蹲ったアルセリアに、心配するアルベルトの声がかかる。

(鍵を、)

 アルセリアの脳裏に、声が響く。アルベルトのものとは違う、鋭い音を含む声。

「……か、…ぎ?」
 ――― ぐぅ。
 声の発した言葉を口に出した途端、吐き気が襲う。
 頭の中に鳴り響く音が、アルセリアを責める。

「アルセリア?」
 心配そうに覗き込んでくるアルベルトの瞳が、目の前に見える。
 アルセリアはぎゅっ、とアルベルトの服を掴んだ。

「……返して、鍵を。……返して、」
 呻くように、アルセリアはそう言葉を繰り返した。
 アルベルトの顔が突然、驚きに染まる。

「……あなたは ―――― 」
 ふと、アルセリアの意識は深い暗闇の中へと沈んだ。



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